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王宮の車寄せに停められた公爵家の馬車を前に、ファルルは最後の手続きを終えようとしていた。
手元には、流麗な筆致で書かれた『婚約解消合意書』の控えがある。
あとはこれを持って帰宅し、公爵家の印を突くだけという段階で、背後からやかましい足音が聞こえてきた。
「待てと言っているだろう、ファルル! まだ話の核心に入っていないぞ!」
肩を上下させ、息を切らして走ってきたのは、先ほど大々的に婚約破棄を宣言したはずの第一王子シリウスである。
その後ろを、可憐な足取りでリリアンが追いかけてくる。
ファルルは無表情のまま、懐中時計を確認した。
「殿下。夜会終了後の追いかけっこは、私の業務マニュアルには含まれておりません。残業代はどこに請求すればよろしいですか?」
「金の話をしているのではない! なぜお前は、俺がなぜリリアンを選んだのか、その理由を聞こうとしないんだ!」
シリウスは憤慨した様子で、ファルルの前に立ちふさがった。
「理由、ですか?」
「そうだ! 俺とリリアンの出会いは、運命だったんだ。雨の日の庭園で、泥だらけになった子猫を助けようとしていた彼女を見て、俺は……!」
「あ、すみません。その話、三行でまとめていただけますか? 今、馬車の維持費と深夜割増の計算で忙しいので」
「三行だと!? 俺たちの愛の軌跡を、たった三行で済ませろと言うのか!」
ファルルは冷ややかな目で、隣で潤んだ瞳をしているリリアンを見た。
「一、殿下が庭でリリアン様を見かけた。二、リリアン様が猫を助けていた。三、殿下の脳内で何かがスパークした。……これでよろしいですね。受理しました」
「受理したって……お前、もう少し嫉妬とか、悲しみとか、そういうものはないのか!」
「殿下、嫉妬という感情は、リソースの無駄遣いですわ。そんな暇があるなら、明日からあなたが一人で処理しなければならない『西領の干害対策予算案』の整合性をチェックした方がよほど建設的です」
ファルルの言葉に、シリウスは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「予算案……? それは、お前がやっておいてくれると言っただろう」
「それは『婚約者』としての付帯業務です。契約が解除された今、私がその書類に触れることは、国家機密の不正閲覧に当たりますわ。ですので、すべて白紙で置いてきました」
「白紙!? おい、明日が提出期限だぞ!」
「頑張ってください。応援しておりますわ。棒読みですが」
ファルルが馬車に乗り込もうとすると、今度はリリアンが袖を引いてきた。
「ファルル様! そんな言い方、あんまりです。シリウス様は、ずっとあなたの厳しさに耐えてこられたのです。私が、シリウス様の傷ついた心を癒やして差し上げたいと思った理由、分かってくださいますか?」
「リリアン様。あなたが何を癒やそうが勝手ですが、一つだけ忠告しておきます」
ファルルはリリアンの手を優しく、しかし力強く振り払った。
「この方は、癒やされれば癒やされるほど、自分では何もしない『高貴な置物』へと退化しますわ。その置物を磨き上げるのが私の仕事でしたが、これからはあなたの役目です。埃が積もって粗大ゴミにならないよう、精々気をつけてくださいませ」
「そ、粗大ゴミだなんて……!」
「おい、ファルル! 言葉が過ぎるぞ! 俺は王子だぞ!」
「ええ、元婚約者の王子様ですね。セバス、出発して」
御者台に座っていた執事のセバスが、無表情に頷いた。
「かしこまりました。殿下、リリアン様。お二人には、お祝いとして当家秘伝の『胃薬の処方箋』を後ほどお届けさせます。これからの王宮生活には必須かと存じますので」
「セバス! 貴様まで俺を馬鹿にするのか!」
「滅相もございません。ただの事実確認でございます」
馬車がゆっくりと動き出す。
シリウスはなおも何かを叫びながら追いかけてきたが、訓練された馬の速度にかなうはずもない。
窓の外に遠ざかっていく王子の姿を見送りながら、ファルルは椅子の背もたれに深く体を預けた。
「……終わったわ。本当の意味で」
「お疲れ様でございました、お嬢様。これでようやく、お肌のゴールデンタイムを守れますな」
「そうね。まずは帰って、お風呂に浸かりましょう。薔薇の香りの入浴剤、一番高いやつを使っていいわよ」
「心得ております。すでに屋敷の方には、お嬢様の『祝・独身復帰パーティー』の準備を命じてあります」
「仕事が早いわね、セバス」
ファルルは窓の外を流れる夜景を眺めた。
シリウスとの数年間は、確かに多忙を極めていた。
彼の公務を肩代わりし、不祥事を揉み消し、王族としての体面を保つために奔走した日々。
それを「愛」だと思っていた時期もあったかもしれない。
だが、今となっては、ただの「やりがいのある(が、給料の低い)仕事」に過ぎなかったと断言できる。
「理由なんて、どうでもいいのよ。彼が私を必要としなくなった。それが、私にとって最大の報酬なんだから」
ファルルは合意書を大切に抱きしめた。
これは自由への通行証であり、地獄からの退職届だ。
「さようなら、無能な王子様。これからは自分の人生という名の『利益』を追求させていただきますわ」
馬車は暗い夜道を、公爵家へと向かって軽快に走り抜けていった。
その車内には、かつてないほどの清々しい沈黙が流れていた。
手元には、流麗な筆致で書かれた『婚約解消合意書』の控えがある。
あとはこれを持って帰宅し、公爵家の印を突くだけという段階で、背後からやかましい足音が聞こえてきた。
「待てと言っているだろう、ファルル! まだ話の核心に入っていないぞ!」
肩を上下させ、息を切らして走ってきたのは、先ほど大々的に婚約破棄を宣言したはずの第一王子シリウスである。
その後ろを、可憐な足取りでリリアンが追いかけてくる。
ファルルは無表情のまま、懐中時計を確認した。
「殿下。夜会終了後の追いかけっこは、私の業務マニュアルには含まれておりません。残業代はどこに請求すればよろしいですか?」
「金の話をしているのではない! なぜお前は、俺がなぜリリアンを選んだのか、その理由を聞こうとしないんだ!」
シリウスは憤慨した様子で、ファルルの前に立ちふさがった。
「理由、ですか?」
「そうだ! 俺とリリアンの出会いは、運命だったんだ。雨の日の庭園で、泥だらけになった子猫を助けようとしていた彼女を見て、俺は……!」
「あ、すみません。その話、三行でまとめていただけますか? 今、馬車の維持費と深夜割増の計算で忙しいので」
「三行だと!? 俺たちの愛の軌跡を、たった三行で済ませろと言うのか!」
ファルルは冷ややかな目で、隣で潤んだ瞳をしているリリアンを見た。
「一、殿下が庭でリリアン様を見かけた。二、リリアン様が猫を助けていた。三、殿下の脳内で何かがスパークした。……これでよろしいですね。受理しました」
「受理したって……お前、もう少し嫉妬とか、悲しみとか、そういうものはないのか!」
「殿下、嫉妬という感情は、リソースの無駄遣いですわ。そんな暇があるなら、明日からあなたが一人で処理しなければならない『西領の干害対策予算案』の整合性をチェックした方がよほど建設的です」
ファルルの言葉に、シリウスは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「予算案……? それは、お前がやっておいてくれると言っただろう」
「それは『婚約者』としての付帯業務です。契約が解除された今、私がその書類に触れることは、国家機密の不正閲覧に当たりますわ。ですので、すべて白紙で置いてきました」
「白紙!? おい、明日が提出期限だぞ!」
「頑張ってください。応援しておりますわ。棒読みですが」
ファルルが馬車に乗り込もうとすると、今度はリリアンが袖を引いてきた。
「ファルル様! そんな言い方、あんまりです。シリウス様は、ずっとあなたの厳しさに耐えてこられたのです。私が、シリウス様の傷ついた心を癒やして差し上げたいと思った理由、分かってくださいますか?」
「リリアン様。あなたが何を癒やそうが勝手ですが、一つだけ忠告しておきます」
ファルルはリリアンの手を優しく、しかし力強く振り払った。
「この方は、癒やされれば癒やされるほど、自分では何もしない『高貴な置物』へと退化しますわ。その置物を磨き上げるのが私の仕事でしたが、これからはあなたの役目です。埃が積もって粗大ゴミにならないよう、精々気をつけてくださいませ」
「そ、粗大ゴミだなんて……!」
「おい、ファルル! 言葉が過ぎるぞ! 俺は王子だぞ!」
「ええ、元婚約者の王子様ですね。セバス、出発して」
御者台に座っていた執事のセバスが、無表情に頷いた。
「かしこまりました。殿下、リリアン様。お二人には、お祝いとして当家秘伝の『胃薬の処方箋』を後ほどお届けさせます。これからの王宮生活には必須かと存じますので」
「セバス! 貴様まで俺を馬鹿にするのか!」
「滅相もございません。ただの事実確認でございます」
馬車がゆっくりと動き出す。
シリウスはなおも何かを叫びながら追いかけてきたが、訓練された馬の速度にかなうはずもない。
窓の外に遠ざかっていく王子の姿を見送りながら、ファルルは椅子の背もたれに深く体を預けた。
「……終わったわ。本当の意味で」
「お疲れ様でございました、お嬢様。これでようやく、お肌のゴールデンタイムを守れますな」
「そうね。まずは帰って、お風呂に浸かりましょう。薔薇の香りの入浴剤、一番高いやつを使っていいわよ」
「心得ております。すでに屋敷の方には、お嬢様の『祝・独身復帰パーティー』の準備を命じてあります」
「仕事が早いわね、セバス」
ファルルは窓の外を流れる夜景を眺めた。
シリウスとの数年間は、確かに多忙を極めていた。
彼の公務を肩代わりし、不祥事を揉み消し、王族としての体面を保つために奔走した日々。
それを「愛」だと思っていた時期もあったかもしれない。
だが、今となっては、ただの「やりがいのある(が、給料の低い)仕事」に過ぎなかったと断言できる。
「理由なんて、どうでもいいのよ。彼が私を必要としなくなった。それが、私にとって最大の報酬なんだから」
ファルルは合意書を大切に抱きしめた。
これは自由への通行証であり、地獄からの退職届だ。
「さようなら、無能な王子様。これからは自分の人生という名の『利益』を追求させていただきますわ」
馬車は暗い夜道を、公爵家へと向かって軽快に走り抜けていった。
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