あの日、最高の婚約破棄を。

八雲

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ガタゴトと心地よい揺れに身を任せ、ファルルを乗せた馬車はボナパルト公爵家の重厚な門をくぐった。

王宮の冷え冷えとした空気とは違い、ここは彼女にとって完全なる「ホーム」である。

馬車が止まるやいなや、玄関ホールから一人の男が弾丸のような速さで飛び出してきた。

「ファルル! 我が愛しの娘よ! 無事か、怪我はないか! あの馬鹿王子に何か盛られたりしていないか!」

ボナパルト公爵その人である。

彼は娘の姿を見るなり、公爵としての威厳をどこか遠い銀河へ投げ捨てて駆け寄った。

「お父様、ただいま戻りましたわ。そんなに慌てなくても、私はピンピンしております」

「そうか、そうか! いや、セバスから早馬で連絡を受けてな。『お嬢様が自由を勝ち取られた』と聞いた時は、思わず家宝の剣でシャンパンの栓を飛ばしてしまったよ!」

ファルルは苦笑しながら、父の差し出した手を取って馬車を降りた。

「ええ、その通りです。お父様、報告いたします。私、婚約破棄されました。つまり……クビですわ!」

「素晴らしい! これほど喜ばしいニュースがかつてあっただろうか! いや、ない!」

公爵はガッツポーズを決め、周囲のメイドたちに大声で指示を飛ばした。

「聞いたか! 今日から我が家は祝祭期間だ! 地下のワインをすべて開けろ! 一番高い牛を屠れ! ファルルが、あのブラック王宮から生還したぞ!」

「お、お父様……一応、私は『悪役令嬢として追放された』という体裁なのですが」

「はっはっは! あんな無能に悪役扱いされるとは、お前も立派になったものだ。有能すぎて煙たがられたんだろう? 名誉なことじゃないか!」

父のあまりにも突き抜けたポジティブさに、ファルルは肩の力が抜けるのを感じた。

「……そうですわね。あそこで『便利屋』として一生を終えるより、悪役として追い出される方が、よほどマシな人生ですわ」

二人は談笑しながら、広々としたリビングへと移動した。

そこには、すでに豪華なティーセットと、ファルルの大好物である特製のベリータルトが用意されていた。

「さあ、座りなさい。セバス、例のものは?」

「はい、旦那様。こちらに」

セバスが銀のトレイに乗せて持ってきたのは、一通の書類……ではなく、キラキラと輝くパンフレットの山だった。

「これは……?」

「『世界・豪華客船の旅』『癒やしの温泉郷・名産品食べ尽くしプラン』『一生遊んで暮らすための資産運用ガイド』だ。好きなものを選べ、ファルル」

「お父様、用意が良すぎませんか?」

「お前がいつかあの王子を蹴り飛ばして帰ってくる日のために、三年前から積み立てておいた『ファルル自由化基金』だ。かなりの額になっているぞ」

ファルルはタルトを一口頬張り、その甘さに目を細めた。

「……美味しい。王宮の食事は、毒見だの作法だので、味が全くしなかったものですから」

「だろう? これからは好きな時に食べ、好きな時に寝て、好きな時にあの王子の悪口を言っていいんだ」

「それは素敵ですわね。まずは一週間、誰にも会わずに眠り続けたいと思いますわ」

「よろしい。誰一人としてお前の部屋には近づかせん。もしシリウス王子が泣きついてきても、私が玄関先で塩を撒いて追い返してやろう」

公爵は鼻息荒く言い切った。

「そういえば、世間では私のこと、どう言われているのかしら? やっぱり『王子とリリアン様の仲を引き裂こうとした悪女』として有名?」

「ああ、それなら心配ない。我が家の情報操作部門……おっと、広報担当が『あまりにも有能すぎて王子が劣等感を抱き、逆ギレして婚約破棄した』という真実を、いい感じに加工して流しておいた」

「加工、とは?」

「『ファルル嬢は王子のために身を粉にして働いたが、王子は愛に溺れて公務を放り出し、彼女をスケープゴートにした』という、極めて事実に近い悲劇のヒロイン物語だ」

ファルルは思わず吹き出した。

「お父様、それだと私が可愛そうな人みたいじゃないですか。私はただ、仕事を辞めたかっただけなのに」

「世間体というやつだよ。お前が『円満退社だ、わーい!』と叫んで街を練り歩いたら、他の貴族令嬢たちの教育に悪いだろう?」

「それもそうですわね」

ファルルは二口目のタルトを口に運び、ゆったりとしたソファに深く沈み込んだ。

窓の外には、手入れの行き届いた公爵家の庭園が広がっている。

「……お父様、私、明日から何をすればいいのかしら。あんなに忙しかったのが嘘みたいで、少しだけ落ち着かないわ」

「ファルル、お前は真面目すぎるんだ。いいかい、何もしないことをするんだ。それが有給休暇というものだよ」

「何もしないことを、する……」

「そうだ。とりあえず、明日の朝は鳥のさえずりで起きるまで寝ていろ。朝食はベッドまで運ばせる。昼間は庭で猫と遊び、夜は私と一緒に王子の失敗談を肴に酒を飲もう」

「ふふ、最高のスケジュールですわね」

ファルルは、数年ぶりに心からの笑顔を浮かべた。

「お帰り、ファルル。よく頑張ったな」

父の優しい言葉に、彼女の胸の奥に溜まっていた最後の「しこり」が、すうっと溶けて消えていった。

「ただいま、お父様。……私、最高に幸せな悪役令嬢になりますわ!」

その夜、ボナパルト公爵邸では、夜通し明かりが灯り、祝杯の音が絶えることはなかった。
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