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「……はっ! 大変、殿下のモーニングコールの時間だわ!」
ファルルは、跳ね起きると同時に枕元を探った。
しかし、そこにあるはずの「王子の寝坊防止用・爆音魔導ベル」も「本日の分刻みスケジュール表」も存在しない。
手に触れたのは、驚くほど柔らかく、すべすべとした最高級シルクの枕だけだった。
「……あ、そうだったわ。私、クビになったんだった」
再びシーツの海に沈み込みながら、ファルルは天井を見つめた。
窓の隙間から差し込む光は、すでに高い位置にある。
王宮にいた頃なら、すでに三つの会議をこなし、二人の大臣に説教をし、王子の食べこぼしを拭いている時間だ。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか。……いえ、寝たふりをしておられても構いませんが、焼きたてのクロワッサンの香りが廊下まで漏れておりますよ」
「……入っていいわよ、セバス。起きてるわ」
扉が開くと、セバスが銀のトレイに山盛りの朝食を乗せて現れた。
「おはようございます。現在、午前十一時三十分でございます」
「……じゅういちじ、はん? セバス、私、そんなに寝ていたの?」
「はい。お嬢様は昨夜、自室のベッドに倒れ込むなり、一度も寝返りを打つことなく『無』の境地に達しておられました。その姿は、まるで戦いを終えた賢者のようでしたな」
セバスは手際よくベッドサイドにテーブルをセッティングしていく。
「十一時半……。王宮なら、もうすぐ午前の執務が終わる頃ね。今頃あそこはどうなっているかしら」
「お嬢様、せっかくの休暇中に『不吉な想像』は美容に毒でございます。ちなみに、王宮の伝書鳩係の友人から聞いた話では、今朝の王宮は『阿鼻叫喚の地獄絵図』だったそうですよ」
セバスは、さも愉快そうにティーカップに紅茶を注いだ。
「殿下が、右足と左足で別の種類の靴を履いて登城しようとし、それを指摘できる人間が誰もおらず、最終的に階段で転んでリリアン様を巻き込み、二人で噴水に突っ込んだとか」
「……ぷっ。あははは! 何それ、見たかったわ!」
ファルルはベッドの上で転げ回って笑った。
「その際、殿下は『ファルルがいれば、噴水の水流を魔法で止めていたはずだ!』と、ずぶ濡れのまま叫んでいたそうですな」
「無理に決まっているでしょう、そんなこと。私は魔法使いじゃなくて婚約者(マネージャー)よ」
笑いすぎて涙を拭きながら、ファルルはクロワッサンを一口齧った。
サクッ、という完璧な音と共に、バターの香りが口いっぱいに広がる。
「美味しい……。セバス、このパン、王宮のよりずっと美味しいわ」
「当然でございます。こちらは、お嬢様が眠っている間に私が街の一流職人を拉致……いえ、丁重にお招きして焼かせたものですから」
「拉致しちゃダメよ。……でも、本当に幸せ。こんなにゆっくり噛んで食事をするなんて、何年ぶりかしら」
そこへ、ドタドタと騒がしい足音が近づいてきた。
「ファルル! 起きているか! パパだぞ!」
公爵が、両手いっぱいに宝石箱やドレスの生地を抱えて部屋に飛び込んできた。
「お父様、まだお昼前ですよ。そんなに張り切ってどうしたんですか?」
「これを見ろ! お前が寝ている間に、街中の宝石商と服飾師を呼び集めたんだ。どれでも好きなものを選べ。いや、全部買い取ってもいい!」
「お父様、私、まだパジャマなんですけれど……」
「構わん! パジャマのまま選ぶのが、真の貴族の贅沢というものだ! 見ろ、このサファイア! あの馬鹿王子の瞳より一千倍は澄んでいるぞ!」
公爵は、キラキラと輝く宝石をファルルのベッドの上にバラバラとぶちまけた。
「見て、セバス。私、悪役令嬢なのに、こんなに甘やかされていいのかしら」
「お嬢様、勘違いなさらないでください。これは甘やかしではなく『正当な報酬の支払い』でございます。今まで無給で王室を支えてきたお嬢様への、ボナパルト家からのボーナスです」
セバスが真顔で言うと、公爵も力強く頷いた。
「そうだとも! お前は頑張りすぎたんだ。これからは、世界の中心でお前がワガママを叫ぶ番だ。さあ、言ってみろ! 何が欲しい!」
ファルルは、ベッドの上に散らばった宝石を指先で弄んだ。
かつては、これらの宝石も「王家との夜会で、他国の令嬢に舐められないための武装」としてしか見ていなかった。
だが今は、ただの「綺麗な石」として純粋に眺めることができる。
「そうね……。お父様。私、宝石よりも欲しいものがあるわ」
「何だ! 隣国の領土か? それとも王宮の爆破許可証か?」
「いえ、もっと簡単なことよ」
ファルルは、悪戯っぽく微笑んだ。
「今日一日、この部屋から一歩も出ずに、セバスが持ってきた本を読みながら、ダラダラと過ごしたいの。お着替えも、お化粧も、社交も一切なしで」
「……なんと贅沢な! よし、分かった! 全館に通達だ! 今日のファルルは『存在しないもの』とする! 誰一人として彼女の平穏を乱すことは許さん!」
公爵は感動のあまり涙を拭いながら、部屋を出ていった。
「お嬢様、本日の『ダラダラ・プラン』に最適な、刺激的で中身のない恋愛小説を数冊用意いたしました。それと、おかわりのお菓子も」
「ありがとう、セバス。……ねえ、私、本当にクビになって良かったわ」
ファルルは、柔らかな毛布を顎まで引き上げた。
窓の外では、平和な午後の光が揺れている。
泥のように眠り、石のように動かない。
それは、かつての彼女がもっとも軽蔑していた「怠惰」という名の、最高の贅沢だった。
「さて、まずはこの『恋する騎士と秘密の花園』から読み始めようかしら……」
悪役令嬢ファルルの有給休暇は、まだ始まったばかりである。
ファルルは、跳ね起きると同時に枕元を探った。
しかし、そこにあるはずの「王子の寝坊防止用・爆音魔導ベル」も「本日の分刻みスケジュール表」も存在しない。
手に触れたのは、驚くほど柔らかく、すべすべとした最高級シルクの枕だけだった。
「……あ、そうだったわ。私、クビになったんだった」
再びシーツの海に沈み込みながら、ファルルは天井を見つめた。
窓の隙間から差し込む光は、すでに高い位置にある。
王宮にいた頃なら、すでに三つの会議をこなし、二人の大臣に説教をし、王子の食べこぼしを拭いている時間だ。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか。……いえ、寝たふりをしておられても構いませんが、焼きたてのクロワッサンの香りが廊下まで漏れておりますよ」
「……入っていいわよ、セバス。起きてるわ」
扉が開くと、セバスが銀のトレイに山盛りの朝食を乗せて現れた。
「おはようございます。現在、午前十一時三十分でございます」
「……じゅういちじ、はん? セバス、私、そんなに寝ていたの?」
「はい。お嬢様は昨夜、自室のベッドに倒れ込むなり、一度も寝返りを打つことなく『無』の境地に達しておられました。その姿は、まるで戦いを終えた賢者のようでしたな」
セバスは手際よくベッドサイドにテーブルをセッティングしていく。
「十一時半……。王宮なら、もうすぐ午前の執務が終わる頃ね。今頃あそこはどうなっているかしら」
「お嬢様、せっかくの休暇中に『不吉な想像』は美容に毒でございます。ちなみに、王宮の伝書鳩係の友人から聞いた話では、今朝の王宮は『阿鼻叫喚の地獄絵図』だったそうですよ」
セバスは、さも愉快そうにティーカップに紅茶を注いだ。
「殿下が、右足と左足で別の種類の靴を履いて登城しようとし、それを指摘できる人間が誰もおらず、最終的に階段で転んでリリアン様を巻き込み、二人で噴水に突っ込んだとか」
「……ぷっ。あははは! 何それ、見たかったわ!」
ファルルはベッドの上で転げ回って笑った。
「その際、殿下は『ファルルがいれば、噴水の水流を魔法で止めていたはずだ!』と、ずぶ濡れのまま叫んでいたそうですな」
「無理に決まっているでしょう、そんなこと。私は魔法使いじゃなくて婚約者(マネージャー)よ」
笑いすぎて涙を拭きながら、ファルルはクロワッサンを一口齧った。
サクッ、という完璧な音と共に、バターの香りが口いっぱいに広がる。
「美味しい……。セバス、このパン、王宮のよりずっと美味しいわ」
「当然でございます。こちらは、お嬢様が眠っている間に私が街の一流職人を拉致……いえ、丁重にお招きして焼かせたものですから」
「拉致しちゃダメよ。……でも、本当に幸せ。こんなにゆっくり噛んで食事をするなんて、何年ぶりかしら」
そこへ、ドタドタと騒がしい足音が近づいてきた。
「ファルル! 起きているか! パパだぞ!」
公爵が、両手いっぱいに宝石箱やドレスの生地を抱えて部屋に飛び込んできた。
「お父様、まだお昼前ですよ。そんなに張り切ってどうしたんですか?」
「これを見ろ! お前が寝ている間に、街中の宝石商と服飾師を呼び集めたんだ。どれでも好きなものを選べ。いや、全部買い取ってもいい!」
「お父様、私、まだパジャマなんですけれど……」
「構わん! パジャマのまま選ぶのが、真の貴族の贅沢というものだ! 見ろ、このサファイア! あの馬鹿王子の瞳より一千倍は澄んでいるぞ!」
公爵は、キラキラと輝く宝石をファルルのベッドの上にバラバラとぶちまけた。
「見て、セバス。私、悪役令嬢なのに、こんなに甘やかされていいのかしら」
「お嬢様、勘違いなさらないでください。これは甘やかしではなく『正当な報酬の支払い』でございます。今まで無給で王室を支えてきたお嬢様への、ボナパルト家からのボーナスです」
セバスが真顔で言うと、公爵も力強く頷いた。
「そうだとも! お前は頑張りすぎたんだ。これからは、世界の中心でお前がワガママを叫ぶ番だ。さあ、言ってみろ! 何が欲しい!」
ファルルは、ベッドの上に散らばった宝石を指先で弄んだ。
かつては、これらの宝石も「王家との夜会で、他国の令嬢に舐められないための武装」としてしか見ていなかった。
だが今は、ただの「綺麗な石」として純粋に眺めることができる。
「そうね……。お父様。私、宝石よりも欲しいものがあるわ」
「何だ! 隣国の領土か? それとも王宮の爆破許可証か?」
「いえ、もっと簡単なことよ」
ファルルは、悪戯っぽく微笑んだ。
「今日一日、この部屋から一歩も出ずに、セバスが持ってきた本を読みながら、ダラダラと過ごしたいの。お着替えも、お化粧も、社交も一切なしで」
「……なんと贅沢な! よし、分かった! 全館に通達だ! 今日のファルルは『存在しないもの』とする! 誰一人として彼女の平穏を乱すことは許さん!」
公爵は感動のあまり涙を拭いながら、部屋を出ていった。
「お嬢様、本日の『ダラダラ・プラン』に最適な、刺激的で中身のない恋愛小説を数冊用意いたしました。それと、おかわりのお菓子も」
「ありがとう、セバス。……ねえ、私、本当にクビになって良かったわ」
ファルルは、柔らかな毛布を顎まで引き上げた。
窓の外では、平和な午後の光が揺れている。
泥のように眠り、石のように動かない。
それは、かつての彼女がもっとも軽蔑していた「怠惰」という名の、最高の贅沢だった。
「さて、まずはこの『恋する騎士と秘密の花園』から読み始めようかしら……」
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