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夏休みの間
63.死んでいる子供、生きている子供。
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龍の身体はドアの方にぐいと引っ張られた。車が三叉路を鋭角にギュギュッと曲がった。
「叔母さんは寅が死んでしまった悲しいことと一緒に、寅が生まれた嬉しいことも忘れてしまった。
だって、生まれたことを憶えていたら、死んでしまったことも思い出してしまうからね。
いろんな事を忘れようとしたせいで、叔母さんの心の中は壊れてしまった。
タイミングがいいというか、悪いというか、ちょうどその時、叔母さんのお腹の中にはヒメコがいたんだ。
だから叔母さんは、寅がまだ生まれていなくて、自分のお腹の中にいると思い込んだ。
それで、叔母さんはお腹の中のヒメコに寅と呼びかけた。ずっと生まれてくるのを待っていた、元気な男の子の寅、と。
そうすると、叔母さんの心のバランスがすこし良くなったんだ。
それはまるで、折れた椅子の脚に、違う棒きれを継ぎ足したみたいな、へんてこなバランスだったけれども、ともかくフツウに暮らして行けるようにはなった。
ヒメコが生まれたとき、叔母さんは寅を産んだときの『うれしさ』を思い出した。でも『寅のことそのもの』を思い出すと、本当は寅が死んでしまった事も思い出してしまうから、それは思い出せなかった。
生まれた赤ちゃんは、叔母さんにとっては寅だった。
寅と呼んで、寅として育てた。だから生まれた赤ちゃんは寅になった。
そうならなきゃいけなかった」
「だから『トラ』は僕に自分の名前を『トラ』って言ったのか」
龍は下を向いて、ぽつりとつぶやいた。シィお兄さんはちょっとびっくりした声音で
「あの子、君に寅って名乗ってたのかい?」
龍に訊ね返した。
「うん」
「それは、珍しいな」
今度はお兄さんがぽつりとつぶやいた。ものすごく不思議だな、というような調子の声だった。
「めずらしいんですか?」
龍が質問し返すと、お兄さんは小さくうなずいた。
「ヒメコは本を読むのが好きな子でね」
質問の答えとは違うことを、シィお兄さんがしゃべり始めたので、龍はちょっとおどろいした。けれども、お兄さんの顔はすごく真剣だったから、何も言わずに一回小さくうなずいた。
「叔母さんがあの子を外に出したがらがらないから、家にいて本を読むより仕方がないからなんだけれどね」
「外に出してもらえないんですか?」
今度の質問には、龍が待っていたのとぴったり合う答えが返ってきた。
「叔母さんは目の届く範囲にあの子を置いておきたがっているからね。
あの子の姿が見えなくなると、叔母さんは……本当の寅が死んだときのことを思い出すらしくて……パニックになる」
龍の頭の奥に「トラ」のお母さんが泣き叫ぶ姿が浮かんだ。
場所は学校の用具室の前にも思えたし、池の畔のようにも見えたし、ぜんぜん知らない駐車場みたいな場所にも思えた。
お兄さんは左の手の甲で、鼻の下をごしごしとこすった。龍には、シィお兄さんの目が少しだけ赤いように見えた。
「叔母さんは寅が死んでしまった悲しいことと一緒に、寅が生まれた嬉しいことも忘れてしまった。
だって、生まれたことを憶えていたら、死んでしまったことも思い出してしまうからね。
いろんな事を忘れようとしたせいで、叔母さんの心の中は壊れてしまった。
タイミングがいいというか、悪いというか、ちょうどその時、叔母さんのお腹の中にはヒメコがいたんだ。
だから叔母さんは、寅がまだ生まれていなくて、自分のお腹の中にいると思い込んだ。
それで、叔母さんはお腹の中のヒメコに寅と呼びかけた。ずっと生まれてくるのを待っていた、元気な男の子の寅、と。
そうすると、叔母さんの心のバランスがすこし良くなったんだ。
それはまるで、折れた椅子の脚に、違う棒きれを継ぎ足したみたいな、へんてこなバランスだったけれども、ともかくフツウに暮らして行けるようにはなった。
ヒメコが生まれたとき、叔母さんは寅を産んだときの『うれしさ』を思い出した。でも『寅のことそのもの』を思い出すと、本当は寅が死んでしまった事も思い出してしまうから、それは思い出せなかった。
生まれた赤ちゃんは、叔母さんにとっては寅だった。
寅と呼んで、寅として育てた。だから生まれた赤ちゃんは寅になった。
そうならなきゃいけなかった」
「だから『トラ』は僕に自分の名前を『トラ』って言ったのか」
龍は下を向いて、ぽつりとつぶやいた。シィお兄さんはちょっとびっくりした声音で
「あの子、君に寅って名乗ってたのかい?」
龍に訊ね返した。
「うん」
「それは、珍しいな」
今度はお兄さんがぽつりとつぶやいた。ものすごく不思議だな、というような調子の声だった。
「めずらしいんですか?」
龍が質問し返すと、お兄さんは小さくうなずいた。
「ヒメコは本を読むのが好きな子でね」
質問の答えとは違うことを、シィお兄さんがしゃべり始めたので、龍はちょっとおどろいした。けれども、お兄さんの顔はすごく真剣だったから、何も言わずに一回小さくうなずいた。
「叔母さんがあの子を外に出したがらがらないから、家にいて本を読むより仕方がないからなんだけれどね」
「外に出してもらえないんですか?」
今度の質問には、龍が待っていたのとぴったり合う答えが返ってきた。
「叔母さんは目の届く範囲にあの子を置いておきたがっているからね。
あの子の姿が見えなくなると、叔母さんは……本当の寅が死んだときのことを思い出すらしくて……パニックになる」
龍の頭の奥に「トラ」のお母さんが泣き叫ぶ姿が浮かんだ。
場所は学校の用具室の前にも思えたし、池の畔のようにも見えたし、ぜんぜん知らない駐車場みたいな場所にも思えた。
お兄さんは左の手の甲で、鼻の下をごしごしとこすった。龍には、シィお兄さんの目が少しだけ赤いように見えた。
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