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「セバス、飽きたわ」
豪華な天蓋付きベッドの上で、ファルルは三冊目の恋愛小説を放り出した。
「お嬢様、贅沢の極みのようなお言葉でございますな。まだ休暇三日目でございますよ」
「だって、小説の中の令嬢たちは階段で転べば王子様に抱きとめられるし、毒を盛られれば隣国の公爵に救われるんですもの。現実味がないわ」
ファルルはむくりと起き上がり、窓の外の街並みを指差した。
「私、あの場所に行きたい。机の上で書類として処理していた『市場』や『居住区』を、この目で見たいのよ」
「お忍びでございますか? よろしいでしょう。では、一番目立たない『地味な村娘風の最高級シルクドレス』を用意させます」
「普通に地味な服でいいわよ、セバス」
一時間後。
ファルルは、使い古されたような灰色のマントを羽織り、髪を適当にまとめた姿で、活気に満ちた市場の雑踏の中にいた。
「……すごいわ。書類では『昨年度比五パーセントの物価上昇』としか書いていなかったけれど、この熱気は数字じゃ伝わらないわね」
「お嬢様、スリと、それから『安売りに命をかける主婦の肘打ち』にはご注意を」
セバスに護衛されながら歩くファルルの鼻を、香ばしい、暴力的なまでに食欲をそそる香りがくすぐった。
「セバス、あれは何? 茶色い平べったい何かが、鉄板の上で踊っているわ」
「あれは『下町のスタミナ焼き』……いわゆる、余り物の肉と野菜をソースで炒めただけの、極めて効率的な料理でございます」
「効率的……! 素晴らしい響きね」
ファルルは吸い寄せられるように屋台へ向かった。
「おじさん、それを一つ。あ、お代はこれで足りるかしら?」
差し出した銀貨を見て、屋台の店主が目を丸くした。
「お嬢ちゃん、これじゃお釣りが店ごと買えちまうよ! 銅貨三枚でいいんだ」
「銅貨三枚……。なんてコストパフォーマンスが良いの……」
受け取った串焼きを一口齧ると、ガツンとした塩気とニンニクの香りが脳を突き抜けた。
「……っ! 何これ、美味しい! 王宮の、あの『素材の味を活かしすぎて何を食べたか分からないスープ』の百倍は満足感があるわ!」
「お嬢様、お口の周りにソースが。……しかし、実に見事な食べっぷりでございます」
ファルルは夢中で串を片付け、周囲を眺めた。
そこには、決して裕福とは言えない身なりだが、笑いながら安酒を酌み交わす男たちや、値切り交渉に勝利してガッツポーズをする女性たちがいた。
「ねえ、セバス。この人たちは、なぜこんなに楽しそうなの? 王宮の晩餐会にいる貴族たちよりも、ずっと幸せそうに見えるわ」
「おそらく、彼らは『今、この瞬間の小さな勝利』を積み重ねて生きているからでしょう。明日の予算案よりも、今日の夕飯の献立でございます」
ファルルはその言葉を噛みしめるように、広場に座る人々を観察し始めた。
「……面白いわ。場所によって、人の幸せの形ってこんなに違うのね」
彼女は、マントのポケットから小さな手帳を取り出した。
「お嬢様、それは?」
「フィールドワークの記録よ。私、決めたわ。私の新しい趣味は『場所と幸せの相関関係』を研究することにする!」
「……それはまた、公爵令嬢としては極めて風変わりな趣味でございますな」
「いいじゃない。私はもう、国のための装置ではないもの。これからは、どこに住めば人が一番笑って過ごせるのか、それをこの足で調査して回るのよ」
ファルルの瞳には、書類を処理していた時のような冷徹さはなく、未知の世界への好奇心が溢れていた。
「まずはこの市場の幸福度を調査しましょう。セバス、次はあそこの『見た目が怪しい紫色のジュース』に挑戦するわよ!」
「お嬢様、それだけはお止めください。私の胃薬の在庫が切れてしまいます」
「効率的な人生に、多少の冒険は必要よ! さあ、行くわよ!」
ファルルは軽やかな足取りで、人混みの中へと消えていった。
背後から追いかけるセバスは、主人のあまりの変わりように困り果てながらも、その口角はわずかに上がっていた。
「……王宮をクビになってからの方が、お嬢様はよほど魅力的な顔をなさる」
悪役令嬢ファルルは、ついに「自分だけの楽しみ」を見つけたのである。
豪華な天蓋付きベッドの上で、ファルルは三冊目の恋愛小説を放り出した。
「お嬢様、贅沢の極みのようなお言葉でございますな。まだ休暇三日目でございますよ」
「だって、小説の中の令嬢たちは階段で転べば王子様に抱きとめられるし、毒を盛られれば隣国の公爵に救われるんですもの。現実味がないわ」
ファルルはむくりと起き上がり、窓の外の街並みを指差した。
「私、あの場所に行きたい。机の上で書類として処理していた『市場』や『居住区』を、この目で見たいのよ」
「お忍びでございますか? よろしいでしょう。では、一番目立たない『地味な村娘風の最高級シルクドレス』を用意させます」
「普通に地味な服でいいわよ、セバス」
一時間後。
ファルルは、使い古されたような灰色のマントを羽織り、髪を適当にまとめた姿で、活気に満ちた市場の雑踏の中にいた。
「……すごいわ。書類では『昨年度比五パーセントの物価上昇』としか書いていなかったけれど、この熱気は数字じゃ伝わらないわね」
「お嬢様、スリと、それから『安売りに命をかける主婦の肘打ち』にはご注意を」
セバスに護衛されながら歩くファルルの鼻を、香ばしい、暴力的なまでに食欲をそそる香りがくすぐった。
「セバス、あれは何? 茶色い平べったい何かが、鉄板の上で踊っているわ」
「あれは『下町のスタミナ焼き』……いわゆる、余り物の肉と野菜をソースで炒めただけの、極めて効率的な料理でございます」
「効率的……! 素晴らしい響きね」
ファルルは吸い寄せられるように屋台へ向かった。
「おじさん、それを一つ。あ、お代はこれで足りるかしら?」
差し出した銀貨を見て、屋台の店主が目を丸くした。
「お嬢ちゃん、これじゃお釣りが店ごと買えちまうよ! 銅貨三枚でいいんだ」
「銅貨三枚……。なんてコストパフォーマンスが良いの……」
受け取った串焼きを一口齧ると、ガツンとした塩気とニンニクの香りが脳を突き抜けた。
「……っ! 何これ、美味しい! 王宮の、あの『素材の味を活かしすぎて何を食べたか分からないスープ』の百倍は満足感があるわ!」
「お嬢様、お口の周りにソースが。……しかし、実に見事な食べっぷりでございます」
ファルルは夢中で串を片付け、周囲を眺めた。
そこには、決して裕福とは言えない身なりだが、笑いながら安酒を酌み交わす男たちや、値切り交渉に勝利してガッツポーズをする女性たちがいた。
「ねえ、セバス。この人たちは、なぜこんなに楽しそうなの? 王宮の晩餐会にいる貴族たちよりも、ずっと幸せそうに見えるわ」
「おそらく、彼らは『今、この瞬間の小さな勝利』を積み重ねて生きているからでしょう。明日の予算案よりも、今日の夕飯の献立でございます」
ファルルはその言葉を噛みしめるように、広場に座る人々を観察し始めた。
「……面白いわ。場所によって、人の幸せの形ってこんなに違うのね」
彼女は、マントのポケットから小さな手帳を取り出した。
「お嬢様、それは?」
「フィールドワークの記録よ。私、決めたわ。私の新しい趣味は『場所と幸せの相関関係』を研究することにする!」
「……それはまた、公爵令嬢としては極めて風変わりな趣味でございますな」
「いいじゃない。私はもう、国のための装置ではないもの。これからは、どこに住めば人が一番笑って過ごせるのか、それをこの足で調査して回るのよ」
ファルルの瞳には、書類を処理していた時のような冷徹さはなく、未知の世界への好奇心が溢れていた。
「まずはこの市場の幸福度を調査しましょう。セバス、次はあそこの『見た目が怪しい紫色のジュース』に挑戦するわよ!」
「お嬢様、それだけはお止めください。私の胃薬の在庫が切れてしまいます」
「効率的な人生に、多少の冒険は必要よ! さあ、行くわよ!」
ファルルは軽やかな足取りで、人混みの中へと消えていった。
背後から追いかけるセバスは、主人のあまりの変わりように困り果てながらも、その口角はわずかに上がっていた。
「……王宮をクビになってからの方が、お嬢様はよほど魅力的な顔をなさる」
悪役令嬢ファルルは、ついに「自分だけの楽しみ」を見つけたのである。
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