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「……ふぅ。これでようやく、騎士団の装備新調に関する予算案が通ったわね」
深夜の執務室。ファルルは最後の一枚にサインを終え、椅子の背もたれに深く体を預けた。
かつての彼女なら、この後さらに「王子の寝顔確認」や「明日の服のシワ伸ばし」が待っていたが、今の彼女は自由だ。
「お疲れ様でございました、お嬢様。……深夜二時を回っております。少々、働きすぎではございませんか?」
「セバス、あなたに言われたくないわ。私がペンを置く一秒前に、完璧な温度のハーブティーを差し出すなんて……。あなたこそ、いつ寝ているの?」
セバスは音もなく歩み寄り、冷めたティーカップを下げ、新しい香りを漂わせるカップを置いた。
「私はお嬢様の影でございますから。主が輝いている間、影が眠るわけには参りません」
「ふふ、相変わらず口が上手いわね。……でも、本当にありがとう。あなたがいてくれなければ、王宮の再建なんて一週間で投げ出していたわ」
ファルルは窓の外に広がる月夜を眺めた。
シリウスは今頃、下僕用の宿舎で「雑巾の絞りすぎで腱鞘炎だ」と泣き言を言いながら眠っているはずだ。
そこへ、控えめなノックの音が響き、一人の初老の紳士が姿を現した。
隣国・ノルド帝国の特使、ヴォルガン伯爵である。
「夜分に失礼。……ファルル公爵令嬢、例の通商条約の最終確認に参りました。……おや?」
ヴォルガン伯爵は、ファルルの背後に立つセバスを見た瞬間、目を見開いて硬直した。
「……そ、そのお姿は……!? まさか、ノルド帝国の第三皇子、セバスチャン・アルフレッド様……!?」
執務室に、重苦しい沈黙が流れた。
ファルルは持っていたティーカップを落としそうになり、慌ててテーブルに置いた。
「……えっ? セバス、いま何て? 皇子?」
「……。伯爵、人違いではございませんか? 私はボナパルト公爵家に仕える、ただのしがない執事でございますよ」
セバスは完璧な微笑を崩さなかったが、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
「い、いいえ! その涼やかな目元、そして独特の優雅な身のこなし……。数年前に『社会科見学に出る』と書き置きを残して失踪された皇子殿下に間違いありません!」
「伯爵。……お嬢様の仕事の邪魔になります。その話は、また後ほど『裏の庭園』で伺いましょうか」
セバスが静かに、しかし抗いようのない威圧感をもって告げると、伯爵は「ヒッ」と短い悲鳴を上げて退散していった。
再び訪れた静寂。ファルルは、じっとセバスを見つめた。
「……セバス。あなた、社会科見学にしては、随分と本格的に私の下僕をやってくれていたのね?」
「……。お嬢様。嘘をつくつもりはございませんでした。ただ、公爵家に拾われた際、家事全般の適性が皇族としての公務よりはるかに高かったもので」
セバスは困ったように眉を下げ、ファルルの前に膝をついた。
「……驚かれましたか? やはり、得体の知れない皇子などは解雇されますか?」
ファルルはしばらく彼を見つめていたが、やがて噴き出すように笑い声を上げた。
「……っ、ふふ、あははは! 最高だわ! 一国の皇子を、私は今まで顎で使って、あのアホ王子の後片付けまでさせていたのね!」
「お嬢様、笑いすぎでございます」
「いいじゃない。……セバス。あなたが誰であろうと、私の有能な右腕であることに変わりはないわ。……それとも、皇子様に戻って、私を捨てて帰ってしまうのかしら?」
ファルルは冗談めかして言ったが、その瞳には一抹の不安が混じっていた。
セバスは、彼女の白く細い手を取り、その指先にそっと唇を寄せた。
「……まさか。私は『仕事』に関しては非常にシビアです。……世界中を探しても、あなた以上に魅力的な『雇用主』はいませんから」
「……。コンサルタント料、高いわよ?」
「お支払いは、私の全人生という名の『現物支給』でいかがでしょうか?」
ファルルの頬が、深夜の冷気のせいではなく、熱を帯びて赤く染まった。
「……、検討しておくわ。……さあ、セバス。明日は朝一番で、シリウス殿下の『トイレ掃除検定』があるの。早めに休みましょう」
「御意、私のお嬢様」
かつての婚約破棄から始まったこの物語は、王子の更生を通り越し、思わぬ「大物」との恋の予感へと舵を切った。
シリウスという名の不良債権を処分した後に残ったのは、最高に優雅で、最高にミステリアスな、唯一無二の資産であった。
深夜の執務室。ファルルは最後の一枚にサインを終え、椅子の背もたれに深く体を預けた。
かつての彼女なら、この後さらに「王子の寝顔確認」や「明日の服のシワ伸ばし」が待っていたが、今の彼女は自由だ。
「お疲れ様でございました、お嬢様。……深夜二時を回っております。少々、働きすぎではございませんか?」
「セバス、あなたに言われたくないわ。私がペンを置く一秒前に、完璧な温度のハーブティーを差し出すなんて……。あなたこそ、いつ寝ているの?」
セバスは音もなく歩み寄り、冷めたティーカップを下げ、新しい香りを漂わせるカップを置いた。
「私はお嬢様の影でございますから。主が輝いている間、影が眠るわけには参りません」
「ふふ、相変わらず口が上手いわね。……でも、本当にありがとう。あなたがいてくれなければ、王宮の再建なんて一週間で投げ出していたわ」
ファルルは窓の外に広がる月夜を眺めた。
シリウスは今頃、下僕用の宿舎で「雑巾の絞りすぎで腱鞘炎だ」と泣き言を言いながら眠っているはずだ。
そこへ、控えめなノックの音が響き、一人の初老の紳士が姿を現した。
隣国・ノルド帝国の特使、ヴォルガン伯爵である。
「夜分に失礼。……ファルル公爵令嬢、例の通商条約の最終確認に参りました。……おや?」
ヴォルガン伯爵は、ファルルの背後に立つセバスを見た瞬間、目を見開いて硬直した。
「……そ、そのお姿は……!? まさか、ノルド帝国の第三皇子、セバスチャン・アルフレッド様……!?」
執務室に、重苦しい沈黙が流れた。
ファルルは持っていたティーカップを落としそうになり、慌ててテーブルに置いた。
「……えっ? セバス、いま何て? 皇子?」
「……。伯爵、人違いではございませんか? 私はボナパルト公爵家に仕える、ただのしがない執事でございますよ」
セバスは完璧な微笑を崩さなかったが、その瞳の奥には鋭い光が宿っていた。
「い、いいえ! その涼やかな目元、そして独特の優雅な身のこなし……。数年前に『社会科見学に出る』と書き置きを残して失踪された皇子殿下に間違いありません!」
「伯爵。……お嬢様の仕事の邪魔になります。その話は、また後ほど『裏の庭園』で伺いましょうか」
セバスが静かに、しかし抗いようのない威圧感をもって告げると、伯爵は「ヒッ」と短い悲鳴を上げて退散していった。
再び訪れた静寂。ファルルは、じっとセバスを見つめた。
「……セバス。あなた、社会科見学にしては、随分と本格的に私の下僕をやってくれていたのね?」
「……。お嬢様。嘘をつくつもりはございませんでした。ただ、公爵家に拾われた際、家事全般の適性が皇族としての公務よりはるかに高かったもので」
セバスは困ったように眉を下げ、ファルルの前に膝をついた。
「……驚かれましたか? やはり、得体の知れない皇子などは解雇されますか?」
ファルルはしばらく彼を見つめていたが、やがて噴き出すように笑い声を上げた。
「……っ、ふふ、あははは! 最高だわ! 一国の皇子を、私は今まで顎で使って、あのアホ王子の後片付けまでさせていたのね!」
「お嬢様、笑いすぎでございます」
「いいじゃない。……セバス。あなたが誰であろうと、私の有能な右腕であることに変わりはないわ。……それとも、皇子様に戻って、私を捨てて帰ってしまうのかしら?」
ファルルは冗談めかして言ったが、その瞳には一抹の不安が混じっていた。
セバスは、彼女の白く細い手を取り、その指先にそっと唇を寄せた。
「……まさか。私は『仕事』に関しては非常にシビアです。……世界中を探しても、あなた以上に魅力的な『雇用主』はいませんから」
「……。コンサルタント料、高いわよ?」
「お支払いは、私の全人生という名の『現物支給』でいかがでしょうか?」
ファルルの頬が、深夜の冷気のせいではなく、熱を帯びて赤く染まった。
「……、検討しておくわ。……さあ、セバス。明日は朝一番で、シリウス殿下の『トイレ掃除検定』があるの。早めに休みましょう」
「御意、私のお嬢様」
かつての婚約破棄から始まったこの物語は、王子の更生を通り越し、思わぬ「大物」との恋の予感へと舵を切った。
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