あの日、最高の婚約破棄を。

八雲

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「……腹が、減った」

シリウスは、豪華だがガタつく椅子(ファルルが残した唯一の備品)に座り、力なく呟いた。

朝食の「炭オムレツ」を一口食べて以来、彼の胃袋は空虚な悲鳴を上げ続けている。

かつてのこの時間なら、ファルルが厳選した「頭脳労働に最適な糖分補給セット」が完璧なタイミングで差し出されていたはずだった。

バタン、と扉が開く音がして、リリアンが大きなバスケットを抱えて入ってきた。

「シリウス様! 公務でお疲れのあなたのために、リリアンが特製のランチを作って参りましたわ!」

「おぉ、リリアン! やはりお前は俺の女神だ。救われたぞ」

シリウスは、砂漠で水を見つけた旅人のような目でバスケットを見つめた。

リリアンがうふふと微笑みながら中から取り出したのは、ピンク色のリボンで飾られた可愛らしい小箱だった。

「さあ、召し上がれ! リリアンの『愛』がたっぷり詰まった特製サンドイッチです!」

シリウスが期待に胸を膨らませて箱を開けると、そこには……。

「……リリアン。これは、何だ?」

「え? サンドイッチですわ」

「いや、パンとパンの間に挟まっているのは、庭に咲いていたバラの花弁ではないか?」

「そうですわ! バラは愛の象徴ですもの。シリウス様への溢れる愛を表現してみましたの!」

シリウスは、美しく彩られた「植物標本」のような食べ物を見つめ、そっと箱を閉じた。

「リリアン。俺は今、愛よりも炭水化物、あるいはタンパク質を求めているんだ。具体的には、肉だ。厚切りの肉を持ってきてはくれないか」

「まあ、シリウス様ったら野蛮ですわ! 愛があれば、お腹なんていっぱいになりますのに。ほら、私の目を見て? 幸せでしょう?」

「……幸せだが、胃が痛い。物理的に、胃液が胃壁を攻撃しているんだ」

シリウスがテーブルに突っ伏すと、そこへ再び宰相が、今度は白髪を逆立てて踏み込んできた。

「殿下! 特使との会談をドタキャンするとは何事ですか!」

「宰相……すまん。だが、通訳がいないのだ。俺が適当に『ナマステ』と言っておけば済む話ではないだろう?」

「隣国の言葉は『ナマステ』ではありません! それ以前に、会談に持っていくはずの『友好の証の首飾り』が見当たりません! どこにやったのですか!」

「そんなもの、宝物庫にあるだろう」

「ありません! ファルル嬢の目録によれば、それは『殿下の寝室の、左から三番目の引き出しの、二重底の中』にあるはずなのですが、その引き出しごと彼女が持ち去っています!」

シリウスは、血の気が引くのを感じた。

「……あ。そういえば、あのタンスはファルルが自分の貯金で買ったと言っていたな」

「殿下ぁぁ! なぜ国家の重要財産を、私物のタンスに入れたまま婚約破棄したのですか!」

「俺が知るか! あいつが勝手に管理していたんだ!」

隣で話を聞いていたリリアンが、のんきに首を傾げた。

「首飾りなら、リリアンがもっと素敵なのを作ってあげますわ。ほら、このお庭のシロツメクサで編んだ冠なんてどうかしら?」

「リリアン様、今はままごとをしている場合ではないのです!」

宰相の怒声に、リリアンは「ひどいですわ!」と泣き出し、シリウスの胸に飛び込んだ。

「シリウス様ぁ! 宰相様が怖いです! 愛があれば、首飾りなんて石ころと同じではありませんか!」

「……そうだな、リリアン。愛があれば……愛が……」

シリウスは彼女の肩を抱いたが、その耳にお腹の虫が「グゥゥゥ」と、宰相の怒声よりも大きく響き渡った。

「……腹が減りすぎて、愛の言葉が出てこない」

「シリウス様?」

「宰相、悪いが今日はもう解散だ。俺は、俺はこれから……厨房へ行って、余っているパンの耳を探してくる」

「殿下! 一国の王子が何を仰るのですか!」

「うるさい! 愛では腹は膨らまないんだ! ファルルの焼いた、あの外はカリカリで中はモチモチのバゲットが食べたいんだぁぁ!」

シリウスは、泣きじゃくるリリアンを置き去りにして、フラフラと食堂を後にした。

背後で宰相が「ファルル嬢を呼び戻せ!」と絶叫していたが、今のシリウスには、その声すら遠い国の音楽のようにしか聞こえなかった。

彼の脳内は今、愛する女性の笑顔ではなく、黄金色に輝くバターたっぷりのクロワッサンで占拠されていた。
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