あの日、最高の婚約破棄を。

八雲

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朝日が王宮の尖塔を黄金色に染め始める頃、ファルルを乗せた馬車の列が、正門へと差し掛かった。

門を警護するのは、勤続二十年のベテラン門番、ハンスである。

彼は、早朝から大荷物を積んで出て行こうとする公爵家の馬車を見て、怪訝そうに窓を叩いた。

「これはファルル様。こんなお早い時間に、どちらへお出かけで?」

窓から顔を出したファルルは、夜明けの光を浴びて、信じられないほど爽やかな笑顔を浮かべていた。

「おはよう、ハンス。お出かけではなく、お引越しですわ。私、今日からただの『ファルル・ボナパルト』に戻りますの」

「お引越し……? まさか、殿下との婚約は……」

「ええ、昨夜の夜会で華々しく破棄されましたわ! というわけで、これからは不法侵入にならないよう、実家から通うことにしました。あ、通うと言っても仕事ではなく、たまに観光に来る程度でしょうけれど」

ハンスは絶句し、手に持っていた槍を危うく落としそうになった。

「そ、そんな馬鹿な! ファルル様がいなくなったら、この城の門限管理はどうなるんです!? 殿下が夜遊びから帰ってくるたびに、誰が説教をして、誰が私の残業申請に判を突いてくれるんですか!」

「ハンス、あなたはいい人ね。これからは、自力でシリウス殿下の首根っこを掴んで、自力で王宮事務局に直談判してください。幸運を祈っているわ」

「待ってください! せめて、あの『魔法のハンコ』だけでも置いていって……!」

「ダメよ。あれ、私の私物なんですもの」

ファルルが非情にも窓を閉めようとしたその時、背後から「ファルル様ぁぁぁ!」という悲鳴のような叫び声が響いた。

駆け寄ってきたのは、王宮の侍女長を務めるマーサである。

彼女はエプロンを振り乱し、必死の形相で馬車に取り縋った。

「ファルル様! 行かないでください! 先ほど厨房から連絡があり、殿下が『俺の黄金のオムレツはどうした!』と暴れていらっしゃいます!」

「マーサ、落ち着いて。黄金のオムレツなら、レシピは厨房の壁に貼っておきましたわ。卵を三個、バターをたっぷり使って、殿下が寝ぼけている間に口に放り込めばいいだけです」

「無理です! 殿下はファルル様が焼いたものでないと『色が違う!』『形が完璧ではない!』と仰って、お皿を投げようとして……!」

「あら、それは大変。リリアン様に焼いてもらえばよろしいのでは? 愛の力で、炭でも黄金に見えるかもしれませんわよ」

ファルルは、全く同情していない声で言い放った。

マーサの顔が絶望に染まる。

「それだけではありません! リリアン様が『朝の目覚めにバラのお風呂に入りたい』と仰っていますが、バラの香油はすべてファルル様が管理されていた……」

「ええ、あれも私の私費で購入していたものですから、全部回収しましたわ。今頃、うちのセバスが荷馬車の中で優雅に香りを嗅いでいるはずよ」

「そんな……! このままでは、今日一日で王宮が崩壊します!」

ファルルは一度だけ馬車を止めさせ、身を乗り出してマーサとハンスを見つめた。

その瞳は、慈愛に満ちているようでいて、底知れない解放感に輝いている。

「二人とも、最後のアドバイスですわ。よく聞いて」

ハンスとマーサは、神の啓示を待つ信者のように身を乗り出した。

「まず、午前十時になったら、宰相閣下が青い顔をして走ってきます。その時、絶対に殿下を閣下に合わせないこと。殿下は寝ぼけて『昨日の夜会、最高だったな!』と口を滑らせ、閣下の血管を数本ブチ切らせるでしょうから」

「は、はい……!」

「次に、午後二時。隣国からの親書が届きます。これは絶対に殿下に渡してはいけません。殿下は封筒の柄が気に入らないという理由で、それを丸めてゴミ箱に捨てる癖があります。先に閣下か、王務官に渡すのよ」

「め、メモ、メモを……!」

「そして最後に。リリアン様が『寂しい』と泣き出したら、適当な宝石を一つ与えて、離宮に閉じ込めておくこと。彼女を執務室に入れたら最後、重要書類がすべてティータイムのコースターにされますわ」

二人は必死にメモを取るが、その顔はもはや死人のようである。

「それでは、私はこれで。お世話になりました!」

「ファルル様ー! せめて、せめて週に一度の『コンサルティング』だけでも……!」

「嫌ですわ。私、これから有給休暇を十何年分かまとめて消化する予定ですの」

ファルルは今度こそ窓を閉め、セバスに合図を送った。

馬車が軽快な音を立てて動き出す。

王宮の門をくぐり抜けた瞬間、ファルルの心にかかっていた「重圧」という名の重石が、跡形もなく消え去った。

「お嬢様、素晴らしい手際でございましたな。王宮の機能停止まで、残り三時間といったところでしょうか」

「三時間も持つかしら? シリウス殿下は、私がいないと靴下も左右逆に履くような方ですもの」

ファルルは馬車の背もたれに深く寄りかかり、開け放った窓から外の空気を吸い込んだ。

王宮の外は、こんなにも広い。

見慣れたはずの街並みが、今日はまるで別世界のように輝いて見える。

「自由よ……。誰のスケジュールも気にせず、誰の失態もフォローせず、誰の顔色も伺わなくていい……。なんて贅沢なのかしら!」

「公爵家の方では、大旦那様が最高級のハーブティーを用意してお待ちです。本日は一日中、テラスでお読書を楽しまれるのはいかがでしょう」

「最高ね、セバス。あ、でも、途中で寝ちゃうかもしれないわ。今の私は、三日三晩眠り続けられる自信があるもの」

「それもまた一興かと。お嬢様の休日は、誰にも邪魔させません」

馬車は、ファルルを乗せてひた走る。

背後に残してきた「王宮」という名の檻。

そこでは今頃、一人の王子が「服がない!」「メシがない!」「書類が読めない!」と叫び声を上げているはずだが、そんなことは今の彼女にとって、通り過ぎた嵐の後のそよ風ほどの価値もなかった。

「さようなら、私の黒歴史。こんにちは、私の輝かしいニート生活!」

ファルルの高らかな笑い声が、朝の街路に響き渡った。

こうして、史上最強の「悪役令嬢」は、伝説的な仕事量を残したまま、悠然と表舞台から去っていったのである。
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