11 / 28
11
「……殿下、聞こえておりますかな? 私の声が、その空っぽの御頭(おつむ)に届いておりますかな!?」
王宮の執務室に、落雷のような怒声が響き渡った。
声を張り上げているのは、この国の政(まつりごと)を一手に引き受ける老練な宰相、バルカであった。
彼の目の前には、ボタンを掛け違えたまま、力なく椅子に沈み込んでいる第一王子シリウスの姿がある。
「聞こえている。……そんなに怒鳴らなくても聞こえているぞ、宰相」
「では、なぜその手は止まったままなのですか! その書類は、隣国の貿易協定に関する最優先事項だと、先ほどから三回は説明したはずですが!」
シリウスは、目の前に広げられた羊皮紙を恨めしそうに見つめた。
そこには、複雑な関税率の計算式や、輸出入品の品目リストがびっしりと並んでいる。
「……読めないのだ。いや、文字は読めるのだが、意味が頭に入ってこない。ファルルがいれば、三行でまとめてくれたというのに」
「当然です! ファルル嬢は、殿下の理解力……いえ、『お好みの要約スタイル』に合わせて、あえて資料を再構築してくださっていたのですから!」
宰相はバサリと、別の分厚い台帳をテーブルに叩きつけた。
「いいですか、殿下。今まであなたが『俺の采配で国が回っている』と豪語していたものの九割九分は、彼女が裏で回していた『下準備』の上に成り立っていたのです!」
「九割九分だと? 失礼な。俺だって、署名をする際はペンを走らせる努力を……」
「そのペンにインクを補充し、判を突く位置に付箋を貼り、間違った場所に署名しようとするあなたの手を優しく(物理的に)制止していたのは誰だと思っているのですか!」
宰相の額には、今にも破裂しそうなほど青筋が浮き出ている。
そこへ、ふわふわとした足取りでリリアンが入ってきた。
「まあ、宰相様。またシリウス様をいじめていらっしゃるの? 可哀想に、シリウス様は今、お腹が空いていらっしゃるんですわよ」
リリアンは、シリウスの肩にそっと手を置いた。
「愛があれば、難しい数字なんて見えなくなってしまいますわ。ねえ、シリウス様?」
「……ああ、リリアン。確かに数字は霞んで見える。空腹のせいか、愛のせいかは分からんが」
宰相は、リリアンの笑顔を見て、一瞬だけ遠い目をした。
「リリアン様。……その手に持っているものは、何ですか?」
「これですか? 執務室が少し暗かったので、あそこにあった『古い紙』で紙飛行機を作って飛ばしていたんですの。よく飛ぶんですよ!」
リリアンが指差した先には、床に転がる数機の紙飛行機があった。
宰相は、這いつくばるような勢いでそれを拾い上げ、広げた。
「……ぎゃあああああ! こ、これは、先代国王が遺した秘伝の『非常時用金庫の暗号表』だぞ!」
「あら、そんなに大事なものだったんですの? でも、折り紙にするのに丁度いい硬さでしたわ」
「この、この……この、無知蒙昧な小娘がぁぁぁ!」
宰相の絶叫に、リリアンは「ひどいですわ!」とシリウスの胸に泣き崩れた。
「シリウス様! 宰相様が、私を小娘だなんて! ひどい、ひどすぎますわ!」
「宰相! リリアンを怖がらせるな。彼女はただ、部屋を明るくしようとしただけ……」
「殿下! いい加減に目を覚ましなさい!」
宰相は、シリウスの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「あなたが『真実の愛』だ何だと浮かれている間に、この国は破滅へと向かっているのです! 今朝、財務部が悲鳴を上げました。ファルル嬢が管理していた『裏帳簿』……いえ、『適正な予算管理表』のパスワードが、彼女が連れて行ったセバスという執事以外、誰にも分からないのです!」
「パスワード……? そんなもの、あいつの誕生日にでもしておけばいいだろう」
「試しましたよ! 彼女の誕生日、殿下の誕生日、二人の婚約記念日、王宮の創立記念日、すべてハズレです!」
「……なら、何なんだ」
「正解は『無能王子の更生記録第一巻』でした。……しかし、それも彼女が昨日、退室間際に書き換えたようで、今は『残業代未払いにつき閲覧不可』と表示されるだけです!」
シリウスは、椅子の背もたれに頭をぶつけた。
「あいつ……そこまで、そこまで俺を追い詰めるつもりか」
「追い詰められたのは自業自得です! いいですか、殿下。今すぐ、今すぐファルル嬢の元へ行き、土下座をしてでも戻ってきてもらうのです!」
「嫌だ! 俺には王族としてのプライドがある!」
「プライドで予算が組めますか! プライドで隣国の関税が下がりますか!」
宰相の怒声は、もはや廊下まで筒抜けであった。
「いいですか、殿下。明日までに予算案が完成しなければ、私は王会議であなたの廃嫡を提案します。……これは脅しではありません。国家の生存本能です」
宰相は、それだけ言い残すと、紙飛行機(暗号表)を大切そうに抱えて部屋を飛び出していった。
静まり返った執務室で、シリウスはリリアンのすすり泣きを聞きながら、ぼんやりと天井を見上げた。
「……リリアン」
「はい、シリウス様」
「……お前、算数は得意か?」
「ええ! リンゴが三つあって、一つ食べたら幸せが一つ増える、っていう計算なら得意ですわ!」
シリウスは、深く、深く目を閉じた。
「……だめだ。やはり、肉が食べたい」
彼の喉を鳴らしたのは、愛の囁きではなく、空腹による絶望の音だった。
王宮の執務室に、落雷のような怒声が響き渡った。
声を張り上げているのは、この国の政(まつりごと)を一手に引き受ける老練な宰相、バルカであった。
彼の目の前には、ボタンを掛け違えたまま、力なく椅子に沈み込んでいる第一王子シリウスの姿がある。
「聞こえている。……そんなに怒鳴らなくても聞こえているぞ、宰相」
「では、なぜその手は止まったままなのですか! その書類は、隣国の貿易協定に関する最優先事項だと、先ほどから三回は説明したはずですが!」
シリウスは、目の前に広げられた羊皮紙を恨めしそうに見つめた。
そこには、複雑な関税率の計算式や、輸出入品の品目リストがびっしりと並んでいる。
「……読めないのだ。いや、文字は読めるのだが、意味が頭に入ってこない。ファルルがいれば、三行でまとめてくれたというのに」
「当然です! ファルル嬢は、殿下の理解力……いえ、『お好みの要約スタイル』に合わせて、あえて資料を再構築してくださっていたのですから!」
宰相はバサリと、別の分厚い台帳をテーブルに叩きつけた。
「いいですか、殿下。今まであなたが『俺の采配で国が回っている』と豪語していたものの九割九分は、彼女が裏で回していた『下準備』の上に成り立っていたのです!」
「九割九分だと? 失礼な。俺だって、署名をする際はペンを走らせる努力を……」
「そのペンにインクを補充し、判を突く位置に付箋を貼り、間違った場所に署名しようとするあなたの手を優しく(物理的に)制止していたのは誰だと思っているのですか!」
宰相の額には、今にも破裂しそうなほど青筋が浮き出ている。
そこへ、ふわふわとした足取りでリリアンが入ってきた。
「まあ、宰相様。またシリウス様をいじめていらっしゃるの? 可哀想に、シリウス様は今、お腹が空いていらっしゃるんですわよ」
リリアンは、シリウスの肩にそっと手を置いた。
「愛があれば、難しい数字なんて見えなくなってしまいますわ。ねえ、シリウス様?」
「……ああ、リリアン。確かに数字は霞んで見える。空腹のせいか、愛のせいかは分からんが」
宰相は、リリアンの笑顔を見て、一瞬だけ遠い目をした。
「リリアン様。……その手に持っているものは、何ですか?」
「これですか? 執務室が少し暗かったので、あそこにあった『古い紙』で紙飛行機を作って飛ばしていたんですの。よく飛ぶんですよ!」
リリアンが指差した先には、床に転がる数機の紙飛行機があった。
宰相は、這いつくばるような勢いでそれを拾い上げ、広げた。
「……ぎゃあああああ! こ、これは、先代国王が遺した秘伝の『非常時用金庫の暗号表』だぞ!」
「あら、そんなに大事なものだったんですの? でも、折り紙にするのに丁度いい硬さでしたわ」
「この、この……この、無知蒙昧な小娘がぁぁぁ!」
宰相の絶叫に、リリアンは「ひどいですわ!」とシリウスの胸に泣き崩れた。
「シリウス様! 宰相様が、私を小娘だなんて! ひどい、ひどすぎますわ!」
「宰相! リリアンを怖がらせるな。彼女はただ、部屋を明るくしようとしただけ……」
「殿下! いい加減に目を覚ましなさい!」
宰相は、シリウスの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「あなたが『真実の愛』だ何だと浮かれている間に、この国は破滅へと向かっているのです! 今朝、財務部が悲鳴を上げました。ファルル嬢が管理していた『裏帳簿』……いえ、『適正な予算管理表』のパスワードが、彼女が連れて行ったセバスという執事以外、誰にも分からないのです!」
「パスワード……? そんなもの、あいつの誕生日にでもしておけばいいだろう」
「試しましたよ! 彼女の誕生日、殿下の誕生日、二人の婚約記念日、王宮の創立記念日、すべてハズレです!」
「……なら、何なんだ」
「正解は『無能王子の更生記録第一巻』でした。……しかし、それも彼女が昨日、退室間際に書き換えたようで、今は『残業代未払いにつき閲覧不可』と表示されるだけです!」
シリウスは、椅子の背もたれに頭をぶつけた。
「あいつ……そこまで、そこまで俺を追い詰めるつもりか」
「追い詰められたのは自業自得です! いいですか、殿下。今すぐ、今すぐファルル嬢の元へ行き、土下座をしてでも戻ってきてもらうのです!」
「嫌だ! 俺には王族としてのプライドがある!」
「プライドで予算が組めますか! プライドで隣国の関税が下がりますか!」
宰相の怒声は、もはや廊下まで筒抜けであった。
「いいですか、殿下。明日までに予算案が完成しなければ、私は王会議であなたの廃嫡を提案します。……これは脅しではありません。国家の生存本能です」
宰相は、それだけ言い残すと、紙飛行機(暗号表)を大切そうに抱えて部屋を飛び出していった。
静まり返った執務室で、シリウスはリリアンのすすり泣きを聞きながら、ぼんやりと天井を見上げた。
「……リリアン」
「はい、シリウス様」
「……お前、算数は得意か?」
「ええ! リンゴが三つあって、一つ食べたら幸せが一つ増える、っていう計算なら得意ですわ!」
シリウスは、深く、深く目を閉じた。
「……だめだ。やはり、肉が食べたい」
彼の喉を鳴らしたのは、愛の囁きではなく、空腹による絶望の音だった。
あなたにおすすめの小説
政略結婚の作法
夜宮
恋愛
悪女になる。
そして、全てをこの手に。
政略結婚のために身分違いの恋人のいる王太子の婚約者となった公爵令嬢は、妹の囁きを胸に悪女となることを決意した。
悪女と身分違いの恋人、悪女になるはずだった妹の物語。
笑い方を忘れた令嬢
Blue
恋愛
お母様が天国へと旅立ってから10年の月日が流れた。大好きなお父様と二人で過ごす日々に突然終止符が打たれる。突然やって来た新しい家族。病で倒れてしまったお父様。私を嫌な目つきで見てくる伯父様。どうしたらいいの?誰か、助けて。
後妻の条件を出したら……
しゃーりん
恋愛
妻と離婚した伯爵令息アークライトは、友人に聞かれて自分が後妻に望む条件をいくつか挙げた。
格上の貴族から厄介な女性を押しつけられることを危惧し、友人の勧めで伯爵令嬢マデリーンと結婚することになった。
だがこのマデリーン、アークライトの出した条件にそれほどズレてはいないが、貴族令嬢としての教育を受けていないという驚きの事実が発覚したのだ。
しかし、明るく真面目なマデリーンをアークライトはすぐに好きになるというお話です。
【完結】一番腹黒いのはだあれ?
やまぐちこはる
恋愛
■□■
貧しいコイント子爵家のソンドールは、貴族学院には進学せず、騎士学校に通って若くして正騎士となった有望株である。
三歳でコイント家に養子に来たソンドールの生家はパートルム公爵家。
しかし、関わりを持たずに生きてきたため、自分が公爵家生まれだったことなどすっかり忘れていた。
ある日、実の父がソンドールに会いに来て、自分の出自を改めて知り、勝手なことを言う実父に憤りながらも、生家の騒動に巻き込まれていく。
捨てられたなら 〜婚約破棄された私に出来ること〜
ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
長年の婚約者だった王太子殿下から婚約破棄を言い渡されたクリスティン。
彼女は婚約破棄を受け入れ、周りも処理に動き出します。
さて、どうなりますでしょうか……
別作品のボツネタ救済です(ヒロインの名前と設定のみ)。
突然のポイント数増加に驚いています。HOTランキングですか?
自分には縁のないものだと思っていたのでびっくりしました。
私の拙い作品をたくさんの方に読んでいただけて嬉しいです。
それに伴い、たくさんの方から感想をいただくようになりました。
ありがとうございます。
様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。
ただ、皆様に楽しんでいただけたらと思いますので、中にはいただいたコメントを非公開とさせていただく場合がございます。
申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。
もちろん、私は全て読ませていただきますし、削除はいたしません。
7/16 最終部がわかりにくいとのご指摘をいただき、訂正しました。
※この作品は小説家になろうさんでも公開しています。
辺境伯へ嫁ぎます。
アズやっこ
恋愛
私の父、国王陛下から、辺境伯へ嫁げと言われました。
隣国の王子の次は辺境伯ですか… 分かりました。
私は第二王女。所詮国の為の駒でしかないのです。 例え父であっても国王陛下には逆らえません。
辺境伯様… 若くして家督を継がれ、辺境の地を護っています。
本来ならば第一王女のお姉様が嫁ぐはずでした。
辺境伯様も10歳も年下の私を妻として娶らなければいけないなんて可哀想です。
辺境伯様、大丈夫です。私はご迷惑はおかけしません。
それでも、もし、私でも良いのなら…こんな小娘でも良いのなら…貴方を愛しても良いですか?貴方も私を愛してくれますか?
そんな望みを抱いてしまいます。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 設定はゆるいです。
(言葉使いなど、優しい目で読んで頂けると幸いです)
❈ 誤字脱字等教えて頂けると幸いです。
(出来れば望ましいと思う字、文章を教えて頂けると嬉しいです)