婚約破棄、心より感謝申し上げます!

苺マカロン

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「……ねえ、公爵様」

「なんだ」

「この馬、いつまでここにいるんでしょうか」

「知らん。煮るなり焼くなり好きにしろ」

公開プロポーズ事件から一夜明けた、私の相談所。

いつも通りの平和な朝……と言いたいところだが、店の入り口には、昨日の騒動の遺物である「王家の白馬」が繋がれていた。

つぶらな瞳。
艶やかな毛並み。
そして、高貴な馬特有の「私がここにいるのだから、最高級のニンジンを出しなさい」という無言の圧力。

「困るんですよねぇ……。下町の子供たちが『お馬さんだー!』って集まってきちゃって」

私は窓の外を見た。
近所の子供たちが白馬を取り囲み、鼻を撫でたり、尻尾を引っ張ったりしている。
白馬は満更でもなさそうに鼻を鳴らしているが、これでは客が入りにくい。

「王宮に返還しようにも、クロード殿下は現在、謹慎中(牢屋)でしょう? 誰が引き取りに来るんですか?」

「放っておけ。そのうち腹が減ったら勝手に帰るだろう」

シグルド様は、いつもの定位置で不機嫌そうに書類をめくっていた。
今日は朝から機嫌が悪い。
室内温度が体感で三度は下がっている気がする。

「……シグルド様、何か怒ってます?」

「怒っていない」

「嘘ですね。眉間の皺で蚊が挟めそうです」

私が指摘すると、彼はバサッと書類を置いた。

「……昨日のことだ」

「昨日? ああ、殿下のプロポーズですか? 見事に撃退してくださって感謝してますよ」

「そうではない」

シグルド様は立ち上がり、私の方へ歩み寄ってきた。
その圧迫感に、私は思わず一歩下がる。

「あの馬鹿が、大衆の面前で『アンズは僕のものだ』などと喚き散らしたせいで、王都中に妙な噂が広まっている」

「噂? 『王太子、またフラれる』とかですか?」

「違う。『アンズ・バーミリオンは、王太子が執着するほどのイイ女らしい』という噂だ」

「はあ?」

私はきょとんとした。

「そのせいで、今朝から店の周りをうろつく男が増えている。お前の顔を一目見ようとする野次馬や、あわよくば口説こうとする不届き者どもがな」

言われてみれば、確かに外の視線が多い気がする。
白馬を見に来た子供たちに混じって、ニヤニヤした男たちの姿もちらほら。

「……なるほど。それは営業妨害ですね」

「そうだ。私の『観察室』が、低俗な見世物小屋になるのは我慢ならん」

シグルド様は私の手首を掴み、ぐいっと引き寄せた。

「ひゃっ!?」

距離がゼロになる。
彼の整った顔が、私の目の前に迫る。
氷のような青い瞳が、熱を帯びて私を射抜いていた。

「……アンズ。いっそ、私の屋敷に来ないか?」

「は……はい?」

「こんなセキュリティの甘い下町の店ではなく、私の屋敷の一室を与えよう。そこで好きなだけ人間観察をすればいい。使用人も、護衛も、最高級の菓子も用意する」

「そ、それは……魅力的ですけど……」

「そうすれば、煩わしい羽虫どももお前に近寄れない。あの馬鹿な弟もな」

甘い誘惑だ。
公爵邸での優雅な暮らし。
働かなくてもいい、守られた生活。

一瞬、心が揺らいだ。
だが、私はふと我に返った。

「……お断りします」

「なぜだ?」

「だって、それじゃあ『飼い殺し』と同じじゃないですか」

私は彼の手を、そっと解いた。

「私はここで、自分の足で立って、雑多な人々の営みを見ていたいんです。綺麗な温室の中からじゃ、本当の『修羅場』は見えませんから」

それに。
公爵邸に囲われてしまったら、あなたとこうして対等に口喧嘩することもできなくなる気がする。
それは、なんだか少し寂しい。

「……そう言うと思った」

シグルド様は、ふっと苦笑した。
怒っているようには見えない。むしろ、私の答えを予想していたような顔だ。

「頑固で、自由奔放で、扱いにくい女だ」

「お褒めにあずかり光栄です」

「だが、これだけは覚えておけ」

シグルド様は私の顎を持ち上げ、親指で唇をなぞった。

「ドキンッ」

心臓が跳ね上がった。

「私は独占欲が強い。自分の『お気に入り』が、他人の目に晒されるのすら不愉快だ」

「……は、はあ」

「だから、あまり隙を見せるな。……さもなくば、本当に屋敷の地下に閉じ込めてしまうかもしれんぞ?」

それは冗談に聞こえなかった。
背筋がゾクゾクするような、甘い恐怖。

「……き、気をつけます」

私が顔を真っ赤にして答えると、シグルド様はようやく満足げに手を離した。

「よろしい。……さて、仕事だ」

彼は瞬時に「仕事モード」に切り替わり、窓の外を指差した。

「あの馬だが、やはり邪魔だ。ハンス(肉屋)に引き取らせて、馬肉にするか」

「だからやめてください! 動物愛護団体が来ますよ!」

その時だった。

「ごめんくださいましー!」

場違いなほど明るい声と共に、店のドアが開いた。

入ってきたのは、ふくよかな体型の、人の良さそうなおばちゃんだった。
エプロン姿に三角巾。
手には大きなバスケットを持っている。

「いらっしゃいませ。ご相談ですか?」

私が尋ねると、おばちゃんはニコニコしながら言った。

「いいえぇ、違うのよ。アタシ、王宮の厨房で働いてる『おやつのオババ』って呼ばれてるもんなんだけどね」

「王宮の厨房?」

シグルド様がピクリと反応する。

「今日はね、これを届けに来たのよ。王太子殿下が『アンズにこれを食わせればイチコロだ!』って、牢屋の中から手紙を寄越してねぇ」

おばちゃんはバスケットを開けた。

中に入っていたのは、黒焦げの……何か。

「……なんですか、これ。炭?」

「クッキーよぉ。殿下がね、謹慎中に『手作りクッキーで愛を伝える!』って張り切って、厨房の釜を一つ爆破しながら焼いたの」

「爆破……」

「『これをアンズに届けてくれ。僕の情熱の味だ』って」

私は黒焦げの物体Xを見つめた。
情熱というか、ただの放火未遂の証拠品だ。

「……謹んで返却します。産業廃棄物として処理してください」

「あらぁ、やっぱり? アタシも止めたんだけどねぇ」

おばちゃんはケラケラと笑った。

「でもねぇ、殿下も必死なのよ。なんでも、近々『もっとすごいライバル』が現れるから、その前にアンズちゃんの胃袋を掴んでおきたいんだって」

「ライバル?」

私が首をかしげると、シグルド様が低い声で尋ねた。

「……オババ。そのライバルというのは、誰のことだ?」

「あら、公爵様もいらしたのね! ええとね、なんでも隣国の……オリエント王国から、正式な縁談の使者が来るらしいわよ?」

「オリエント王国?」

嫌な予感がした。
あの「爆炎の王女」シャルロット様の国だ。

「まさか、シャルロット王女がまた来るの?」

「ううん、違うわ。今度はね……王女様の『お兄様』だって」

おばちゃんは声を潜めた。

「オリエント王国の第一王子、ラファエル殿下。噂じゃ、シグルド公爵様に負けず劣らずの美形だけど……性格が『ドS』すぎて、婚約者が次々と逃げ出すっていう、とんでもない方らしいわよぉ」

「……ドS?」

私はシグルド様を見た。
シグルド様も無表情で私を見返した。

「……アンズ。お前の周りには、なぜこうも『変な男』ばかり集まるんだ?」

「私のセリフですよ!!」

新たな火種。
隣国のドS王子。
そして、黒焦げクッキー。

シグルド様の独占欲が爆発するのも時間の問題、というか既に導火線に火がついているのが見えた。

「……追い返すぞ」

シグルド様が冷たく言い放つ。

「私のアンズに、他国の変態王子など近づけさせん」

「あ、あの……『私の』って公言するのやめてもらえませんか?」

平穏は遠い。
白馬がヒヒーンと鳴いた。
まるで「面白くなってきたな」と笑うかのように。
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