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夏休みの間

62.怖くてちびる。

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 お兄さんの言葉には、思い当たることがある。
 彼の父親がすごく大きな声で息子の名を呼ぶときは怒っているときで、そんなときに叱られようものなら、パンツがびしょぬれになることがあるくらいに怖い。
 でも、怒っていなくても大きな声で呼びつけることがある。
 それはたとえば父親が、

『龍は自分から遠くに離れた所にいるのだろう』

 と思い込んでいるようなときだ。
 そう言うときの呼び声は、ものすごく怒っているときの声によく似ている。
 だから本当はすぐ近くにいた龍は、曲げた金定規スケールが戻るみたいな勢いで、背筋と手足を伸ばす。そのまま硬直して動けない。
 運が悪いとそのときに手にしていた物を落として壊したり、ホントに叱られたときと同じに小水おしっこをちびったりしてしまい、そのセイで本当に叱られてしまうことだってある。

「それは君が、それより前に実際に大きな声で叱られて怖かったときのことを憶えているからだよね」

 龍はいつだったか父親が、商工ショーコー会議所カイギショの人たちと旅行のお土産に買ってきた張り子の赤い牛みたいに何度もうなずいた。

「つまり君は、本当に叱られたときとよく似たことが起きたから、怖いことを『思い出した』んだ。
 思い出すまでは怖かったことを『忘れて』いる。
 忘れている間は、怖くない」

 シィお兄さんは正面の赤信号をじっと見たまま、優しい声で言った。龍は米搗こめつき飛蝗バッタみたいにうなずいた。

「だから忘れることは大切なことなんだ。
 いつでも何処でも怖いことを思い出してしまうようじゃぁ、何をするのも怖くって何もできなくなってしまう」

 信号が青に変わり、お兄さんはアクセルを軽く踏んだ。車がゆっくりと動き出す。そのゆっくりに合わせて、お兄さんもゆっくり話を続ける。

「そういうわけだから、人間の脳みそは、ものすごく辛いことやものすごく悲しいことを忘れたり、思い出さずにいられるようにする素晴らしい機能があるんだよ。
 そんな素晴らしい機能だけれど、強く作用してしまうと、ものすごく辛い思いをした時に、その辛かったことや、つらかったことの前と後ろの出来事を全部忘れさせてまうことがある。たまーに、だけどね。
 例えば、大きな事故で大きな怪我をして、ものすごく痛がっているけれど意識はあって、救急車の人とかお医者さんとかとしっかり会話をしていた人が、手術が終わって目が覚めたら、何で自分が入院している理由が分からなくなったり……そんなことがあるんだ」

「不思議」

 ちょっとだけ唾が出て、前よりは湿った龍の口の中から、一言だけ言葉が出た。
 シィお兄さんは小さくうなずいた。

「叔母さんも、そうだった。
 寅が死んでしまったとき、叔母さんはとても悲しそうだったし、悔しそうだったりしたけれど、お坊さんやお葬式に来てくれた人や、家族と普通に話しができた。
 お墓にお骨が入るまでの間も、普通に起きて、普通にご飯を炊いて、普通にお掃除をして、普通に暮らしていた。
 でも、小さな寅の小さなお骨がお墓の中に入ったその次の日――。
 眠って起きた叔母さんは、全部忘れていた。
 寅の納骨のこと、お線香をあげに来てくれた人のこと、お葬式のこと、病院のこと、事故のこと。
 そして、寅という子供が生まれて来た事も」
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