冤罪断罪、お断り!婚約破棄の前に夜逃げを決め込む。

八雲

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「……来たわね」

定食屋『鉄鍋亭』の勝手口から外を覗き見ながら、私は小さく舌打ちをした。
港町の石畳を、カシャカシャと騒がしい金属音を立てて進んでくる一団がある。
見間違えるはずもない、王都騎士団の制服だ。

「エドさん、どうしたんですか? そんなに外を凝視して。……あ! あれはヴィル様の騎士団じゃないですか!」

背後から覗き込んできたララさんが、嬉しそうに声を上げた。
私は慌てて彼女の口を塞ぎ、店の中へと引きずり戻す。

「馬鹿! 大声出さないで! ……いい、ララさん。あの一団は『怖い公爵令嬢』を探しに来たのよ。見つかったら、あなたも連れ戻されて説教されるわよ」

「えっ、説教!? それは嫌です! ヴィル様の説教、三時間は止まらないんですもの!」

説教の長さに関しては、私も同意するわ。
あの大バカ王子、自分が正しいと思っている時は、相手が酸欠で倒れるまで話し続けるから。
私は近くにあった鍋の底の煤を指ですくい、ララさんの頬に迷いなく塗りつけた。

「ふぇっ!? な、何をするんですか!」

「変装よ! あなた、その小綺麗な顔のままだと一発でバレるわよ。ほら、頭に手ぬぐいも巻いて。今日からあなたは、皿洗いの『ララ夫』よ!」

「ララ夫……。なんだか、すごく力強そうな名前になりましたね」

納得している場合じゃないわよ。
私は自分自身にもこれでもかと煤を塗りたくり、さらにマーサさんから借りた特大のエプロンで体を隠した。
そこに、店の正面の扉が荒々しく開け放たれた。

「失礼する! 王都より参った、第一王子付き騎士団のベイレンである!」

現れたのは、熊のように屈強な体格の男だった。
ベイレン卿。騎士団の中でも「猪突猛進」を地で行く筋肉脳で、ヴィルフリード王子の忠実な(という名の、考えることを放棄した)部下だ。
私はカウンターの影で、さらに身を潜めた。

「おいおい、大きな声だね。ここは飯を食う場所だよ。剣をガチャつかせたいなら、表の広場へお行き」

マーサさんが、鉄鍋を片手に堂々とベイレンの前に立った。
さすがは港町の女傑。王都の騎士相手でも、微塵も物怖じしていない。

「……すまない。我々は、この街に潜伏している可能性がある『特定危険令嬢』を探している。名はイーズ・ラングマイヤー。協力してもらうぞ」

「そんなお高い名前の女は、うちにはいないよ。見ての通り、ここはむさ苦しい男と、せいぜい私くらいのもんだ」

「ふむ……。しかし、情報では彼女は無類の肉好きだという。この街で一番肉を食わせる店を洗えと、殿下からの厳命を受けているのだ」

ベイレンは懐から、あの下手くそな似顔絵を取り出した。
第4話で見た時よりも、さらに書き込まれて「クリーチャー感」が増している気がするのは気のせいかしら。

「……ほう。これが、その令嬢かい?」

「そうだ。殿下曰く『驚くと鼻の穴がこれくらい膨らむのが特徴だ』とのことだが」

(……あとで絶対に殴る。あの王子、絶対に、物理的に、地の果てまで追い詰めてボコボコにしてやる!)

私は内心で血の涙を流しながら、怒りを噛み殺した。
ベイレンは鋭い眼光で店内を見回し、やがてカウンターの奥で縮こまっている私とララさんに目を止めた。

「おい、そこの二人。こっちへ来い」

「ひっ……!」

ララさんが短く悲鳴を上げた。
私は彼女の脇腹をつねって黙らせると、わざとガニ股で、下卑た笑いを浮かべながら歩み出た。

「……へへっ。旦那、何かご用で? うちは今、仕込みで忙しいんでさぁ」

「……。薄汚いガキだな。お前たち、最近この街で『赤髪の派手な女』を見なかったか?」

「赤髪ねぇ……。ああ! そういや昨日、港の方で真っ赤な頭をした派手な鳥なら見かけやしたが。あれ、令嬢だったんですかねぇ?」

「……鳥なわけがあるか。バカにしているのか?」

ベイレンが眉間にシワを寄せ、腰の剣に手をかけた。
その時、店の隅で静かに酒を飲んでいたゼクスが、面倒くさそうに口を開いた。

「おい、騎士様。そいつをいじめるのはよせ。そいつは生まれつき頭が少し足りないんだが、皿洗いだけは一丁前にこなす、うちの大事な下働きだ」

「……用心棒のゼクスか。貴様のような男が、なぜこんな掃き溜めにいる」

「非番だと言ったはずだ。それより、その似顔絵の女なら、一時間前に東の街道を馬車で抜けていったぞ。……確か、豪華なドレスを着て、金貨をばら撒きながら『私は自由よ!』と叫んでいたな」

(ゼクス……! なんてデタラメを! でも最高よ!)

私は心の中で彼に特大の胃薬を贈ることを誓った。
ベイレンは「なんだと!?」と驚き、即座に似顔絵を懐に仕舞い込んだ。

「なぜそれを早く言わん! 全員、東の街道へ急行だ! 今すぐ追いつくぞ!」

「はっ!」

騎士団の一団は、嵐のように店を出ていった。
金属音が遠ざかっていくのを確認し、私はその場にヘナヘナと座り込んだ。

「……助かったわ、ゼクス。あなた、嘘をつくのが上手いのね」

「嘘ではない。お前が東へ逃げるつもりなら、あれは事実になる。……だろう、エド?」

ゼクスはニヤリと笑い、ジョッキに残った酒を飲み干した。
ララさんは、煤だらけの顔で「東の街道……。イーズ様、あっちに行っちゃったんですね」と、まだ騙されている。

「……とにかく、ここはもう危ないわね。ララさん、出発よ!」

「えっ、もう!? まだじゃがいもを三つしか拭いていないのに!」

「じゃがいもなんてどうでもいいわ! 騎士団が戻ってくる前に、私たちは西へ向かうわよ!」

「西!? 東じゃないんですか!?」

「あいつらが東へ行ったんだから、反対の西に行くのが当然でしょ! さあ、行くわよ!」

私はマーサさんにこれまでの給料を受け取り、ゼクスには「例の薬」を三袋手渡した。
平穏な定食屋生活は、わずか数日で幕を閉じた。
しかし、私の逃走劇はここからが本番。
王子の放った筋肉脳どもを出し抜き、私はさらなる未開の地へと爆走するのだ。

「待ってなさいよ、ヴィルフリード……! 次に会う時は、その鼻の穴を本気で広げさせてあげるわ!」

私は夕闇に包まれ始めたポート・サウスを背に、西へと続く森の道へと足を踏み入れた。
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