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北の大地、ドラグーン公爵領。
そこは一年を通して冷涼な気候であり、冬には全てが雪に閉ざされるという過酷な土地だ。
その中心にそびえ立つ公爵城は、黒曜石で作られたかのように黒く、鋭く、見る者を威圧するような佇まいを見せていた。
「……寒いわね」
馬車から降りたルーアは、第一声で感想を述べた。
「カイロの経費申請は通るのかしら。暖房費の予算配分を確認しないと」
彼女の頭の中は、すでに感動よりも実務に向いていた。
案内役の騎士たちは、ガチガチと震えている。寒さのせいではない。これから会う「主」への恐怖のせいだ。
「ル、ルーア様……こちらです。閣下がお待ちです」
通されたのは、謁見の間とも呼べる広い執務室だった。
重厚な扉が開かれると、そこには氷点下の空気が漂っていた。
部屋の奥、一段高い場所に置かれた執務机。
そこに、書類の山に囲まれながら、一人の男が座っていた。
クラウス・フォン・ドラグーン。
「氷の魔導公爵」の異名を持つ彼は、入室したルーアを見ても表情一つ変えず、ただ青い瞳だけで彼女を射抜いた。
「よく来たな。私の『鉄の女』」
その声は低く、部屋の温度をさらに二度ほど下げたような気がした。
周囲の騎士たちは直立不動で冷や汗を流している。
しかし、ルーアは平然とカツカツとヒールの音を響かせ、彼の正面まで歩み寄った。
「お招きいただき光栄です、閣下。……と言いたいところですが、まずは室温の調整を提案させていただきます。適温は二十五度です。これでは指がかじかんで計算速度が三割低下します」
ルーアの言葉に、騎士たちが息を呑む。
あの公爵に対して、挨拶もそこそこに暖房の要求をする人間など、かつて存在しなかったからだ。
クラウスは眉をピクリと動かした。
「……ふむ。挨拶より先に文句とは、いい度胸だ」
彼はゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、部屋の中の空気が重く澱み、ピキピキと床が凍りつくような音が響く。
魔力だ。
膨大な、そして制御された暴力的な魔力が、ルーア一人のために解き放たれたのだ。
「私の部下になるということは、常にこの『死』と隣り合わせの重圧に晒されるということだ」
クラウスが一步近づくごとに、床に霜が降りていく。
「軟弱な精神の者は、私の前に立つだけで気絶する。あるいは、恐怖で発狂する」
彼はルーアの目の前、鼻先が触れそうな距離で立ち止まり、見下ろした。
「問おう、ルーア・バーンスタイン。君はこの恐怖に耐え、私のために命を懸けて働く覚悟があるか?」
それは、まさしく面接だった。
ただし、圧迫面接などという生易しいものではない。命がけの試練だ。
普通の令嬢なら、この時点で泣いて謝り、逃げ出しているだろう。
だが、ルーアは――。
「……はあ」
大きく、呆れたようなため息をついた。
「閣下。ご自身の魔力制御が甘いのを、部下の精神力のせいにしないでいただけますか?」
「……何?」
「その漏れ出ている魔力、無駄です。エネルギーロスが激しい。威圧に使う魔力があるなら、それを暖房魔石のチャージに回すべきです。効率が悪すぎます」
ルーアは凍りついた床をヒールでコツコツと叩いた。
「それに、『命を懸ける』? お断りです」
きっぱりと言い放つ。
静まり返る室内。騎士の一人が白目を剥いて倒れたのが見えた。
ルーアは構わず続ける。
「私は仕事を求めてここに来ましたが、死に場所を求めて来たわけではありません。雇用契約とは、労働力の提供と対価の交換であり、命の売買契約ではありません」
彼女はクラウスの青い瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「私は命は懸けません。ですが、私の持つ全ての知識と技術、そして時間を、契約時間内に限り提供します」
「……契約時間内?」
「はい。定時退社と残業代、そして有給休暇。これらを完全に保証していただきます」
ルーアは指を三本立てて提示した。
「一、命の危険がある業務(戦闘、魔物討伐、閣下の八つ当たり)は業務外とします」
「二、残業は原則禁止。発生した場合は基本給の1.5倍を支払うこと」
「三、私の計算結果には口出し無用。数字は嘘をつきません」
ルーアは一息つくと、不敵に微笑んだ。
「以上の条件を飲めるなら、あなたの領地を立て直して差し上げましょう。……どうなさいますか、経営者様?」
シン、と部屋が静まり返る。
誰もが、公爵の激鱗に触れたと思った。
次の瞬間、ルーアが氷像に変えられるのを覚悟した。
しかし。
「……く、くくく……」
クラウスの肩が震え始めた。
そして、堪えきれないといった様子で、天井を仰いで高笑いをした。
「はははは! 愉快だ! 実に愉快だ!」
その笑い声で、部屋に充満していた殺気のような冷気が霧散していく。
「命はいらない、金と休みをよこせ、か。私に向かってそこまで言い切ったのは、君が初めてだ」
クラウスは楽しげにルーアを見下ろした。その瞳には、先ほどまでの冷徹さはなく、気に入った玩具を見つけた子供のような好奇心が宿っている。
「いいだろう。その条件、全て飲もう」
「言質を取りましたよ。契約書は後ほど作成します」
「構わない。だが、一つだけ条件を追加させてもらう」
クラウスはルーアの顎をすくい上げ、顔を近づけた。
「君の『定時』以外の時間は、私が独占する権利を持つ。……これなら文句はないな?」
甘い声色と、整いすぎた顔の接近。
普通の令嬢なら顔を赤らめる場面だが、ルーアは冷静に電卓を弾いた。
「……プライベート時間の拘束契約ですね。別途、拘束手当を請求させていただきますが、よろしいですか?」
「金で済むなら安いものだ」
「交渉成立です」
ルーアはクラウスの手をがっしりと握り、シェイクハンドを交わした。
ロマンスの欠片もない、商談成立の握手だった。
「では、早速業務に入らせていただきます。まずは現状把握から……」
ルーアが執務机の方へ向かおうとした時、クラウスが妙に嬉しそうに言った。
「ああ、それなら隣の部屋にまとめてある。案内しよう」
「隣の部屋?」
「この部屋には入り切らなかったのでな。さあ、私の『最愛の補佐官』。君の戦場はあちらだ」
クラウスが案内した扉が開かれた。
その瞬間、ルーアは言葉を失った。
そこは部屋ではなかった。
紙の、海だった。
天井まで届くほどの書類の山、山、山。
床は見えず、どこが机かもわからない。
雪崩のように積み上がった未処理書類が、まるで生き物のように部屋を埋め尽くしていたのだ。
「……な、んですか……これは……」
「ここ数年分の、領地の決裁書類、陳情書、予算案、その他諸々だ」
クラウスは悪びれもせず言った。
「前の担当者が逃げ出して以来、誰も手を付けられなくてね。私が適当に魔法で凍らせて保存しておいた」
「凍らせて……保存……?」
ルーアはふらりと書類の山に近づき、一枚を手に取った。
『三年前の道路補修計画書(未決)』
パリパリに凍っている。
「解凍しないと読めないじゃないですか……!」
「君ならできるだろう? 期待しているよ」
クラウスはポンとルーアの肩を叩くと、非常に良い笑顔で言った。
「私は午後から魔物討伐の視察に行ってくる。定時までに、この部屋のどこかにあるはずの『今日の夕食のメニュー表』を見つけておいてくれ」
「はあああ!?」
「では頼んだ」
クラウスは颯爽と部屋を出て行った。
残されたのは、呆然とするルーアと、氷漬けにされた数万枚の書類たち。
「……詐欺だわ」
ルーアは震える手で電卓を握りしめた。
「これは『事務処理』じゃない。『発掘作業』よ……!」
しかし。
絶望から五秒後。
ルーアの瞳に、怪しい光が灯った。
「……でも、燃える」
彼女の口元がニヤリと歪む。
「これだけのカオス……整理しがいがあるじゃない。見てなさいよ、定時までにこのゴミ山を更地にしてやるわ!」
ルーアはドレスの袖をまくり上げ、髪をポニーテールに結い上げた。
「戦闘開始(ワーク・スタート)!」
ドラグーン公爵城に、ルーアの怒号と高速で書類を捌く音が響き渡る。
それは、伝説となる「氷の公爵領・大改革」の始まりの合図だった。
そこは一年を通して冷涼な気候であり、冬には全てが雪に閉ざされるという過酷な土地だ。
その中心にそびえ立つ公爵城は、黒曜石で作られたかのように黒く、鋭く、見る者を威圧するような佇まいを見せていた。
「……寒いわね」
馬車から降りたルーアは、第一声で感想を述べた。
「カイロの経費申請は通るのかしら。暖房費の予算配分を確認しないと」
彼女の頭の中は、すでに感動よりも実務に向いていた。
案内役の騎士たちは、ガチガチと震えている。寒さのせいではない。これから会う「主」への恐怖のせいだ。
「ル、ルーア様……こちらです。閣下がお待ちです」
通されたのは、謁見の間とも呼べる広い執務室だった。
重厚な扉が開かれると、そこには氷点下の空気が漂っていた。
部屋の奥、一段高い場所に置かれた執務机。
そこに、書類の山に囲まれながら、一人の男が座っていた。
クラウス・フォン・ドラグーン。
「氷の魔導公爵」の異名を持つ彼は、入室したルーアを見ても表情一つ変えず、ただ青い瞳だけで彼女を射抜いた。
「よく来たな。私の『鉄の女』」
その声は低く、部屋の温度をさらに二度ほど下げたような気がした。
周囲の騎士たちは直立不動で冷や汗を流している。
しかし、ルーアは平然とカツカツとヒールの音を響かせ、彼の正面まで歩み寄った。
「お招きいただき光栄です、閣下。……と言いたいところですが、まずは室温の調整を提案させていただきます。適温は二十五度です。これでは指がかじかんで計算速度が三割低下します」
ルーアの言葉に、騎士たちが息を呑む。
あの公爵に対して、挨拶もそこそこに暖房の要求をする人間など、かつて存在しなかったからだ。
クラウスは眉をピクリと動かした。
「……ふむ。挨拶より先に文句とは、いい度胸だ」
彼はゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、部屋の中の空気が重く澱み、ピキピキと床が凍りつくような音が響く。
魔力だ。
膨大な、そして制御された暴力的な魔力が、ルーア一人のために解き放たれたのだ。
「私の部下になるということは、常にこの『死』と隣り合わせの重圧に晒されるということだ」
クラウスが一步近づくごとに、床に霜が降りていく。
「軟弱な精神の者は、私の前に立つだけで気絶する。あるいは、恐怖で発狂する」
彼はルーアの目の前、鼻先が触れそうな距離で立ち止まり、見下ろした。
「問おう、ルーア・バーンスタイン。君はこの恐怖に耐え、私のために命を懸けて働く覚悟があるか?」
それは、まさしく面接だった。
ただし、圧迫面接などという生易しいものではない。命がけの試練だ。
普通の令嬢なら、この時点で泣いて謝り、逃げ出しているだろう。
だが、ルーアは――。
「……はあ」
大きく、呆れたようなため息をついた。
「閣下。ご自身の魔力制御が甘いのを、部下の精神力のせいにしないでいただけますか?」
「……何?」
「その漏れ出ている魔力、無駄です。エネルギーロスが激しい。威圧に使う魔力があるなら、それを暖房魔石のチャージに回すべきです。効率が悪すぎます」
ルーアは凍りついた床をヒールでコツコツと叩いた。
「それに、『命を懸ける』? お断りです」
きっぱりと言い放つ。
静まり返る室内。騎士の一人が白目を剥いて倒れたのが見えた。
ルーアは構わず続ける。
「私は仕事を求めてここに来ましたが、死に場所を求めて来たわけではありません。雇用契約とは、労働力の提供と対価の交換であり、命の売買契約ではありません」
彼女はクラウスの青い瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「私は命は懸けません。ですが、私の持つ全ての知識と技術、そして時間を、契約時間内に限り提供します」
「……契約時間内?」
「はい。定時退社と残業代、そして有給休暇。これらを完全に保証していただきます」
ルーアは指を三本立てて提示した。
「一、命の危険がある業務(戦闘、魔物討伐、閣下の八つ当たり)は業務外とします」
「二、残業は原則禁止。発生した場合は基本給の1.5倍を支払うこと」
「三、私の計算結果には口出し無用。数字は嘘をつきません」
ルーアは一息つくと、不敵に微笑んだ。
「以上の条件を飲めるなら、あなたの領地を立て直して差し上げましょう。……どうなさいますか、経営者様?」
シン、と部屋が静まり返る。
誰もが、公爵の激鱗に触れたと思った。
次の瞬間、ルーアが氷像に変えられるのを覚悟した。
しかし。
「……く、くくく……」
クラウスの肩が震え始めた。
そして、堪えきれないといった様子で、天井を仰いで高笑いをした。
「はははは! 愉快だ! 実に愉快だ!」
その笑い声で、部屋に充満していた殺気のような冷気が霧散していく。
「命はいらない、金と休みをよこせ、か。私に向かってそこまで言い切ったのは、君が初めてだ」
クラウスは楽しげにルーアを見下ろした。その瞳には、先ほどまでの冷徹さはなく、気に入った玩具を見つけた子供のような好奇心が宿っている。
「いいだろう。その条件、全て飲もう」
「言質を取りましたよ。契約書は後ほど作成します」
「構わない。だが、一つだけ条件を追加させてもらう」
クラウスはルーアの顎をすくい上げ、顔を近づけた。
「君の『定時』以外の時間は、私が独占する権利を持つ。……これなら文句はないな?」
甘い声色と、整いすぎた顔の接近。
普通の令嬢なら顔を赤らめる場面だが、ルーアは冷静に電卓を弾いた。
「……プライベート時間の拘束契約ですね。別途、拘束手当を請求させていただきますが、よろしいですか?」
「金で済むなら安いものだ」
「交渉成立です」
ルーアはクラウスの手をがっしりと握り、シェイクハンドを交わした。
ロマンスの欠片もない、商談成立の握手だった。
「では、早速業務に入らせていただきます。まずは現状把握から……」
ルーアが執務机の方へ向かおうとした時、クラウスが妙に嬉しそうに言った。
「ああ、それなら隣の部屋にまとめてある。案内しよう」
「隣の部屋?」
「この部屋には入り切らなかったのでな。さあ、私の『最愛の補佐官』。君の戦場はあちらだ」
クラウスが案内した扉が開かれた。
その瞬間、ルーアは言葉を失った。
そこは部屋ではなかった。
紙の、海だった。
天井まで届くほどの書類の山、山、山。
床は見えず、どこが机かもわからない。
雪崩のように積み上がった未処理書類が、まるで生き物のように部屋を埋め尽くしていたのだ。
「……な、んですか……これは……」
「ここ数年分の、領地の決裁書類、陳情書、予算案、その他諸々だ」
クラウスは悪びれもせず言った。
「前の担当者が逃げ出して以来、誰も手を付けられなくてね。私が適当に魔法で凍らせて保存しておいた」
「凍らせて……保存……?」
ルーアはふらりと書類の山に近づき、一枚を手に取った。
『三年前の道路補修計画書(未決)』
パリパリに凍っている。
「解凍しないと読めないじゃないですか……!」
「君ならできるだろう? 期待しているよ」
クラウスはポンとルーアの肩を叩くと、非常に良い笑顔で言った。
「私は午後から魔物討伐の視察に行ってくる。定時までに、この部屋のどこかにあるはずの『今日の夕食のメニュー表』を見つけておいてくれ」
「はあああ!?」
「では頼んだ」
クラウスは颯爽と部屋を出て行った。
残されたのは、呆然とするルーアと、氷漬けにされた数万枚の書類たち。
「……詐欺だわ」
ルーアは震える手で電卓を握りしめた。
「これは『事務処理』じゃない。『発掘作業』よ……!」
しかし。
絶望から五秒後。
ルーアの瞳に、怪しい光が灯った。
「……でも、燃える」
彼女の口元がニヤリと歪む。
「これだけのカオス……整理しがいがあるじゃない。見てなさいよ、定時までにこのゴミ山を更地にしてやるわ!」
ルーアはドレスの袖をまくり上げ、髪をポニーテールに結い上げた。
「戦闘開始(ワーク・スタート)!」
ドラグーン公爵城に、ルーアの怒号と高速で書類を捌く音が響き渡る。
それは、伝説となる「氷の公爵領・大改革」の始まりの合図だった。
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