婚約破棄を待ってました!喜んで帰りますわ!

ハチワレ

文字の大きさ
4 / 29

4

しおりを挟む
小鳥のさえずりと、柔らかな日差し。

バーンスタイン公爵領にある実家の自室で、ルーアは目を覚ました。

枕元の時計を見る。午前十時。

王宮にいた頃なら、すでに三つの会議をこなし、五人の文官を叱り飛ばし、昼食のメニューについて栄養士と激論を交わしている時間だ。

「……おはよう、私。素晴らしい朝ね」

ルーアは伸びをして、ふかふかのベッドに再びダイブした。

「二度寝。なんて罪深い響き。これぞスローライフの醍醐味だわ」

彼女は天井を見つめ、今日の予定を脳内で検索する。

『予定なし』

完璧だ。

コンコン。

「お嬢様、おはようございます。朝食をお持ちしました」

入ってきたのは、幼い頃から世話になっているメイドのマリーだ。

彼女はニコニコと笑いながら、ワゴンの上の銀食器を並べていく。

「マリー、おはよう。……あの、一つ聞いていいかしら?」

「はい、なんでしょう?」

「この紅茶、淹れてから何分経ってる?」

「え? えっと、厨房からここまで歩いてきましたから、五分ほどでしょうか?」

「抽出時間は三分がベストよ。五分だとタンニンが出すぎて渋みが増すわ。それに、カップが温められていないから、注いだ瞬間に温度が二度下がる。これでは香りが開かないわ」

「あ、あら……申し訳ありません! すぐに淹れ直して……」

マリーが慌てふためくのを見て、ルーアはハッとした。

(いけない。ここは職場じゃない。マリーは部下じゃなくて、家族同然のメイドよ)

「……ううん、いいの。ありがとう。いただくわ」

ルーアは慌ててカップを手に取り、少し渋い紅茶を飲み込んだ。

喉を通る渋みが、なんだか今の自分の気まずさを象徴しているようだ。

「お父様とお母様は?」

「旦那様と奥様は、朝から温室でお茶会をされています。『ルーアちゃんが帰ってきてくれて嬉しいわぁ』って、もう五回はおっしゃってましたよ」

「そう……平和ね」

朝食を終えたルーアは、パジャマから動きやすいドレス(といっても、彼女基準では装飾過多だが)に着替え、庭へと出た。

広大な庭園には、季節の花々が咲き乱れている。

両親はガゼボで優雅にお茶を飲んでいた。

「あらあ、ルーアちゃん! よく眠れた?」

母親が満面の笑みで手を振る。

父親も新聞を置いて、目尻を下げた。

「お帰り、ルーア。王都での苦労は忘れて、ここではのんびりしなさい。何もしなくていいんだよ」

「ええ、ありがとうお父様、お母様」

ルーアは二人の向かいに座った。

しかし、座って三秒で手持ち無沙汰になった。

(……何もしなくていいって、具体的に何をすればいいの?)

王宮では、座っている時間は「書類を読む時間」か「誰かを尋問する時間」だった。

ただ座って、風を感じて、ぼーっとする。

それがこんなに難しいことだとは知らなかった。

「……ねえお母様。その刺繍、進んでないんじゃない?」

「え? ふふ、おしゃべりに夢中で手が止まっちゃうのよぉ」

「効率が悪いわね。針の動きを最小限にして、糸のテンションを一定に保てば、三倍の速度で終わるわよ」

「まあ、ルーアちゃんったら。刺繍は過程を楽しむものよ?」

「過程……? 完成という結果こそが全てでは?」

「相変わらず手厳しいなぁ。ルーア、そんなにカリカリしないで、庭の散歩でもしてきなさい」

父親に促され、ルーアは渋々席を立った。

散歩。すなわち、目的のない移動行為。

彼女は庭の小道を歩き出した。

(カロリー消費以外に生産性が見出せない行動ね……)

その時、彼女の視界に一人の庭師が入った。

老齢の庭師が、花壇の雑草を抜いている。

しかし、その動きを見て、ルーアの眉間に深い皺が刻まれた。

(……遅い)

庭師はゆっくりと腰をかがめ、雑草を一本抜き、また腰を伸ばして休憩し、また一本抜く。

そのリズムは、ルーアの体内時計を狂わせるほどスローリーだった。

(腰の角度が悪いから負担がかかるのよ。それに、道具の選定が間違っている。あの根の深さなら、もっと鋭利な鎌を使うべきだわ)

イライラ、イライラ。

ルーアの指先が小刻みに震え始める。

見て見ぬ振りをしよう。私は今、スローライフ中なのだから。

しかし、庭師が大きな雑草にてこずり、尻餅をついた瞬間、ルーアの理性という名の堤防が決壊した。

「あーもう! 貸して!」

ルーアはドレスの裾をまくり上げ、庭師の元へ駆け寄った。

「お、お嬢様!?」

「その体勢じゃ腰を痛めるだけよ! 重心は低く、足は肩幅に開く! 手首のスナップを効かせて、テコの原理で根こそぎいくのよ!」

ルーアは庭師から草むしりの道具を奪い取ると、目にも止まらぬ速さで雑草を狩り始めた。

ザッ! ザッ! ザッ!

「ひい、ふう、みい……よし、一分間に六十本ペース! この区画の雑草密度から計算して、あと十五分で殲滅可能!」

「お、お嬢様! 土で汚れます!」

「汚れなんて洗濯すれば落ちるわ! それよりこの非効率な配置! なぜ道具小屋が一番奥にあるの!? 動線設計がなってない!」

ルーアは雑草を抜き終わると、今度は道具小屋へと走った。

「整理整頓! 使用頻度の高い順に並べ替え! 鎌の刃が錆びてるじゃない、砥石持ってきて!」

騒ぎを聞きつけた他の使用人たちが集まってくる。

「お嬢様が乱心されたぞ!」

「違うわ! 業務改善よ!」

ルーアは土埃にまみれながら、生き生きとした表情で指示を飛ばし始めた。

「あなたたちは肥料の運搬ルートを見直しなさい! 今のルートだと三分のロスがあるわ! そっちの二人は剪定のシフトを再構築して!」

昼食の時間になる頃には、バーンスタイン家の庭園は軍隊のような規律で管理されていた。

使用人たちはゼェゼェと息を切らしながら整列している。

その前で、ルーアは満足げに腕を組んでいた。

「よし、午前中の作業効率は昨対比200%アップね。この調子なら、午後は屋敷内の在庫管理システムを見直せるわ」

「お、お嬢様……もう勘弁してください……」

「あら、どうして? 仕事が早く終われば、その分休憩時間が増えるのよ?」

「その休憩時間に、お嬢様が新しい仕事を作るんじゃないですか……」

使用人の鋭いツッコミに、ルーアは言葉に詰まる。

そこに、両親がやってきた。

変わり果てた(綺麗になりすぎた)庭と、疲弊した使用人たちを見て、父親がぽかんと口を開ける。

「ルーア……お前、何をしているんだ?」

「え? 暇だったから、ちょっと庭の最適化を」

「お前は本当に……根っからの仕事人間なんだな」

父親の言葉に、ルーアはハッとした。

手には泥だらけの軍手。ドレスは草の汁で緑色に染まっている。

(私、何やってるんだろう……)

スローライフ。優雅な貴族生活。

それを目指して帰ってきたはずなのに、気づけば労働者のリーダーとして現場指揮を執っていた。

「……飽きた」

ルーアはポツリと呟いた。

「え?」

「飽きたわ! 何もしないことに飽きたの! 効率化の余地がない空間に耐えられない!」

ルーアはその場にしゃがみ込んだ。

「どうしよう、お父様。私、マグロかもしれない。泳ぎ(働き)続けないと死んでしまうわ」

「マグロ……?」

父親は娘の奇行に頭を抱えたが、すぐに気を取り直して優しく肩を叩いた。

「まあ、急に変わろうとしても無理だということだよ。少しずつ慣れていけば……」

その時だった。

上空から、バサバサという大きな羽音が聞こえてきた。

「なんだ?」

見上げると、一羽の巨大な純白のフクロウが、優雅に舞い降りてくるところだった。

その足には、豪奢な装飾が施された手紙が握られている。

フクロウは真っ直ぐにルーアの元へ飛んでくると、目の前にストンと着地し、片足を差し出した。

「私に?」

ルーアがおずおずと手紙を受け取ると、フクロウは「任務完了」とばかりに一鳴きして、再び空へと飛び去っていった。

手紙の封蝋には、見覚えのある紋章。

氷の結晶と竜を模した、ドラグーン公爵家の紋章だ。

「……嫌な予感しかしない」

ルーアは泥だらけの手袋を外して、封を切った。

中には、達筆な文字でこう書かれていた。

『拝啓 私の愛しい鉄の女殿。

 計算通りなら、そろそろ「何もしないこと」に耐えられず、庭の雑草あたりに当たり散らしている頃だろう。

 どうだ? 君のその溢れ出る才能(とストレス)をぶつける場所が欲しくはないか?

 我が領地には、君が「ゴミの山」と呼んで歓喜しそうなほど、手付かずの非効率な業務が山積している。

 君が来るなら、給与は言い値で払おう。

 追伸: 私の予想が正しければ、君は今、泥だらけのドレスを着ているはずだ。新しいドレスも用意して待っている』

「…………」

ルーアは手紙を握りしめた。

「あの男……! どこかで見てるの!?」

彼女はキョロキョロと周囲を見渡したが、クラウスの姿はない。

ただ、あまりにも図星すぎて、悔しいけれど否定できない自分がいた。

「お嬢様、その手紙は?」

マリーが心配そうに尋ねる。

ルーアは手紙をじっと見つめ、そして、ニヤリと笑った。

それは、難解な数式を前にした数学者のような、あるいはパズルを前にした子供のような、好戦的な笑みだった。

「お父様、お母様。ごめんなさい」

「ルーア?」

「スローライフ、一日で終了させていただきます」

ルーアは立ち上がり、泥を払った。

「私にはやっぱり、温室の紅茶より、戦場のコーヒーの方が合っているみたい」

彼女の瞳に、仕事モードの炎が宿る。

「行くわよ、マリー! 荷造り手伝って! 目的地は隣国、ドラグーン公爵領!」

「ええええ!? もうですか!?」

「時は金なり! 移動中の馬車の中で、新しい領地経営のシミュレーションをしなくちゃ!」

ルーアは屋敷の中へと駆け出した。

その背中は、今朝起きた時よりもずっと生き生きとしていた。

父親と母親は顔を見合わせ、やれやれと苦笑する。

「……あの子らしいわね」

「そうだな。元気ならそれが一番だ」

こうして、ルーアの「一日天下」ならぬ「一日無職」生活は、幕を閉じた。

目指すは極寒の地。

そこで待ち受けるのは、崩壊寸前の事務処理と、一癖も二癖もある「氷の魔導公爵」。

だが今のルーアにとっては、それはご馳走の山に見えていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

貴方が側妃を望んだのです

cyaru
恋愛
「君はそれでいいのか」王太子ハロルドは言った。 「えぇ。勿論ですわ」婚約者の公爵令嬢フランセアは答えた。 誠の愛に気がついたと言われたフランセアは微笑んで答えた。 ※2022年6月12日。一部書き足しました。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。  史実などに基づいたものではない事をご理解ください。 ※話の都合上、残酷な描写がありますがそれがざまぁなのかは受け取り方は人それぞれです。  表現的にどうかと思う回は冒頭に注意喚起を書き込むようにしますが有無は作者の判断です。 ※更新していくうえでタグは幾つか増えます。 ※作者都合のご都合主義です。 ※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。 ※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

頑張らない政略結婚

ひろか
恋愛
「これは政略結婚だ。私は君を愛することはないし、触れる気もない」 結婚式の直前、夫となるセルシオ様からの言葉です。 好きにしろと、君も愛人をつくれと。君も、もって言いましたわ。 ええ、好きにしますわ、私も愛する人を想い続けますわ! 五話完結、毎日更新

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。

木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」 結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。 彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。 身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。 こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。 マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。 「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」 一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。 それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。 それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。 夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

彼女の離縁とその波紋

豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。 ※子どもに関するセンシティブな内容があります。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係

紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。 顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。 ※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)

処理中です...