12 / 28
12
しおりを挟む
ボナパルト公爵邸の豪奢な門の前に、一台の王室紋章入り馬車が止まった。
中から降りてきたのは、寝不足で目の下にクマを作り、心なしか服の着こなしがだらしない第一王子シリウスである。
彼は門番を威圧するように胸を張り、邸宅の玄関へと突き進んだ。
「ファルル! ファルルはおるか! 俺が直々に来てやったぞ!」
玄関ホールで彼を待ち構えていたのは、氷のように冷ややかな微笑を浮かべた執事セバスだった。
「これはこれは、シリウス殿下。本日はどのようなご用件でしょうか。あいにく、当家のお嬢様は現在『魂の洗濯』という重要公務の最中でございますが」
「魂の洗濯だと? そんなものは後回しだ。俺がわざわざ足を運んでやったんだ、光栄に思え」
シリウスはセバスを突き飛ばす勢いで応接室へ向かった。
そこでは、庭園を眺めながら優雅に最新のスイーツを頬張るファルルの姿があった。
「あら、殿下。迷子センターに転送される設定にしていたはずですが、どうやってここまで?」
「ファルル! お前という女は……! 俺の城が今、どんな惨状になっているか分かっているのか!」
ファルルはティーカップを置き、ゆっくりとシリウスを見上げた。
「惨状? 知りませんわ。私はすでに退職届を提出し、受理された身。元職場が火の車だろうが、爆発しようが、私の知ったことではありません」
「ふん、強がりを言うな。お前も本当は、俺が迎えに来るのを今か今かと待っていたのだろう?」
シリウスは自信満々に椅子に腰を下ろし、指をパチンと鳴らした。
「いいだろう。特別に、先日の婚約破棄を『なかったこと』にしてやる。お前を再び、俺の婚約者として再雇用してやろうと言っているのだ」
ファルルの眉が、ピクリと動いた。
「……再雇用、ですか?」
「そうだ。ただし条件がある。まず、リリアンを側妃として受け入れること。そして、溜まりに溜まった三日分の書類を今夜中にすべて片付けること。それさえすれば、俺はお前を再び愛してやらんでもないぞ」
沈黙が流れた。
セバスが背後で「お嬢様、今すぐこの男を物理的に排除してよろしいでしょうか」という視線を送っている。
ファルルはくすりと笑い、手元のナプキンで口元を拭った。
「殿下、一つお伺いしてもよろしいですか?」
「なんだ、感激して言葉も出ないか?」
「いえ。その『再雇用契約』において、私の福利厚生はどうなっておりますの? 有給休暇の取得権、深夜残業代の支給、そして何より『無能な上司からのハラスメント対策』は?」
シリウスは目を白黒させた。
「な、何を言っている! 王子の婚約者になれることが最大の報酬だろうが!」
「お断りいたしますわ。以前の私は、若さと情熱という名の無謀な投資でその職に就いておりましたが、今の私は『健全な経営』を目指しておりますの」
「健全な経営だと?」
「ええ。コスト(苦労)に見合わないリターン(愛情という名の虚無)を追い求めるのは、もうやめました。今の生活は、時給換算すると以前の数千倍の豊かさですわ」
ファルルは立ち上がり、扉の方を指差した。
「殿下、あいにくですが本日の営業時間は終了いたしました。これ以上の交渉は、私の顧問弁護士(父)を通していただけますか?」
「ま、待て! ファルル! 俺がこんなに歩み寄っているんだぞ! 戻ってこい! あの書類の山の、どこに印を突けばいいかだけでも教えていけ!」
「セバス、お客様をお出口まで。あ、足元が滑りやすいので、そのまま門の外まで滑らせて差し上げて」
「かしこまりました、お嬢様」
セバスが音もなくシリウスの背後に回り込み、その首根っこを優雅な手つきで掴んだ。
「離せ! 俺は王子だぞ! ファルル、後悔するぞ! 明日にはリリアンが俺の完璧な秘書になって……!」
「どうぞ、お幸せに。……あ、殿下。ボタンが三つ、掛け違ったままですわよ。そんなだらしない姿で公務をなさるなんて、王室の『ブランド価値』が下がりますわね」
シリウスの叫び声が遠ざかっていく。
静寂を取り戻した応接室で、ファルルは冷めた紅茶を一口飲んだ。
「……再雇用なんて、冗談じゃないわ。私はもっと、割の良い『仕事』を見つけるつもりなんですもの」
窓の外では、夕焼けが美しく街を染めていた。
ファルルの「自由」への道は、誰にも邪魔させるつもりはなかった。
中から降りてきたのは、寝不足で目の下にクマを作り、心なしか服の着こなしがだらしない第一王子シリウスである。
彼は門番を威圧するように胸を張り、邸宅の玄関へと突き進んだ。
「ファルル! ファルルはおるか! 俺が直々に来てやったぞ!」
玄関ホールで彼を待ち構えていたのは、氷のように冷ややかな微笑を浮かべた執事セバスだった。
「これはこれは、シリウス殿下。本日はどのようなご用件でしょうか。あいにく、当家のお嬢様は現在『魂の洗濯』という重要公務の最中でございますが」
「魂の洗濯だと? そんなものは後回しだ。俺がわざわざ足を運んでやったんだ、光栄に思え」
シリウスはセバスを突き飛ばす勢いで応接室へ向かった。
そこでは、庭園を眺めながら優雅に最新のスイーツを頬張るファルルの姿があった。
「あら、殿下。迷子センターに転送される設定にしていたはずですが、どうやってここまで?」
「ファルル! お前という女は……! 俺の城が今、どんな惨状になっているか分かっているのか!」
ファルルはティーカップを置き、ゆっくりとシリウスを見上げた。
「惨状? 知りませんわ。私はすでに退職届を提出し、受理された身。元職場が火の車だろうが、爆発しようが、私の知ったことではありません」
「ふん、強がりを言うな。お前も本当は、俺が迎えに来るのを今か今かと待っていたのだろう?」
シリウスは自信満々に椅子に腰を下ろし、指をパチンと鳴らした。
「いいだろう。特別に、先日の婚約破棄を『なかったこと』にしてやる。お前を再び、俺の婚約者として再雇用してやろうと言っているのだ」
ファルルの眉が、ピクリと動いた。
「……再雇用、ですか?」
「そうだ。ただし条件がある。まず、リリアンを側妃として受け入れること。そして、溜まりに溜まった三日分の書類を今夜中にすべて片付けること。それさえすれば、俺はお前を再び愛してやらんでもないぞ」
沈黙が流れた。
セバスが背後で「お嬢様、今すぐこの男を物理的に排除してよろしいでしょうか」という視線を送っている。
ファルルはくすりと笑い、手元のナプキンで口元を拭った。
「殿下、一つお伺いしてもよろしいですか?」
「なんだ、感激して言葉も出ないか?」
「いえ。その『再雇用契約』において、私の福利厚生はどうなっておりますの? 有給休暇の取得権、深夜残業代の支給、そして何より『無能な上司からのハラスメント対策』は?」
シリウスは目を白黒させた。
「な、何を言っている! 王子の婚約者になれることが最大の報酬だろうが!」
「お断りいたしますわ。以前の私は、若さと情熱という名の無謀な投資でその職に就いておりましたが、今の私は『健全な経営』を目指しておりますの」
「健全な経営だと?」
「ええ。コスト(苦労)に見合わないリターン(愛情という名の虚無)を追い求めるのは、もうやめました。今の生活は、時給換算すると以前の数千倍の豊かさですわ」
ファルルは立ち上がり、扉の方を指差した。
「殿下、あいにくですが本日の営業時間は終了いたしました。これ以上の交渉は、私の顧問弁護士(父)を通していただけますか?」
「ま、待て! ファルル! 俺がこんなに歩み寄っているんだぞ! 戻ってこい! あの書類の山の、どこに印を突けばいいかだけでも教えていけ!」
「セバス、お客様をお出口まで。あ、足元が滑りやすいので、そのまま門の外まで滑らせて差し上げて」
「かしこまりました、お嬢様」
セバスが音もなくシリウスの背後に回り込み、その首根っこを優雅な手つきで掴んだ。
「離せ! 俺は王子だぞ! ファルル、後悔するぞ! 明日にはリリアンが俺の完璧な秘書になって……!」
「どうぞ、お幸せに。……あ、殿下。ボタンが三つ、掛け違ったままですわよ。そんなだらしない姿で公務をなさるなんて、王室の『ブランド価値』が下がりますわね」
シリウスの叫び声が遠ざかっていく。
静寂を取り戻した応接室で、ファルルは冷めた紅茶を一口飲んだ。
「……再雇用なんて、冗談じゃないわ。私はもっと、割の良い『仕事』を見つけるつもりなんですもの」
窓の外では、夕焼けが美しく街を染めていた。
ファルルの「自由」への道は、誰にも邪魔させるつもりはなかった。
11
あなたにおすすめの小説
聞き分けよくしていたら婚約者が妹にばかり構うので、困らせてみることにした
今川幸乃
恋愛
カレン・ブライスとクライン・ガスターはどちらも公爵家の生まれで政略結婚のために婚約したが、お互い愛し合っていた……はずだった。
二人は貴族が通う学園の同級生で、クラスメイトたちにもその仲の良さは知られていた。
しかし、昨年クラインの妹、レイラが貴族が学園に入学してから状況が変わった。
元々人のいいところがあるクラインは、甘えがちな妹にばかり構う。
そのたびにカレンは聞き分けよく我慢せざるをえなかった。
が、ある日クラインがレイラのためにデートをすっぽかしてからカレンは決心する。
このまま聞き分けのいい婚約者をしていたところで状況は悪くなるだけだ、と。
※ざまぁというよりは改心系です。
※4/5【レイラ視点】【リーアム視点】の間に、入れ忘れていた【女友達視点】の話を追加しました。申し訳ありません。
《本編完結》あの人を綺麗さっぱり忘れる方法
本見りん
恋愛
メラニー アイスナー子爵令嬢はある日婚約者ディートマーから『婚約破棄』を言い渡される。
ショックで落ち込み、彼と婚約者として過ごした日々を思い出して涙していた───が。
……あれ? 私ってずっと虐げられてない? 彼からはずっと嫌な目にあった思い出しかないんだけど!?
やっと自分が虐げられていたと気付き目が覚めたメラニー。
しかも両親も昔からディートマーに騙されている為、両親の説得から始めなければならない。
そしてこの王国ではかつて王子がやらかした『婚約破棄騒動』の為に、世間では『婚約破棄、ダメ、絶対』な風潮がある。
自分の思うようにする為に手段を選ばないだろう元婚約者ディートマーから、メラニーは無事自由を勝ち取る事が出来るのだろうか……。
記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~
Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。
走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。
忖度令嬢、忖度やめて最強になる
ハートリオ
恋愛
エクアは13才の伯爵令嬢。
5才年上の婚約者アーテル侯爵令息とは上手くいっていない。
週末のお茶会を頑張ろうとは思うもののアーテルの態度はいつも上の空。
そんなある週末、エクアは自分が裏切られていることを知り――
忖度ばかりして来たエクアは忖度をやめ、思いをぶちまける。
そんなエクアをキラキラした瞳で見る人がいた。
中世風異世界でのお話です。
2話ずつ投稿していきたいですが途切れたらネット環境まごついていると思ってください。
愛はリンゴと同じ
turarin
恋愛
学園時代の同級生と結婚し、子供にも恵まれ幸せいっぱいの公爵夫人ナタリー。ところが、ある日夫が平民の少女をつれてきて、別邸に囲うと言う。
夫のナタリーへの愛は減らない。妾の少女メイリンへの愛が、一つ増えるだけだと言う。夫の愛は、まるでリンゴのように幾つもあって、皆に与えられるものなのだそうだ。
ナタリーのことは妻として大切にしてくれる夫。貴族の妻としては当然受け入れるべき。だが、辛くて仕方がない。ナタリーのリンゴは一つだけ。
幾つもあるなど考えられない。
〖完結〗終着駅のパッセージ
苺迷音
恋愛
分厚い眼鏡と、ひっつめた髪を毛糸帽で覆う女性・カレン。
彼女はとある想いを胸に北へ向かう蒸気機関車に乗っていた。
王都から離れてゆく車窓を眺めながら、カレンは夫と婚姻してから三年という長い時間を振り返る。
その間、夫が帰宅したのは数えるほどだった。
※ご覧いただけましたらとても嬉しいです。よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる