あの日、最高の婚約破棄を。

八雲

文字の大きさ
1 / 28

1

しおりを挟む
「ファルル・ボナパルト! 貴様のような冷酷な女との婚約は、今この瞬間をもって破棄させてもらう!」

きらびやかなシャンデリアが輝く夜会の中心で、第一王子シリウスが声を張り上げた。

その隣には、彼に守られるようにして震える男爵令嬢リリアンの姿がある。

周囲の貴族たちは一斉に息を呑み、憐れみと好奇の視線を一人の令嬢へと向けた。

公爵令嬢ファルル・ボナパルト。

彼女は、手にした扇をゆっくりと閉じると、感情の読めない瞳で婚約者を見つめた。

「……婚約破棄、でございますか?」

「そうだ! 言い逃れはさせんぞ。リリアンに対する数々の嫌がらせ、そして王族である俺への不敬な態度……。貴様の罪は枚挙に暇がない!」

シリウスは、まるで劇場の主役を演じているかのように、ドラマチックな身振りで彼女を指差した。

対するファルルは、ドレスのポケットから銀の懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開けた。

「……午後九時十五分。予定より三十分ほど早いですね。ですが、許容範囲内です」

「な……何をブツブツと言っている! ショックで頭が狂ったか?」

「いいえ。ちょうど今、本日分の『王子のスケジュール管理』および『各部署への根回し』という業務がすべて完了したところですので、タイミングとしては完璧だと思いまして」

ファルルは懐中時計をしまい、ふぅ、と深く、あまりにも深い、魂の底から絞り出したような溜息をついた。

「承知いたしました。婚約破棄、謹んでお受けいたしますわ」

「は……? そんなに簡単に認めるのか? もっとこう、泣き叫んでリリアンに謝罪するとか、俺の足に縋り付いて許しを乞うとか、あるだろう!」

「いえ、結構です。面倒ですので」

ファルルのあまりにも淡々とした返答に、会場全体が静まり返る。

隣で「ヒロイン」を演じていたリリアンも、目を見開いて硬直していた。

「シリウス殿下。確認ですが、これは殿下からの一方的な破棄、つまり私側の非による『解雇』ではなく、双方合意の上での『契約終了』ということでよろしいですね?」

「解雇だと……? 貴様、婚約を何だと思っている!」

「仕事ですわ。それも、超ブラックな、残業代ゼロの、二十四時間拘束される地獄のような激務です」

ファルルは一歩前へ踏み出し、指を折りながら語り始めた。

「殿下、思い出してください。毎朝五時にあなたを叩き起こし、寝癖を直し、その日の予定を三回説明しても忘れるあなたの脳内に無理やりスケジュールを叩き込んでいたのは誰だと思って? 私ですわ」

「そ、それは婚約者として当然の務めだろう!」

「他国の使節団が来た際、あなたが居眠りをしている横で、完璧な語学を駆使して外交交渉を成立させていたのは? 私です。あなたが遊び呆けている間に溜まった、山のような決済書類を代わりに処理していたのは? 私と、私の家の執事たちです」

一気にまくしたてられたシリウスは、数歩後ずさった。

「さらには、あなたが勝手に買い込んだ高価な魔導具の支払い調整、リリアン様との密会を隠蔽するためのルート確保……。あぁ、思い出すだけで胃に穴が空きそうですわ」

「そ、それは……だが、リリアンは俺に安らぎをくれたんだ! お前のような冷徹な事務処理機とは違う!」

リリアンが勝ち誇ったように、シリウスの腕に胸を押し付けた。

「そうですわ、ファルル様。シリウス様は、愛を求めていらっしゃるのです。書類の完璧さではなく、心の温もりを……!」

「どうぞどうぞ、存分に温め合ってくださいませ。その温もりが、明日の朝食時に『あれ、今日着る服の準備ができてないぞ?』という絶望に変わる瞬間を、私は心から楽しみにしておりますわ」

ファルルは優雅にカーテシーをした。

その顔には、今まで一度も見せたことのないような、晴れやかで美しい微笑みが浮かんでいる。

「これにて、私は『第一王子の婚約者』という役職を円満退社させていただきます。引き継ぎ資料は、後ほど殿下の机の上に(ダンボール三箱分)置いておきますので、自力で読み解いてくださいね」

「待て! ダンボール三箱分だと!? そんなの読めるわけがないだろう!」

「あら、リリアン様がいらっしゃるのでしょう? 『真実の愛』があれば、難しい行政用語や予算案の数字だって、甘いお菓子の名前にでも見えるのではありませんか?」

ファルルはくるりと背を向け、出口に向かって颯爽と歩き出した。

「おい! まだ話は終わっていない! ファルル!」

背後でシリウスが叫んでいるが、彼女の耳にはもう届かない。

会場の端で待機していた、公爵家の有能すぎる執事セバスが、素早く扉を開けた。

「お疲れ様でございました、お嬢様。お車のご用意はできております」

「セバス、最高にいい気分よ。明日の朝は、十時まで寝かせてちょうだい」

「承知いたしました。お嬢様のご快眠のために、王宮からの緊急連絡はすべて『迷子センター』に転送するよう手配済みでございます」

「ふふ、気が利くわね」

重厚な扉が閉まると同時に、背後の騒音は遮断された。

夜風を浴びながら、ファルルは大きく伸びをする。

「あぁ……自由って、なんて素晴らしいのかしら!」

悪役令嬢と呼ばれた女の、本当の「余生」が今、幕を開けたのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

聞き分けよくしていたら婚約者が妹にばかり構うので、困らせてみることにした

今川幸乃
恋愛
カレン・ブライスとクライン・ガスターはどちらも公爵家の生まれで政略結婚のために婚約したが、お互い愛し合っていた……はずだった。 二人は貴族が通う学園の同級生で、クラスメイトたちにもその仲の良さは知られていた。 しかし、昨年クラインの妹、レイラが貴族が学園に入学してから状況が変わった。 元々人のいいところがあるクラインは、甘えがちな妹にばかり構う。 そのたびにカレンは聞き分けよく我慢せざるをえなかった。 が、ある日クラインがレイラのためにデートをすっぽかしてからカレンは決心する。 このまま聞き分けのいい婚約者をしていたところで状況は悪くなるだけだ、と。 ※ざまぁというよりは改心系です。 ※4/5【レイラ視点】【リーアム視点】の間に、入れ忘れていた【女友達視点】の話を追加しました。申し訳ありません。

《本編完結》あの人を綺麗さっぱり忘れる方法

本見りん
恋愛
メラニー アイスナー子爵令嬢はある日婚約者ディートマーから『婚約破棄』を言い渡される。  ショックで落ち込み、彼と婚約者として過ごした日々を思い出して涙していた───が。  ……あれ? 私ってずっと虐げられてない? 彼からはずっと嫌な目にあった思い出しかないんだけど!?  やっと自分が虐げられていたと気付き目が覚めたメラニー。  しかも両親も昔からディートマーに騙されている為、両親の説得から始めなければならない。  そしてこの王国ではかつて王子がやらかした『婚約破棄騒動』の為に、世間では『婚約破棄、ダメ、絶対』な風潮がある。    自分の思うようにする為に手段を選ばないだろう元婚約者ディートマーから、メラニーは無事自由を勝ち取る事が出来るのだろうか……。

沈黙の指輪 ―公爵令嬢の恋慕―

柴田はつみ
恋愛
公爵家の令嬢シャルロッテは、政略結婚で財閥御曹司カリウスと結ばれた。 最初は形式だけの結婚だったが、優しく包み込むような夫の愛情に、彼女の心は次第に解けていく。 しかし、蜜月のあと訪れたのは小さな誤解の連鎖だった。 カリウスの秘書との噂、消えた指輪、隠された手紙――そして「君を幸せにできない」という冷たい言葉。 離婚届の上に、涙が落ちる。 それでもシャルロッテは信じたい。 あの日、薔薇の庭で誓った“永遠”を。 すれ違いと沈黙の夜を越えて、二人の愛はもう一度咲くのだろうか。

鈍感令嬢は分からない

yukiya
恋愛
 彼が好きな人と結婚したいようだから、私から別れを切り出したのに…どうしてこうなったんだっけ?

〖完結〗終着駅のパッセージ

苺迷音
恋愛
分厚い眼鏡と、ひっつめた髪を毛糸帽で覆う女性・カレン。 彼女はとある想いを胸に北へ向かう蒸気機関車に乗っていた。 王都から離れてゆく車窓を眺めながら、カレンは夫と婚姻してから三年という長い時間を振り返る。 その間、夫が帰宅したのは数えるほどだった。 ※ご覧いただけましたらとても嬉しいです。よろしくお願いいたします。

とある伯爵の憂鬱

如月圭
恋愛
マリアはスチュワート伯爵家の一人娘で、今年、十八才の王立高等学校三年生である。マリアの婚約者は、近衛騎士団の副団長のジル=コーナー伯爵で金髪碧眼の美丈夫で二十五才の大人だった。そんなジルは、国王の第二王女のアイリーン王女殿下に気に入られて、王女の護衛騎士の任務をしてた。そのせいで、婚約者のマリアにそのしわ寄せが来て……。

【完】まさかの婚約破棄はあなたの心の声が聞こえたから

えとう蜜夏
恋愛
伯爵令嬢のマーシャはある日不思議なネックレスを手に入れた。それは相手の心が聞こえるという品で、そんなことを信じるつもりは無かった。それに相手とは家同士の婚約だけどお互いに仲も良く、上手くいっていると思っていたつもりだったのに……。よくある婚約破棄のお話です。 ※他サイトに自立も掲載しております 21.5.25ホットランキング入りありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ  Unauthorized duplication is a violation of applicable laws.  ⓒえとう蜜夏(無断転載等はご遠慮ください)

聖女に負けた侯爵令嬢 (よくある婚約解消もののおはなし)

蒼あかり
恋愛
ティアナは女王主催の茶会で、婚約者である王子クリストファーから婚約解消を告げられる。そして、彼の隣には聖女であるローズの姿が。 聖女として国民に、そしてクリストファーから愛されるローズ。クリストファーとともに並ぶ聖女ローズは美しく眩しいほどだ。そんな二人を見せつけられ、いつしかティアナの中に諦めにも似た思いが込み上げる。 愛する人のために王子妃として支える覚悟を持ってきたのに、それが叶わぬのならその立場を辞したいと願うのに、それが叶う事はない。 いつしか公爵家のアシュトンをも巻き込み、泥沼の様相に……。 ラストは賛否両論あると思います。納得できない方もいらっしゃると思います。 それでも最後まで読んでいただけるとありがたいです。 心より感謝いたします。愛を込めて、ありがとうございました。

処理中です...