あの日、最高の婚約破棄を。

八雲

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「……殿下、聞こえておりますかな? 私の声が、その空っぽの御頭(おつむ)に届いておりますかな!?」

王宮の執務室に、落雷のような怒声が響き渡った。

声を張り上げているのは、この国の政(まつりごと)を一手に引き受ける老練な宰相、バルカであった。

彼の目の前には、ボタンを掛け違えたまま、力なく椅子に沈み込んでいる第一王子シリウスの姿がある。

「聞こえている。……そんなに怒鳴らなくても聞こえているぞ、宰相」

「では、なぜその手は止まったままなのですか! その書類は、隣国の貿易協定に関する最優先事項だと、先ほどから三回は説明したはずですが!」

シリウスは、目の前に広げられた羊皮紙を恨めしそうに見つめた。

そこには、複雑な関税率の計算式や、輸出入品の品目リストがびっしりと並んでいる。

「……読めないのだ。いや、文字は読めるのだが、意味が頭に入ってこない。ファルルがいれば、三行でまとめてくれたというのに」

「当然です! ファルル嬢は、殿下の理解力……いえ、『お好みの要約スタイル』に合わせて、あえて資料を再構築してくださっていたのですから!」

宰相はバサリと、別の分厚い台帳をテーブルに叩きつけた。

「いいですか、殿下。今まであなたが『俺の采配で国が回っている』と豪語していたものの九割九分は、彼女が裏で回していた『下準備』の上に成り立っていたのです!」

「九割九分だと? 失礼な。俺だって、署名をする際はペンを走らせる努力を……」

「そのペンにインクを補充し、判を突く位置に付箋を貼り、間違った場所に署名しようとするあなたの手を優しく(物理的に)制止していたのは誰だと思っているのですか!」

宰相の額には、今にも破裂しそうなほど青筋が浮き出ている。

そこへ、ふわふわとした足取りでリリアンが入ってきた。

「まあ、宰相様。またシリウス様をいじめていらっしゃるの? 可哀想に、シリウス様は今、お腹が空いていらっしゃるんですわよ」

リリアンは、シリウスの肩にそっと手を置いた。

「愛があれば、難しい数字なんて見えなくなってしまいますわ。ねえ、シリウス様?」

「……ああ、リリアン。確かに数字は霞んで見える。空腹のせいか、愛のせいかは分からんが」

宰相は、リリアンの笑顔を見て、一瞬だけ遠い目をした。

「リリアン様。……その手に持っているものは、何ですか?」

「これですか? 執務室が少し暗かったので、あそこにあった『古い紙』で紙飛行機を作って飛ばしていたんですの。よく飛ぶんですよ!」

リリアンが指差した先には、床に転がる数機の紙飛行機があった。

宰相は、這いつくばるような勢いでそれを拾い上げ、広げた。

「……ぎゃあああああ! こ、これは、先代国王が遺した秘伝の『非常時用金庫の暗号表』だぞ!」

「あら、そんなに大事なものだったんですの? でも、折り紙にするのに丁度いい硬さでしたわ」

「この、この……この、無知蒙昧な小娘がぁぁぁ!」

宰相の絶叫に、リリアンは「ひどいですわ!」とシリウスの胸に泣き崩れた。

「シリウス様! 宰相様が、私を小娘だなんて! ひどい、ひどすぎますわ!」

「宰相! リリアンを怖がらせるな。彼女はただ、部屋を明るくしようとしただけ……」

「殿下! いい加減に目を覚ましなさい!」

宰相は、シリウスの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。

「あなたが『真実の愛』だ何だと浮かれている間に、この国は破滅へと向かっているのです! 今朝、財務部が悲鳴を上げました。ファルル嬢が管理していた『裏帳簿』……いえ、『適正な予算管理表』のパスワードが、彼女が連れて行ったセバスという執事以外、誰にも分からないのです!」

「パスワード……? そんなもの、あいつの誕生日にでもしておけばいいだろう」

「試しましたよ! 彼女の誕生日、殿下の誕生日、二人の婚約記念日、王宮の創立記念日、すべてハズレです!」

「……なら、何なんだ」

「正解は『無能王子の更生記録第一巻』でした。……しかし、それも彼女が昨日、退室間際に書き換えたようで、今は『残業代未払いにつき閲覧不可』と表示されるだけです!」

シリウスは、椅子の背もたれに頭をぶつけた。

「あいつ……そこまで、そこまで俺を追い詰めるつもりか」

「追い詰められたのは自業自得です! いいですか、殿下。今すぐ、今すぐファルル嬢の元へ行き、土下座をしてでも戻ってきてもらうのです!」

「嫌だ! 俺には王族としてのプライドがある!」

「プライドで予算が組めますか! プライドで隣国の関税が下がりますか!」

宰相の怒声は、もはや廊下まで筒抜けであった。

「いいですか、殿下。明日までに予算案が完成しなければ、私は王会議であなたの廃嫡を提案します。……これは脅しではありません。国家の生存本能です」

宰相は、それだけ言い残すと、紙飛行機(暗号表)を大切そうに抱えて部屋を飛び出していった。

静まり返った執務室で、シリウスはリリアンのすすり泣きを聞きながら、ぼんやりと天井を見上げた。

「……リリアン」

「はい、シリウス様」

「……お前、算数は得意か?」

「ええ! リンゴが三つあって、一つ食べたら幸せが一つ増える、っていう計算なら得意ですわ!」

シリウスは、深く、深く目を閉じた。

「……だめだ。やはり、肉が食べたい」

彼の喉を鳴らしたのは、愛の囁きではなく、空腹による絶望の音だった。
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