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小鳥のさえずりと、柔らかな日差し。
バーンスタイン公爵領にある実家の自室で、ルーアは目を覚ました。
枕元の時計を見る。午前十時。
王宮にいた頃なら、すでに三つの会議をこなし、五人の文官を叱り飛ばし、昼食のメニューについて栄養士と激論を交わしている時間だ。
「……おはよう、私。素晴らしい朝ね」
ルーアは伸びをして、ふかふかのベッドに再びダイブした。
「二度寝。なんて罪深い響き。これぞスローライフの醍醐味だわ」
彼女は天井を見つめ、今日の予定を脳内で検索する。
『予定なし』
完璧だ。
コンコン。
「お嬢様、おはようございます。朝食をお持ちしました」
入ってきたのは、幼い頃から世話になっているメイドのマリーだ。
彼女はニコニコと笑いながら、ワゴンの上の銀食器を並べていく。
「マリー、おはよう。……あの、一つ聞いていいかしら?」
「はい、なんでしょう?」
「この紅茶、淹れてから何分経ってる?」
「え? えっと、厨房からここまで歩いてきましたから、五分ほどでしょうか?」
「抽出時間は三分がベストよ。五分だとタンニンが出すぎて渋みが増すわ。それに、カップが温められていないから、注いだ瞬間に温度が二度下がる。これでは香りが開かないわ」
「あ、あら……申し訳ありません! すぐに淹れ直して……」
マリーが慌てふためくのを見て、ルーアはハッとした。
(いけない。ここは職場じゃない。マリーは部下じゃなくて、家族同然のメイドよ)
「……ううん、いいの。ありがとう。いただくわ」
ルーアは慌ててカップを手に取り、少し渋い紅茶を飲み込んだ。
喉を通る渋みが、なんだか今の自分の気まずさを象徴しているようだ。
「お父様とお母様は?」
「旦那様と奥様は、朝から温室でお茶会をされています。『ルーアちゃんが帰ってきてくれて嬉しいわぁ』って、もう五回はおっしゃってましたよ」
「そう……平和ね」
朝食を終えたルーアは、パジャマから動きやすいドレス(といっても、彼女基準では装飾過多だが)に着替え、庭へと出た。
広大な庭園には、季節の花々が咲き乱れている。
両親はガゼボで優雅にお茶を飲んでいた。
「あらあ、ルーアちゃん! よく眠れた?」
母親が満面の笑みで手を振る。
父親も新聞を置いて、目尻を下げた。
「お帰り、ルーア。王都での苦労は忘れて、ここではのんびりしなさい。何もしなくていいんだよ」
「ええ、ありがとうお父様、お母様」
ルーアは二人の向かいに座った。
しかし、座って三秒で手持ち無沙汰になった。
(……何もしなくていいって、具体的に何をすればいいの?)
王宮では、座っている時間は「書類を読む時間」か「誰かを尋問する時間」だった。
ただ座って、風を感じて、ぼーっとする。
それがこんなに難しいことだとは知らなかった。
「……ねえお母様。その刺繍、進んでないんじゃない?」
「え? ふふ、おしゃべりに夢中で手が止まっちゃうのよぉ」
「効率が悪いわね。針の動きを最小限にして、糸のテンションを一定に保てば、三倍の速度で終わるわよ」
「まあ、ルーアちゃんったら。刺繍は過程を楽しむものよ?」
「過程……? 完成という結果こそが全てでは?」
「相変わらず手厳しいなぁ。ルーア、そんなにカリカリしないで、庭の散歩でもしてきなさい」
父親に促され、ルーアは渋々席を立った。
散歩。すなわち、目的のない移動行為。
彼女は庭の小道を歩き出した。
(カロリー消費以外に生産性が見出せない行動ね……)
その時、彼女の視界に一人の庭師が入った。
老齢の庭師が、花壇の雑草を抜いている。
しかし、その動きを見て、ルーアの眉間に深い皺が刻まれた。
(……遅い)
庭師はゆっくりと腰をかがめ、雑草を一本抜き、また腰を伸ばして休憩し、また一本抜く。
そのリズムは、ルーアの体内時計を狂わせるほどスローリーだった。
(腰の角度が悪いから負担がかかるのよ。それに、道具の選定が間違っている。あの根の深さなら、もっと鋭利な鎌を使うべきだわ)
イライラ、イライラ。
ルーアの指先が小刻みに震え始める。
見て見ぬ振りをしよう。私は今、スローライフ中なのだから。
しかし、庭師が大きな雑草にてこずり、尻餅をついた瞬間、ルーアの理性という名の堤防が決壊した。
「あーもう! 貸して!」
ルーアはドレスの裾をまくり上げ、庭師の元へ駆け寄った。
「お、お嬢様!?」
「その体勢じゃ腰を痛めるだけよ! 重心は低く、足は肩幅に開く! 手首のスナップを効かせて、テコの原理で根こそぎいくのよ!」
ルーアは庭師から草むしりの道具を奪い取ると、目にも止まらぬ速さで雑草を狩り始めた。
ザッ! ザッ! ザッ!
「ひい、ふう、みい……よし、一分間に六十本ペース! この区画の雑草密度から計算して、あと十五分で殲滅可能!」
「お、お嬢様! 土で汚れます!」
「汚れなんて洗濯すれば落ちるわ! それよりこの非効率な配置! なぜ道具小屋が一番奥にあるの!? 動線設計がなってない!」
ルーアは雑草を抜き終わると、今度は道具小屋へと走った。
「整理整頓! 使用頻度の高い順に並べ替え! 鎌の刃が錆びてるじゃない、砥石持ってきて!」
騒ぎを聞きつけた他の使用人たちが集まってくる。
「お嬢様が乱心されたぞ!」
「違うわ! 業務改善よ!」
ルーアは土埃にまみれながら、生き生きとした表情で指示を飛ばし始めた。
「あなたたちは肥料の運搬ルートを見直しなさい! 今のルートだと三分のロスがあるわ! そっちの二人は剪定のシフトを再構築して!」
昼食の時間になる頃には、バーンスタイン家の庭園は軍隊のような規律で管理されていた。
使用人たちはゼェゼェと息を切らしながら整列している。
その前で、ルーアは満足げに腕を組んでいた。
「よし、午前中の作業効率は昨対比200%アップね。この調子なら、午後は屋敷内の在庫管理システムを見直せるわ」
「お、お嬢様……もう勘弁してください……」
「あら、どうして? 仕事が早く終われば、その分休憩時間が増えるのよ?」
「その休憩時間に、お嬢様が新しい仕事を作るんじゃないですか……」
使用人の鋭いツッコミに、ルーアは言葉に詰まる。
そこに、両親がやってきた。
変わり果てた(綺麗になりすぎた)庭と、疲弊した使用人たちを見て、父親がぽかんと口を開ける。
「ルーア……お前、何をしているんだ?」
「え? 暇だったから、ちょっと庭の最適化を」
「お前は本当に……根っからの仕事人間なんだな」
父親の言葉に、ルーアはハッとした。
手には泥だらけの軍手。ドレスは草の汁で緑色に染まっている。
(私、何やってるんだろう……)
スローライフ。優雅な貴族生活。
それを目指して帰ってきたはずなのに、気づけば労働者のリーダーとして現場指揮を執っていた。
「……飽きた」
ルーアはポツリと呟いた。
「え?」
「飽きたわ! 何もしないことに飽きたの! 効率化の余地がない空間に耐えられない!」
ルーアはその場にしゃがみ込んだ。
「どうしよう、お父様。私、マグロかもしれない。泳ぎ(働き)続けないと死んでしまうわ」
「マグロ……?」
父親は娘の奇行に頭を抱えたが、すぐに気を取り直して優しく肩を叩いた。
「まあ、急に変わろうとしても無理だということだよ。少しずつ慣れていけば……」
その時だった。
上空から、バサバサという大きな羽音が聞こえてきた。
「なんだ?」
見上げると、一羽の巨大な純白のフクロウが、優雅に舞い降りてくるところだった。
その足には、豪奢な装飾が施された手紙が握られている。
フクロウは真っ直ぐにルーアの元へ飛んでくると、目の前にストンと着地し、片足を差し出した。
「私に?」
ルーアがおずおずと手紙を受け取ると、フクロウは「任務完了」とばかりに一鳴きして、再び空へと飛び去っていった。
手紙の封蝋には、見覚えのある紋章。
氷の結晶と竜を模した、ドラグーン公爵家の紋章だ。
「……嫌な予感しかしない」
ルーアは泥だらけの手袋を外して、封を切った。
中には、達筆な文字でこう書かれていた。
『拝啓 私の愛しい鉄の女殿。
計算通りなら、そろそろ「何もしないこと」に耐えられず、庭の雑草あたりに当たり散らしている頃だろう。
どうだ? 君のその溢れ出る才能(とストレス)をぶつける場所が欲しくはないか?
我が領地には、君が「ゴミの山」と呼んで歓喜しそうなほど、手付かずの非効率な業務が山積している。
君が来るなら、給与は言い値で払おう。
追伸: 私の予想が正しければ、君は今、泥だらけのドレスを着ているはずだ。新しいドレスも用意して待っている』
「…………」
ルーアは手紙を握りしめた。
「あの男……! どこかで見てるの!?」
彼女はキョロキョロと周囲を見渡したが、クラウスの姿はない。
ただ、あまりにも図星すぎて、悔しいけれど否定できない自分がいた。
「お嬢様、その手紙は?」
マリーが心配そうに尋ねる。
ルーアは手紙をじっと見つめ、そして、ニヤリと笑った。
それは、難解な数式を前にした数学者のような、あるいはパズルを前にした子供のような、好戦的な笑みだった。
「お父様、お母様。ごめんなさい」
「ルーア?」
「スローライフ、一日で終了させていただきます」
ルーアは立ち上がり、泥を払った。
「私にはやっぱり、温室の紅茶より、戦場のコーヒーの方が合っているみたい」
彼女の瞳に、仕事モードの炎が宿る。
「行くわよ、マリー! 荷造り手伝って! 目的地は隣国、ドラグーン公爵領!」
「ええええ!? もうですか!?」
「時は金なり! 移動中の馬車の中で、新しい領地経営のシミュレーションをしなくちゃ!」
ルーアは屋敷の中へと駆け出した。
その背中は、今朝起きた時よりもずっと生き生きとしていた。
父親と母親は顔を見合わせ、やれやれと苦笑する。
「……あの子らしいわね」
「そうだな。元気ならそれが一番だ」
こうして、ルーアの「一日天下」ならぬ「一日無職」生活は、幕を閉じた。
目指すは極寒の地。
そこで待ち受けるのは、崩壊寸前の事務処理と、一癖も二癖もある「氷の魔導公爵」。
だが今のルーアにとっては、それはご馳走の山に見えていた。
バーンスタイン公爵領にある実家の自室で、ルーアは目を覚ました。
枕元の時計を見る。午前十時。
王宮にいた頃なら、すでに三つの会議をこなし、五人の文官を叱り飛ばし、昼食のメニューについて栄養士と激論を交わしている時間だ。
「……おはよう、私。素晴らしい朝ね」
ルーアは伸びをして、ふかふかのベッドに再びダイブした。
「二度寝。なんて罪深い響き。これぞスローライフの醍醐味だわ」
彼女は天井を見つめ、今日の予定を脳内で検索する。
『予定なし』
完璧だ。
コンコン。
「お嬢様、おはようございます。朝食をお持ちしました」
入ってきたのは、幼い頃から世話になっているメイドのマリーだ。
彼女はニコニコと笑いながら、ワゴンの上の銀食器を並べていく。
「マリー、おはよう。……あの、一つ聞いていいかしら?」
「はい、なんでしょう?」
「この紅茶、淹れてから何分経ってる?」
「え? えっと、厨房からここまで歩いてきましたから、五分ほどでしょうか?」
「抽出時間は三分がベストよ。五分だとタンニンが出すぎて渋みが増すわ。それに、カップが温められていないから、注いだ瞬間に温度が二度下がる。これでは香りが開かないわ」
「あ、あら……申し訳ありません! すぐに淹れ直して……」
マリーが慌てふためくのを見て、ルーアはハッとした。
(いけない。ここは職場じゃない。マリーは部下じゃなくて、家族同然のメイドよ)
「……ううん、いいの。ありがとう。いただくわ」
ルーアは慌ててカップを手に取り、少し渋い紅茶を飲み込んだ。
喉を通る渋みが、なんだか今の自分の気まずさを象徴しているようだ。
「お父様とお母様は?」
「旦那様と奥様は、朝から温室でお茶会をされています。『ルーアちゃんが帰ってきてくれて嬉しいわぁ』って、もう五回はおっしゃってましたよ」
「そう……平和ね」
朝食を終えたルーアは、パジャマから動きやすいドレス(といっても、彼女基準では装飾過多だが)に着替え、庭へと出た。
広大な庭園には、季節の花々が咲き乱れている。
両親はガゼボで優雅にお茶を飲んでいた。
「あらあ、ルーアちゃん! よく眠れた?」
母親が満面の笑みで手を振る。
父親も新聞を置いて、目尻を下げた。
「お帰り、ルーア。王都での苦労は忘れて、ここではのんびりしなさい。何もしなくていいんだよ」
「ええ、ありがとうお父様、お母様」
ルーアは二人の向かいに座った。
しかし、座って三秒で手持ち無沙汰になった。
(……何もしなくていいって、具体的に何をすればいいの?)
王宮では、座っている時間は「書類を読む時間」か「誰かを尋問する時間」だった。
ただ座って、風を感じて、ぼーっとする。
それがこんなに難しいことだとは知らなかった。
「……ねえお母様。その刺繍、進んでないんじゃない?」
「え? ふふ、おしゃべりに夢中で手が止まっちゃうのよぉ」
「効率が悪いわね。針の動きを最小限にして、糸のテンションを一定に保てば、三倍の速度で終わるわよ」
「まあ、ルーアちゃんったら。刺繍は過程を楽しむものよ?」
「過程……? 完成という結果こそが全てでは?」
「相変わらず手厳しいなぁ。ルーア、そんなにカリカリしないで、庭の散歩でもしてきなさい」
父親に促され、ルーアは渋々席を立った。
散歩。すなわち、目的のない移動行為。
彼女は庭の小道を歩き出した。
(カロリー消費以外に生産性が見出せない行動ね……)
その時、彼女の視界に一人の庭師が入った。
老齢の庭師が、花壇の雑草を抜いている。
しかし、その動きを見て、ルーアの眉間に深い皺が刻まれた。
(……遅い)
庭師はゆっくりと腰をかがめ、雑草を一本抜き、また腰を伸ばして休憩し、また一本抜く。
そのリズムは、ルーアの体内時計を狂わせるほどスローリーだった。
(腰の角度が悪いから負担がかかるのよ。それに、道具の選定が間違っている。あの根の深さなら、もっと鋭利な鎌を使うべきだわ)
イライラ、イライラ。
ルーアの指先が小刻みに震え始める。
見て見ぬ振りをしよう。私は今、スローライフ中なのだから。
しかし、庭師が大きな雑草にてこずり、尻餅をついた瞬間、ルーアの理性という名の堤防が決壊した。
「あーもう! 貸して!」
ルーアはドレスの裾をまくり上げ、庭師の元へ駆け寄った。
「お、お嬢様!?」
「その体勢じゃ腰を痛めるだけよ! 重心は低く、足は肩幅に開く! 手首のスナップを効かせて、テコの原理で根こそぎいくのよ!」
ルーアは庭師から草むしりの道具を奪い取ると、目にも止まらぬ速さで雑草を狩り始めた。
ザッ! ザッ! ザッ!
「ひい、ふう、みい……よし、一分間に六十本ペース! この区画の雑草密度から計算して、あと十五分で殲滅可能!」
「お、お嬢様! 土で汚れます!」
「汚れなんて洗濯すれば落ちるわ! それよりこの非効率な配置! なぜ道具小屋が一番奥にあるの!? 動線設計がなってない!」
ルーアは雑草を抜き終わると、今度は道具小屋へと走った。
「整理整頓! 使用頻度の高い順に並べ替え! 鎌の刃が錆びてるじゃない、砥石持ってきて!」
騒ぎを聞きつけた他の使用人たちが集まってくる。
「お嬢様が乱心されたぞ!」
「違うわ! 業務改善よ!」
ルーアは土埃にまみれながら、生き生きとした表情で指示を飛ばし始めた。
「あなたたちは肥料の運搬ルートを見直しなさい! 今のルートだと三分のロスがあるわ! そっちの二人は剪定のシフトを再構築して!」
昼食の時間になる頃には、バーンスタイン家の庭園は軍隊のような規律で管理されていた。
使用人たちはゼェゼェと息を切らしながら整列している。
その前で、ルーアは満足げに腕を組んでいた。
「よし、午前中の作業効率は昨対比200%アップね。この調子なら、午後は屋敷内の在庫管理システムを見直せるわ」
「お、お嬢様……もう勘弁してください……」
「あら、どうして? 仕事が早く終われば、その分休憩時間が増えるのよ?」
「その休憩時間に、お嬢様が新しい仕事を作るんじゃないですか……」
使用人の鋭いツッコミに、ルーアは言葉に詰まる。
そこに、両親がやってきた。
変わり果てた(綺麗になりすぎた)庭と、疲弊した使用人たちを見て、父親がぽかんと口を開ける。
「ルーア……お前、何をしているんだ?」
「え? 暇だったから、ちょっと庭の最適化を」
「お前は本当に……根っからの仕事人間なんだな」
父親の言葉に、ルーアはハッとした。
手には泥だらけの軍手。ドレスは草の汁で緑色に染まっている。
(私、何やってるんだろう……)
スローライフ。優雅な貴族生活。
それを目指して帰ってきたはずなのに、気づけば労働者のリーダーとして現場指揮を執っていた。
「……飽きた」
ルーアはポツリと呟いた。
「え?」
「飽きたわ! 何もしないことに飽きたの! 効率化の余地がない空間に耐えられない!」
ルーアはその場にしゃがみ込んだ。
「どうしよう、お父様。私、マグロかもしれない。泳ぎ(働き)続けないと死んでしまうわ」
「マグロ……?」
父親は娘の奇行に頭を抱えたが、すぐに気を取り直して優しく肩を叩いた。
「まあ、急に変わろうとしても無理だということだよ。少しずつ慣れていけば……」
その時だった。
上空から、バサバサという大きな羽音が聞こえてきた。
「なんだ?」
見上げると、一羽の巨大な純白のフクロウが、優雅に舞い降りてくるところだった。
その足には、豪奢な装飾が施された手紙が握られている。
フクロウは真っ直ぐにルーアの元へ飛んでくると、目の前にストンと着地し、片足を差し出した。
「私に?」
ルーアがおずおずと手紙を受け取ると、フクロウは「任務完了」とばかりに一鳴きして、再び空へと飛び去っていった。
手紙の封蝋には、見覚えのある紋章。
氷の結晶と竜を模した、ドラグーン公爵家の紋章だ。
「……嫌な予感しかしない」
ルーアは泥だらけの手袋を外して、封を切った。
中には、達筆な文字でこう書かれていた。
『拝啓 私の愛しい鉄の女殿。
計算通りなら、そろそろ「何もしないこと」に耐えられず、庭の雑草あたりに当たり散らしている頃だろう。
どうだ? 君のその溢れ出る才能(とストレス)をぶつける場所が欲しくはないか?
我が領地には、君が「ゴミの山」と呼んで歓喜しそうなほど、手付かずの非効率な業務が山積している。
君が来るなら、給与は言い値で払おう。
追伸: 私の予想が正しければ、君は今、泥だらけのドレスを着ているはずだ。新しいドレスも用意して待っている』
「…………」
ルーアは手紙を握りしめた。
「あの男……! どこかで見てるの!?」
彼女はキョロキョロと周囲を見渡したが、クラウスの姿はない。
ただ、あまりにも図星すぎて、悔しいけれど否定できない自分がいた。
「お嬢様、その手紙は?」
マリーが心配そうに尋ねる。
ルーアは手紙をじっと見つめ、そして、ニヤリと笑った。
それは、難解な数式を前にした数学者のような、あるいはパズルを前にした子供のような、好戦的な笑みだった。
「お父様、お母様。ごめんなさい」
「ルーア?」
「スローライフ、一日で終了させていただきます」
ルーアは立ち上がり、泥を払った。
「私にはやっぱり、温室の紅茶より、戦場のコーヒーの方が合っているみたい」
彼女の瞳に、仕事モードの炎が宿る。
「行くわよ、マリー! 荷造り手伝って! 目的地は隣国、ドラグーン公爵領!」
「ええええ!? もうですか!?」
「時は金なり! 移動中の馬車の中で、新しい領地経営のシミュレーションをしなくちゃ!」
ルーアは屋敷の中へと駆け出した。
その背中は、今朝起きた時よりもずっと生き生きとしていた。
父親と母親は顔を見合わせ、やれやれと苦笑する。
「……あの子らしいわね」
「そうだな。元気ならそれが一番だ」
こうして、ルーアの「一日天下」ならぬ「一日無職」生活は、幕を閉じた。
目指すは極寒の地。
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