あの日、最高の婚約破棄を。

八雲

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馬車が公爵家の屋敷に到着するなり、ファルルはドレスの裾をまくり上げて飛び降りた。

「セバス、時間は!?」

「午前零時十五分でございます。王宮の門限、および夜勤の交代時間まで残り三十分といったところでしょうか」

「完璧ね。行くわよ、全軍突撃(オールアウト)!」

「御意」

ファルルの背後には、なぜか作業着に着替えた十数名の屈強な公爵家使用人たちが控えていた。

彼らは皆、主人の「退職」を祝福するかのように、その手には空の木箱や梱包材を抱えている。

一行は再び馬車に乗り込み、最短ルートで王宮の裏門へと引き返した。

向かう先は、ファルルが婚約者として数年間過ごしてきた、王宮内の「公爵令嬢専用執務室兼居室」である。

「お嬢様、この部屋にあるものは……」

「すべて私の私費、あるいは公爵家の予算で購ったものですわ。一点の曇りもなく、ボナパルト家の資産です!」

ファルルが扉を蹴破らんばかりの勢いで開くと、そこには豪華な家具や山のような書類が並んでいた。

「さあ、始めなさい! カーテン、絨毯、シャンデリアの電球に至るまで、一本のネジも残さず回収するのよ!」

「承知いたしました!」

セバスの合図とともに、使用人たちが神業のような手つきで部屋を解体し始めた。

「ファ、ファルル様!? こんな夜更けに何を……」

物音を聞きつけて駆けつけた若手の騎士が、あまりの光景に呆然と立ち尽くす。

「あら、ご苦労様。見ての通り、お引越しですわ。私、今日でクビになりましたの」

「えっ、クビ!? いや、しかし、その……壁紙まで剥がそうとしていませんか?」

「これ、私が特注した防音魔法付きの最高級壁紙なんですの。無能な王子のいびきを遮断するために自腹で貼ったものですから、当然持って帰りますわ」

「そ、そうですか……」

「あ、そこの棚にある青いファイルは置いておいていいわよ。それは殿下が明日泣きながら読むことになる『絶望の詰まった業務指示書』だから」

ファルルはテキパキと指示を飛ばしながら、自分でも宝飾品を箱に放り込んでいく。

作業開始からわずか十五分。

先ほどまで豪華絢爛だった部屋は、いまや引越し直後の空き家のように殺風景な空間へと変貌していた。

「セバス、あちらの応接セットは?」

「すでに解体し、馬車に積み込み完了しております」

「素晴らしいわ。ところで、あの机の引き出しにある『王子の弱点メモ』は持ったかしら?」

「はい。万が一、復縁を迫られた際の『物理的・社会的抹殺用資料』として、最優先で金庫へ保管いたしました」

「さすがね。抜かりがないわ」

ファルルは最後に、ガランとした部屋の中央に立ち、満足そうに頷いた。

そこへ、騒ぎを聞きつけたシリウス王子が、寝巻きにガウンを羽織っただけの情けない姿で現れた。

「ファ、ファルル! 何事だ、この騒ぎは! 俺の城で何をやっている!」

「あら、シリウス殿下。ちょうどいいところに。お忘れ物がないか確認していたところですわ」

「確認だと!? 部屋が、部屋が裸になっているではないか! 俺が贈ったあの高価な花瓶はどうした!」

ファルルは手元の目録を指先で弾いた。

「あの花瓶は、殿下が私の誕生日に『俺のセンスを褒めろ』と仰って、代金は公爵家へツケにしておいたものですね。つまり、支払ったのは私です。ですので、回収いたしました」

「な……! な、なら、あの座り心地の良いソファは!」

「殿下がこぼしたワインで汚れたので、私がクリーニング代を出し、ついでに買い替えたものです。私のものです」

「そんなバカな! この部屋にあるものは、すべて王宮の……!」

「いいえ。王宮の備品は、そこの古びた木の椅子一脚だけでしたわ。それはちゃんと残しておきましたので、どうぞご自由にお座りください」

ファルルは、ポツンと残された、ガタつきのある椅子を指差した。

それは、彼女がこの部屋に来る前からあった、唯一の「王室資産」だった。

「では殿下、今度こそ失礼いたします。明日の朝、リリアン様とこの空っぽの部屋で、素敵なティータイムをお楽しみください。あ、茶葉もカップも、お湯を沸かす魔導具も、すべて私の私物ですのであしからず」

「待て! 行くな! せめてカーテンだけでも置いていけ! 外から丸見えだろうが!」

「どうぞ、王族としての高貴なプライバシーを、自らの魔力で守ってくださいませ。ごきげんよう!」

ファルルは優雅に一礼すると、セバスが捧げ持つ最後の一箱を手に、悠々と廊下を歩き去った。

背後からシリウスの「明日からどうすればいいんだー!」という絶叫が聞こえてきたが、それは最高のBGMとして彼女の耳に響いた。

馬車に乗り込むと、東の空がわずかに白み始めていた。

「お嬢様、すべて完了いたしました。現在、ボナパルト家所有の資産は、王宮内から一滴のインクに至るまで排除されております」

「ふふ、いい仕事だったわ。セバス」

ファルルは馬車の窓から、遠ざかる王宮を見上げた。

数年間、彼女はこの場所で「完璧な婚約者」を演じるために、自分の時間も資産も、能力もすべてを注ぎ込んできた。

それが今、物理的にも精神的にも、完全に空っぽになったのだ。

「さあ、おうちに帰りましょう。そして、泥のように眠るのよ!」

「承知いたしました。お嬢様。……ところで、回収した壁紙はどうされますか?」

「そうね……。実家の犬小屋の裏張りにでも使ってちょうだい。防音性能だけは確かだから」

ファルルは愉快そうに笑い声を上げ、朝焼けの中を駆け抜ける馬車の中で、深く目を閉じた。
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