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「……ふあぁ。おい、ファルル。カーテンを開けろ。眩しいではないか」
王宮の広大な寝室で、第一王子シリウスは寝ぼけ眼をこすりながら呟いた。
いつもなら、このタイミングで冷徹なまでの正確さをもってカーテンが開かれ、耳元で「午前六時ですわ。一分遅れるごとに予算を一割削ります」という無慈悲な声が響くはずだった。
しかし、返ってきたのは、不気味なほどの静寂だけである。
「……ファルル? おい、聞こえているのか」
シリウスが薄目を開けると、そこには衝撃の光景が広がっていた。
まず、部屋が明るい。
カーテンがない。
正確には、カーテンレールごと根こそぎ持ち去られ、窓枠がむき出しになっている。
「な……なんだこれは! 泥棒か!? 衛兵! 衛兵を呼べ!」
シリウスは飛び起きようとしたが、そこでさらなる異変に気づいた。
「……寒い。なぜこんなに床が冷たいのだ。俺の愛用していた、あの毛足の長い最高級絨毯はどうした!」
床は冷え冷えとした石材が露出しており、彼のスリッパすら見当たらない。
そこへ、騒ぎを聞きつけたリリアンが、ふわふわとした寝巻き姿で駆け込んできた。
「シリウス様! どうされましたの? 朝からそんな大きな声を出して……」
「リリアン! 見てくれ、部屋が荒らされている! 俺の家財道具が、ひとつ残らず消えているんだ!」
「あら……本当ですわね。でも、ファルル様が仰っていましたわ。『これはすべて私の私物ですから』って」
「あいつ……! 本当に、ネジ一本残さず持っていきおったのか!」
シリウスはぶるぶると震えながら、着替えをしようとクローゼットを開けた。
しかし、そこに掛かっていたのは、王室から支給された「最低限の儀礼服」二着のみ。
彼が愛用していた、刺繍たっぷりの特注服や、宝石をあしらったボタンの数々は、影も形もなかった。
「おい、靴下はどうした! 俺の右足用の、あのシルクの靴下がないぞ!」
「シリウス様、落ち着いてくださいな。あ、リリアンがお着替えを手伝ってあげますわ!」
リリアンは健気にも服を手に取ったが、彼女はボタンの留め方すら怪しかった。
「あれ……? この紐はどこに通すのかしら。えいっ、結んじゃえ!」
「痛い! リリアン、首が締まっているぞ! それは装飾用の紐だ!」
「すみません! でも、ファルル様はいつも魔法みたいにパパッとお着替えさせていたから、もっと簡単だと思っていましたの……」
三十分後。
ようやく着替えを終えたシリウス(ボタンが二つ掛け違っている)は、ふらふらと食堂へ向かった。
空腹を満たせば、少しは冷静になれると思ったのだ。
「朝食だ! 黄金のオムレツを! 今すぐ持ってこい!」
テーブルについたシリウスの前に出されたのは、真っ黒に焦げ、形が崩れた「何か」だった。
「……なんだこれは。俺はオムレツを頼んだのだ。炭を頼んだ覚えはないぞ」
給仕が涙目になりながら答える。
「も、申し訳ございません、殿下! ファルル様が管理されていた『火加減調整用の魔導具』が回収されてしまい、さらにはレシピの細かな指示書もすべて持ち去られ……」
「レシピなど、料理人の頭に入っているだろう!」
「それが……ファルル様は毎日、その日の湿度や殿下の体調に合わせて、塩の量をコンマ一グラム単位で指示されていたそうで……。我々だけでは、あの味は再現不可能です!」
シリウスは絶望と共に、その「炭」を口に運んだ。
「……苦い。そして、砂利のような食感だ」
「シリウス様、元気を出してください! リリアンが、愛を込めて紅茶を淹れますわ!」
リリアンがポットを傾ける。
しかし、出てきたのは、色が薄すぎてただのお湯にしか見えない液体だった。
「リリアン……これは、茶葉が入っているのか?」
「おかしいわね。ファルル様がいつも使っていた『最高級の茶葉』の缶を開けたら、中身が全部『出がらし』に詰め替えられていたんですもの」
「あいつ……! どこまで徹底しているんだ!」
シリウスはティーカップを叩きつけた。
その時、食堂の扉が激しく開き、宰相が鬼の形相で突き進んできた。
「殿下! こんなところで油を売っている場合ではございませんぞ!」
「宰相……? 朝から騒々しいぞ。俺は今、朝食という名の苦行に耐えている最中なんだ」
「苦行なのはこちらです! 見てください、この書類の山を!」
宰相がテーブルに叩きつけたのは、シリウスが今まで見たこともないような分厚い書類の束だった。
「なんだ、これは。新種の鈍器か?」
「今日の正午までに殿下が目を通し、署名をしなければならない決済書類です! 今まではファルル嬢がすべて事前に整理し、殿下は彼女が指差した場所に判を突くだけで済んでいましたが……!」
「……それが、どうした」
「彼女がいなくなったせいで、我々もどこに何が書いてあるかさっぱり分からんのです! おまけに、殿下が過去に勝手に結んだ『怪しい契約書』の控えも、彼女がすべて金庫に入れて持ち去りました!」
シリウスは、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「……つまり、俺が何をすればいいか、誰も分からないということか?」
「左様です! そして一時間後には、隣国の特使との会談がございます。通訳はどうされるおつもりですか!? ファルル嬢なしで、あの複雑な古代語を操れる者は王宮に一人もおりませんぞ!」
シリウスは、手元の「炭」を見つめた。
カーテンのない部屋で目覚め、首の締まる服を着て、味のしない朝食を食べ、理解不能な書類に囲まれる。
これが、彼が望んだ「真実の愛」の代償だった。
「……リリアン。愛があれば、古代語も話せるようになるか?」
「えっ? リリアン、可愛い歌なら歌えますけれど……」
「だめだ……。終わった。俺の一日が、始まる前に終わった……」
シリウスは、力なくテーブルに突っ伏した。
その耳には、かつてファルルが言った「ごきげんよう」という言葉が、呪いのようにいつまでも響き続けていた。
王宮の広大な寝室で、第一王子シリウスは寝ぼけ眼をこすりながら呟いた。
いつもなら、このタイミングで冷徹なまでの正確さをもってカーテンが開かれ、耳元で「午前六時ですわ。一分遅れるごとに予算を一割削ります」という無慈悲な声が響くはずだった。
しかし、返ってきたのは、不気味なほどの静寂だけである。
「……ファルル? おい、聞こえているのか」
シリウスが薄目を開けると、そこには衝撃の光景が広がっていた。
まず、部屋が明るい。
カーテンがない。
正確には、カーテンレールごと根こそぎ持ち去られ、窓枠がむき出しになっている。
「な……なんだこれは! 泥棒か!? 衛兵! 衛兵を呼べ!」
シリウスは飛び起きようとしたが、そこでさらなる異変に気づいた。
「……寒い。なぜこんなに床が冷たいのだ。俺の愛用していた、あの毛足の長い最高級絨毯はどうした!」
床は冷え冷えとした石材が露出しており、彼のスリッパすら見当たらない。
そこへ、騒ぎを聞きつけたリリアンが、ふわふわとした寝巻き姿で駆け込んできた。
「シリウス様! どうされましたの? 朝からそんな大きな声を出して……」
「リリアン! 見てくれ、部屋が荒らされている! 俺の家財道具が、ひとつ残らず消えているんだ!」
「あら……本当ですわね。でも、ファルル様が仰っていましたわ。『これはすべて私の私物ですから』って」
「あいつ……! 本当に、ネジ一本残さず持っていきおったのか!」
シリウスはぶるぶると震えながら、着替えをしようとクローゼットを開けた。
しかし、そこに掛かっていたのは、王室から支給された「最低限の儀礼服」二着のみ。
彼が愛用していた、刺繍たっぷりの特注服や、宝石をあしらったボタンの数々は、影も形もなかった。
「おい、靴下はどうした! 俺の右足用の、あのシルクの靴下がないぞ!」
「シリウス様、落ち着いてくださいな。あ、リリアンがお着替えを手伝ってあげますわ!」
リリアンは健気にも服を手に取ったが、彼女はボタンの留め方すら怪しかった。
「あれ……? この紐はどこに通すのかしら。えいっ、結んじゃえ!」
「痛い! リリアン、首が締まっているぞ! それは装飾用の紐だ!」
「すみません! でも、ファルル様はいつも魔法みたいにパパッとお着替えさせていたから、もっと簡単だと思っていましたの……」
三十分後。
ようやく着替えを終えたシリウス(ボタンが二つ掛け違っている)は、ふらふらと食堂へ向かった。
空腹を満たせば、少しは冷静になれると思ったのだ。
「朝食だ! 黄金のオムレツを! 今すぐ持ってこい!」
テーブルについたシリウスの前に出されたのは、真っ黒に焦げ、形が崩れた「何か」だった。
「……なんだこれは。俺はオムレツを頼んだのだ。炭を頼んだ覚えはないぞ」
給仕が涙目になりながら答える。
「も、申し訳ございません、殿下! ファルル様が管理されていた『火加減調整用の魔導具』が回収されてしまい、さらにはレシピの細かな指示書もすべて持ち去られ……」
「レシピなど、料理人の頭に入っているだろう!」
「それが……ファルル様は毎日、その日の湿度や殿下の体調に合わせて、塩の量をコンマ一グラム単位で指示されていたそうで……。我々だけでは、あの味は再現不可能です!」
シリウスは絶望と共に、その「炭」を口に運んだ。
「……苦い。そして、砂利のような食感だ」
「シリウス様、元気を出してください! リリアンが、愛を込めて紅茶を淹れますわ!」
リリアンがポットを傾ける。
しかし、出てきたのは、色が薄すぎてただのお湯にしか見えない液体だった。
「リリアン……これは、茶葉が入っているのか?」
「おかしいわね。ファルル様がいつも使っていた『最高級の茶葉』の缶を開けたら、中身が全部『出がらし』に詰め替えられていたんですもの」
「あいつ……! どこまで徹底しているんだ!」
シリウスはティーカップを叩きつけた。
その時、食堂の扉が激しく開き、宰相が鬼の形相で突き進んできた。
「殿下! こんなところで油を売っている場合ではございませんぞ!」
「宰相……? 朝から騒々しいぞ。俺は今、朝食という名の苦行に耐えている最中なんだ」
「苦行なのはこちらです! 見てください、この書類の山を!」
宰相がテーブルに叩きつけたのは、シリウスが今まで見たこともないような分厚い書類の束だった。
「なんだ、これは。新種の鈍器か?」
「今日の正午までに殿下が目を通し、署名をしなければならない決済書類です! 今まではファルル嬢がすべて事前に整理し、殿下は彼女が指差した場所に判を突くだけで済んでいましたが……!」
「……それが、どうした」
「彼女がいなくなったせいで、我々もどこに何が書いてあるかさっぱり分からんのです! おまけに、殿下が過去に勝手に結んだ『怪しい契約書』の控えも、彼女がすべて金庫に入れて持ち去りました!」
シリウスは、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「……つまり、俺が何をすればいいか、誰も分からないということか?」
「左様です! そして一時間後には、隣国の特使との会談がございます。通訳はどうされるおつもりですか!? ファルル嬢なしで、あの複雑な古代語を操れる者は王宮に一人もおりませんぞ!」
シリウスは、手元の「炭」を見つめた。
カーテンのない部屋で目覚め、首の締まる服を着て、味のしない朝食を食べ、理解不能な書類に囲まれる。
これが、彼が望んだ「真実の愛」の代償だった。
「……リリアン。愛があれば、古代語も話せるようになるか?」
「えっ? リリアン、可愛い歌なら歌えますけれど……」
「だめだ……。終わった。俺の一日が、始まる前に終わった……」
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