4 / 28
4
朝日が王宮の尖塔を黄金色に染め始める頃、ファルルを乗せた馬車の列が、正門へと差し掛かった。
門を警護するのは、勤続二十年のベテラン門番、ハンスである。
彼は、早朝から大荷物を積んで出て行こうとする公爵家の馬車を見て、怪訝そうに窓を叩いた。
「これはファルル様。こんなお早い時間に、どちらへお出かけで?」
窓から顔を出したファルルは、夜明けの光を浴びて、信じられないほど爽やかな笑顔を浮かべていた。
「おはよう、ハンス。お出かけではなく、お引越しですわ。私、今日からただの『ファルル・ボナパルト』に戻りますの」
「お引越し……? まさか、殿下との婚約は……」
「ええ、昨夜の夜会で華々しく破棄されましたわ! というわけで、これからは不法侵入にならないよう、実家から通うことにしました。あ、通うと言っても仕事ではなく、たまに観光に来る程度でしょうけれど」
ハンスは絶句し、手に持っていた槍を危うく落としそうになった。
「そ、そんな馬鹿な! ファルル様がいなくなったら、この城の門限管理はどうなるんです!? 殿下が夜遊びから帰ってくるたびに、誰が説教をして、誰が私の残業申請に判を突いてくれるんですか!」
「ハンス、あなたはいい人ね。これからは、自力でシリウス殿下の首根っこを掴んで、自力で王宮事務局に直談判してください。幸運を祈っているわ」
「待ってください! せめて、あの『魔法のハンコ』だけでも置いていって……!」
「ダメよ。あれ、私の私物なんですもの」
ファルルが非情にも窓を閉めようとしたその時、背後から「ファルル様ぁぁぁ!」という悲鳴のような叫び声が響いた。
駆け寄ってきたのは、王宮の侍女長を務めるマーサである。
彼女はエプロンを振り乱し、必死の形相で馬車に取り縋った。
「ファルル様! 行かないでください! 先ほど厨房から連絡があり、殿下が『俺の黄金のオムレツはどうした!』と暴れていらっしゃいます!」
「マーサ、落ち着いて。黄金のオムレツなら、レシピは厨房の壁に貼っておきましたわ。卵を三個、バターをたっぷり使って、殿下が寝ぼけている間に口に放り込めばいいだけです」
「無理です! 殿下はファルル様が焼いたものでないと『色が違う!』『形が完璧ではない!』と仰って、お皿を投げようとして……!」
「あら、それは大変。リリアン様に焼いてもらえばよろしいのでは? 愛の力で、炭でも黄金に見えるかもしれませんわよ」
ファルルは、全く同情していない声で言い放った。
マーサの顔が絶望に染まる。
「それだけではありません! リリアン様が『朝の目覚めにバラのお風呂に入りたい』と仰っていますが、バラの香油はすべてファルル様が管理されていた……」
「ええ、あれも私の私費で購入していたものですから、全部回収しましたわ。今頃、うちのセバスが荷馬車の中で優雅に香りを嗅いでいるはずよ」
「そんな……! このままでは、今日一日で王宮が崩壊します!」
ファルルは一度だけ馬車を止めさせ、身を乗り出してマーサとハンスを見つめた。
その瞳は、慈愛に満ちているようでいて、底知れない解放感に輝いている。
「二人とも、最後のアドバイスですわ。よく聞いて」
ハンスとマーサは、神の啓示を待つ信者のように身を乗り出した。
「まず、午前十時になったら、宰相閣下が青い顔をして走ってきます。その時、絶対に殿下を閣下に合わせないこと。殿下は寝ぼけて『昨日の夜会、最高だったな!』と口を滑らせ、閣下の血管を数本ブチ切らせるでしょうから」
「は、はい……!」
「次に、午後二時。隣国からの親書が届きます。これは絶対に殿下に渡してはいけません。殿下は封筒の柄が気に入らないという理由で、それを丸めてゴミ箱に捨てる癖があります。先に閣下か、王務官に渡すのよ」
「め、メモ、メモを……!」
「そして最後に。リリアン様が『寂しい』と泣き出したら、適当な宝石を一つ与えて、離宮に閉じ込めておくこと。彼女を執務室に入れたら最後、重要書類がすべてティータイムのコースターにされますわ」
二人は必死にメモを取るが、その顔はもはや死人のようである。
「それでは、私はこれで。お世話になりました!」
「ファルル様ー! せめて、せめて週に一度の『コンサルティング』だけでも……!」
「嫌ですわ。私、これから有給休暇を十何年分かまとめて消化する予定ですの」
ファルルは今度こそ窓を閉め、セバスに合図を送った。
馬車が軽快な音を立てて動き出す。
王宮の門をくぐり抜けた瞬間、ファルルの心にかかっていた「重圧」という名の重石が、跡形もなく消え去った。
「お嬢様、素晴らしい手際でございましたな。王宮の機能停止まで、残り三時間といったところでしょうか」
「三時間も持つかしら? シリウス殿下は、私がいないと靴下も左右逆に履くような方ですもの」
ファルルは馬車の背もたれに深く寄りかかり、開け放った窓から外の空気を吸い込んだ。
王宮の外は、こんなにも広い。
見慣れたはずの街並みが、今日はまるで別世界のように輝いて見える。
「自由よ……。誰のスケジュールも気にせず、誰の失態もフォローせず、誰の顔色も伺わなくていい……。なんて贅沢なのかしら!」
「公爵家の方では、大旦那様が最高級のハーブティーを用意してお待ちです。本日は一日中、テラスでお読書を楽しまれるのはいかがでしょう」
「最高ね、セバス。あ、でも、途中で寝ちゃうかもしれないわ。今の私は、三日三晩眠り続けられる自信があるもの」
「それもまた一興かと。お嬢様の休日は、誰にも邪魔させません」
馬車は、ファルルを乗せてひた走る。
背後に残してきた「王宮」という名の檻。
そこでは今頃、一人の王子が「服がない!」「メシがない!」「書類が読めない!」と叫び声を上げているはずだが、そんなことは今の彼女にとって、通り過ぎた嵐の後のそよ風ほどの価値もなかった。
「さようなら、私の黒歴史。こんにちは、私の輝かしいニート生活!」
ファルルの高らかな笑い声が、朝の街路に響き渡った。
こうして、史上最強の「悪役令嬢」は、伝説的な仕事量を残したまま、悠然と表舞台から去っていったのである。
門を警護するのは、勤続二十年のベテラン門番、ハンスである。
彼は、早朝から大荷物を積んで出て行こうとする公爵家の馬車を見て、怪訝そうに窓を叩いた。
「これはファルル様。こんなお早い時間に、どちらへお出かけで?」
窓から顔を出したファルルは、夜明けの光を浴びて、信じられないほど爽やかな笑顔を浮かべていた。
「おはよう、ハンス。お出かけではなく、お引越しですわ。私、今日からただの『ファルル・ボナパルト』に戻りますの」
「お引越し……? まさか、殿下との婚約は……」
「ええ、昨夜の夜会で華々しく破棄されましたわ! というわけで、これからは不法侵入にならないよう、実家から通うことにしました。あ、通うと言っても仕事ではなく、たまに観光に来る程度でしょうけれど」
ハンスは絶句し、手に持っていた槍を危うく落としそうになった。
「そ、そんな馬鹿な! ファルル様がいなくなったら、この城の門限管理はどうなるんです!? 殿下が夜遊びから帰ってくるたびに、誰が説教をして、誰が私の残業申請に判を突いてくれるんですか!」
「ハンス、あなたはいい人ね。これからは、自力でシリウス殿下の首根っこを掴んで、自力で王宮事務局に直談判してください。幸運を祈っているわ」
「待ってください! せめて、あの『魔法のハンコ』だけでも置いていって……!」
「ダメよ。あれ、私の私物なんですもの」
ファルルが非情にも窓を閉めようとしたその時、背後から「ファルル様ぁぁぁ!」という悲鳴のような叫び声が響いた。
駆け寄ってきたのは、王宮の侍女長を務めるマーサである。
彼女はエプロンを振り乱し、必死の形相で馬車に取り縋った。
「ファルル様! 行かないでください! 先ほど厨房から連絡があり、殿下が『俺の黄金のオムレツはどうした!』と暴れていらっしゃいます!」
「マーサ、落ち着いて。黄金のオムレツなら、レシピは厨房の壁に貼っておきましたわ。卵を三個、バターをたっぷり使って、殿下が寝ぼけている間に口に放り込めばいいだけです」
「無理です! 殿下はファルル様が焼いたものでないと『色が違う!』『形が完璧ではない!』と仰って、お皿を投げようとして……!」
「あら、それは大変。リリアン様に焼いてもらえばよろしいのでは? 愛の力で、炭でも黄金に見えるかもしれませんわよ」
ファルルは、全く同情していない声で言い放った。
マーサの顔が絶望に染まる。
「それだけではありません! リリアン様が『朝の目覚めにバラのお風呂に入りたい』と仰っていますが、バラの香油はすべてファルル様が管理されていた……」
「ええ、あれも私の私費で購入していたものですから、全部回収しましたわ。今頃、うちのセバスが荷馬車の中で優雅に香りを嗅いでいるはずよ」
「そんな……! このままでは、今日一日で王宮が崩壊します!」
ファルルは一度だけ馬車を止めさせ、身を乗り出してマーサとハンスを見つめた。
その瞳は、慈愛に満ちているようでいて、底知れない解放感に輝いている。
「二人とも、最後のアドバイスですわ。よく聞いて」
ハンスとマーサは、神の啓示を待つ信者のように身を乗り出した。
「まず、午前十時になったら、宰相閣下が青い顔をして走ってきます。その時、絶対に殿下を閣下に合わせないこと。殿下は寝ぼけて『昨日の夜会、最高だったな!』と口を滑らせ、閣下の血管を数本ブチ切らせるでしょうから」
「は、はい……!」
「次に、午後二時。隣国からの親書が届きます。これは絶対に殿下に渡してはいけません。殿下は封筒の柄が気に入らないという理由で、それを丸めてゴミ箱に捨てる癖があります。先に閣下か、王務官に渡すのよ」
「め、メモ、メモを……!」
「そして最後に。リリアン様が『寂しい』と泣き出したら、適当な宝石を一つ与えて、離宮に閉じ込めておくこと。彼女を執務室に入れたら最後、重要書類がすべてティータイムのコースターにされますわ」
二人は必死にメモを取るが、その顔はもはや死人のようである。
「それでは、私はこれで。お世話になりました!」
「ファルル様ー! せめて、せめて週に一度の『コンサルティング』だけでも……!」
「嫌ですわ。私、これから有給休暇を十何年分かまとめて消化する予定ですの」
ファルルは今度こそ窓を閉め、セバスに合図を送った。
馬車が軽快な音を立てて動き出す。
王宮の門をくぐり抜けた瞬間、ファルルの心にかかっていた「重圧」という名の重石が、跡形もなく消え去った。
「お嬢様、素晴らしい手際でございましたな。王宮の機能停止まで、残り三時間といったところでしょうか」
「三時間も持つかしら? シリウス殿下は、私がいないと靴下も左右逆に履くような方ですもの」
ファルルは馬車の背もたれに深く寄りかかり、開け放った窓から外の空気を吸い込んだ。
王宮の外は、こんなにも広い。
見慣れたはずの街並みが、今日はまるで別世界のように輝いて見える。
「自由よ……。誰のスケジュールも気にせず、誰の失態もフォローせず、誰の顔色も伺わなくていい……。なんて贅沢なのかしら!」
「公爵家の方では、大旦那様が最高級のハーブティーを用意してお待ちです。本日は一日中、テラスでお読書を楽しまれるのはいかがでしょう」
「最高ね、セバス。あ、でも、途中で寝ちゃうかもしれないわ。今の私は、三日三晩眠り続けられる自信があるもの」
「それもまた一興かと。お嬢様の休日は、誰にも邪魔させません」
馬車は、ファルルを乗せてひた走る。
背後に残してきた「王宮」という名の檻。
そこでは今頃、一人の王子が「服がない!」「メシがない!」「書類が読めない!」と叫び声を上げているはずだが、そんなことは今の彼女にとって、通り過ぎた嵐の後のそよ風ほどの価値もなかった。
「さようなら、私の黒歴史。こんにちは、私の輝かしいニート生活!」
ファルルの高らかな笑い声が、朝の街路に響き渡った。
こうして、史上最強の「悪役令嬢」は、伝説的な仕事量を残したまま、悠然と表舞台から去っていったのである。
あなたにおすすめの小説
政略結婚の作法
夜宮
恋愛
悪女になる。
そして、全てをこの手に。
政略結婚のために身分違いの恋人のいる王太子の婚約者となった公爵令嬢は、妹の囁きを胸に悪女となることを決意した。
悪女と身分違いの恋人、悪女になるはずだった妹の物語。
笑い方を忘れた令嬢
Blue
恋愛
お母様が天国へと旅立ってから10年の月日が流れた。大好きなお父様と二人で過ごす日々に突然終止符が打たれる。突然やって来た新しい家族。病で倒れてしまったお父様。私を嫌な目つきで見てくる伯父様。どうしたらいいの?誰か、助けて。
【完結】一番腹黒いのはだあれ?
やまぐちこはる
恋愛
■□■
貧しいコイント子爵家のソンドールは、貴族学院には進学せず、騎士学校に通って若くして正騎士となった有望株である。
三歳でコイント家に養子に来たソンドールの生家はパートルム公爵家。
しかし、関わりを持たずに生きてきたため、自分が公爵家生まれだったことなどすっかり忘れていた。
ある日、実の父がソンドールに会いに来て、自分の出自を改めて知り、勝手なことを言う実父に憤りながらも、生家の騒動に巻き込まれていく。
後妻の条件を出したら……
しゃーりん
恋愛
妻と離婚した伯爵令息アークライトは、友人に聞かれて自分が後妻に望む条件をいくつか挙げた。
格上の貴族から厄介な女性を押しつけられることを危惧し、友人の勧めで伯爵令嬢マデリーンと結婚することになった。
だがこのマデリーン、アークライトの出した条件にそれほどズレてはいないが、貴族令嬢としての教育を受けていないという驚きの事実が発覚したのだ。
しかし、明るく真面目なマデリーンをアークライトはすぐに好きになるというお話です。
捨てられたなら 〜婚約破棄された私に出来ること〜
ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
長年の婚約者だった王太子殿下から婚約破棄を言い渡されたクリスティン。
彼女は婚約破棄を受け入れ、周りも処理に動き出します。
さて、どうなりますでしょうか……
別作品のボツネタ救済です(ヒロインの名前と設定のみ)。
突然のポイント数増加に驚いています。HOTランキングですか?
自分には縁のないものだと思っていたのでびっくりしました。
私の拙い作品をたくさんの方に読んでいただけて嬉しいです。
それに伴い、たくさんの方から感想をいただくようになりました。
ありがとうございます。
様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。
ただ、皆様に楽しんでいただけたらと思いますので、中にはいただいたコメントを非公開とさせていただく場合がございます。
申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。
もちろん、私は全て読ませていただきますし、削除はいたしません。
7/16 最終部がわかりにくいとのご指摘をいただき、訂正しました。
※この作品は小説家になろうさんでも公開しています。
【完結】どうやら時戻りをしました。
まるねこ
恋愛
ウルダード伯爵家は借金地獄に陥り、借金返済のため泣く泣く嫁いだ先は王家の闇を担う家。
辛い日々に耐えきれずモアは自らの命を断つ。
時戻りをした彼女は同じ轍を踏まないと心に誓う。
※前半激重です。ご注意下さい
Copyright©︎2023-まるねこ
【完結】もう、あなたを愛したくありません〜ループを越えた物質主義の令嬢は形のない愛を求める〜
あまぞらりゅう
恋愛
キアラ・リグリーア伯爵令嬢は、同じ人生を繰り返していた。
彼女の最期はいつも処刑台の上。
それは婚約者のダミアーノ・ヴィッツィオ公爵令息の陰謀だった。
死んだら、また過去に戻ってくる。
その度に彼女は婚約者のことを激しく憎んで、もう愛さないと強く胸に誓っていた。
でも、何度回帰しても彼女は彼を愛してしまって、最後は必ず破滅を迎えてしまう。
キアラはもうダミアーノを愛したくなかったし、愛なんてものは信じていなかった。
――そして七回目の人生で、彼女は真実を知る。
★元サヤではありません!(ヒーローは別にいます!)
★不快になるような残酷な描写があります!
★他サイト様にも投稿しています!