あの日、最高の婚約破棄を。

八雲

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ボナパルト公爵邸の豪奢な門の前に、一台の王室紋章入り馬車が止まった。

中から降りてきたのは、寝不足で目の下にクマを作り、心なしか服の着こなしがだらしない第一王子シリウスである。

彼は門番を威圧するように胸を張り、邸宅の玄関へと突き進んだ。

「ファルル! ファルルはおるか! 俺が直々に来てやったぞ!」

玄関ホールで彼を待ち構えていたのは、氷のように冷ややかな微笑を浮かべた執事セバスだった。

「これはこれは、シリウス殿下。本日はどのようなご用件でしょうか。あいにく、当家のお嬢様は現在『魂の洗濯』という重要公務の最中でございますが」

「魂の洗濯だと? そんなものは後回しだ。俺がわざわざ足を運んでやったんだ、光栄に思え」

シリウスはセバスを突き飛ばす勢いで応接室へ向かった。

そこでは、庭園を眺めながら優雅に最新のスイーツを頬張るファルルの姿があった。

「あら、殿下。迷子センターに転送される設定にしていたはずですが、どうやってここまで?」

「ファルル! お前という女は……! 俺の城が今、どんな惨状になっているか分かっているのか!」

ファルルはティーカップを置き、ゆっくりとシリウスを見上げた。

「惨状? 知りませんわ。私はすでに退職届を提出し、受理された身。元職場が火の車だろうが、爆発しようが、私の知ったことではありません」

「ふん、強がりを言うな。お前も本当は、俺が迎えに来るのを今か今かと待っていたのだろう?」

シリウスは自信満々に椅子に腰を下ろし、指をパチンと鳴らした。

「いいだろう。特別に、先日の婚約破棄を『なかったこと』にしてやる。お前を再び、俺の婚約者として再雇用してやろうと言っているのだ」

ファルルの眉が、ピクリと動いた。

「……再雇用、ですか?」

「そうだ。ただし条件がある。まず、リリアンを側妃として受け入れること。そして、溜まりに溜まった三日分の書類を今夜中にすべて片付けること。それさえすれば、俺はお前を再び愛してやらんでもないぞ」

沈黙が流れた。

セバスが背後で「お嬢様、今すぐこの男を物理的に排除してよろしいでしょうか」という視線を送っている。

ファルルはくすりと笑い、手元のナプキンで口元を拭った。

「殿下、一つお伺いしてもよろしいですか?」

「なんだ、感激して言葉も出ないか?」

「いえ。その『再雇用契約』において、私の福利厚生はどうなっておりますの? 有給休暇の取得権、深夜残業代の支給、そして何より『無能な上司からのハラスメント対策』は?」

シリウスは目を白黒させた。

「な、何を言っている! 王子の婚約者になれることが最大の報酬だろうが!」

「お断りいたしますわ。以前の私は、若さと情熱という名の無謀な投資でその職に就いておりましたが、今の私は『健全な経営』を目指しておりますの」

「健全な経営だと?」

「ええ。コスト(苦労)に見合わないリターン(愛情という名の虚無)を追い求めるのは、もうやめました。今の生活は、時給換算すると以前の数千倍の豊かさですわ」

ファルルは立ち上がり、扉の方を指差した。

「殿下、あいにくですが本日の営業時間は終了いたしました。これ以上の交渉は、私の顧問弁護士(父)を通していただけますか?」

「ま、待て! ファルル! 俺がこんなに歩み寄っているんだぞ! 戻ってこい! あの書類の山の、どこに印を突けばいいかだけでも教えていけ!」

「セバス、お客様をお出口まで。あ、足元が滑りやすいので、そのまま門の外まで滑らせて差し上げて」

「かしこまりました、お嬢様」

セバスが音もなくシリウスの背後に回り込み、その首根っこを優雅な手つきで掴んだ。

「離せ! 俺は王子だぞ! ファルル、後悔するぞ! 明日にはリリアンが俺の完璧な秘書になって……!」

「どうぞ、お幸せに。……あ、殿下。ボタンが三つ、掛け違ったままですわよ。そんなだらしない姿で公務をなさるなんて、王室の『ブランド価値』が下がりますわね」

シリウスの叫び声が遠ざかっていく。

静寂を取り戻した応接室で、ファルルは冷めた紅茶を一口飲んだ。

「……再雇用なんて、冗談じゃないわ。私はもっと、割の良い『仕事』を見つけるつもりなんですもの」

窓の外では、夕焼けが美しく街を染めていた。

ファルルの「自由」への道は、誰にも邪魔させるつもりはなかった。
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