婚約破棄を待ってました!喜んで帰りますわ!

ハチワレ

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「……酷い。想像を絶するわ」

ルーアは、目の前に広がる『氷河期』を前にして、心からの感想を漏らした。

ドラグーン公爵邸の『第二執務室』と呼ばれるその場所は、本来ならば絨毯が敷かれた優雅な部屋のはずだった。

しかし現在、そこは白い紙束の雪山と化し、さらにクラウスの魔力によって物理的に凍結保存されている。

室温はマイナス五度。

書類を一枚剥がそうとすれば、パリパリと音を立てて砕け散りそうだ。

「あの馬鹿公爵……『保存しておいた』じゃないわよ。これじゃあ『遺棄』よ、遺棄!」

ルーアは怒りで体温を上昇させながら、周囲を見渡した。

部屋の隅で、数名の文官たちがガタガタと震えている。

彼らはルーアのあまりの剣幕に恐れをなし、壁と同化しようと必死だった。

「そこのあなたたち!」

「ひっ、は、はいぃ!」

一番近くにいた、眼鏡をかけた小柄な文官が飛び上がった。名はハンスというらしい。

「この部屋の暖房魔導具はどこ? 最大出力で稼働させなさい。まずは解凍作業からよ」

「で、ですが……閣下の魔力で凍ったものは、並大抵の魔導具では溶けません……それに、勝手に溶かすと閣下に怒られるんじゃ……」

「私が許可します。文句があるなら私を通すように言いなさい。それとも、このままこの部屋で凍死したいのですか?」

「し、したくないです! すぐに!」

ハンスたちは慌てて走り回り、巨大なストーブのような魔導具を数台運び込んできた。

ゴーッという音と共に熱風が吹き出す。

徐々に室温が上がり、書類の表面についた霜が溶け始めた。

水滴でインクが滲む前に、ルーアは素早く動き出した。

「いい? 今から『トリアージ』を行います」

ルーアは文官たちを一列に並ばせ、即席のベルトコンベアを作った。

「私が書類を読み上げ、判断を下します。あなたたちは私の指示通りに、箱に放り込んでいきなさい。箱は三つ。『即時決済』『保留』そして『焼却』です」

「しょ、焼却ですか!?」

「ええ。ゴミを保管するスペースはありません。私の判断速度についてきなさい。遅れたら減給よ」

「ヒィッ!」

ルーアは解凍されたばかりの書類を一枚手に取り、一瞬で目を通した。

「三年前の道路補修申請書。期限切れのため無効。再申請が必要。――焼却」

バサッ。ハンスが焼却箱へ投げる。

「隣国からの夜会招待状。開催日は二年前。――焼却」

バサッ。

「領内の特産品『雪花イチゴ』の売上報告書。……計算ミス発見。担当者を呼び出して修正させなさい。――保留」

バサッ。

「公爵閣下のファンクラブ設立嘆願書。……却下。気持ち悪い。――焼却」

バサッ。

ルーアの手が残像に見えるほどの速度で動く。

その目は完全に据わっており、感情の一切を排除した『処理マシーン』と化していた。

「次! これは……『閣下の昼食における人参排除に関する嘆願書』? 公爵が人参嫌いだからって、料理長が嘆願書を出すな! 好き嫌いせず食べろと返信! ――焼却!」

「は、速い……速すぎる……!」

文官たちは目を白黒させながら、必死でルーアの速度に食らいつく。

今まで、この部屋の書類は『触れてはいけないタブー』だった。

クラウスの不機嫌の源であり、誰も手を出せずに積み上がっていった負の遺産。

それを、この小柄な令嬢は、まるでキャベツの千切りでもするかのように刻んでいく。

「ちょ、ちょっと待ってくださいルーア様! これは重要書類では!?」

ハンスが震える手で一枚の書類を差し出した。

それは金箔の押された重厚な羊皮紙だった。

「ん? 『北方防衛線における魔導兵器の配備計画』……」

ルーアは眉をひそめて内容を読み込む。

「……重要ね。国家機密レベルだわ」

「で、ですよね! これは慎重に……」

「でも、日付を見て。五年前よ」

「え?」

「この兵器、すでに旧式化して廃棄されてるわ。予算も執行済み。つまり、ただの『過去の栄光』よ。資料室へアーカイブ。ここにある必要なし」

「あ、あああ……」

ハンスは愕然とした。

重要だと思って神棚に飾るように保管していた書類が、彼女にかかればただの『過去ログ』として処理されていく。

「感傷に浸っている暇はないわよ! 手を動かす!」

「は、はいぃ!」

一時間が経過した。

部屋の空気が変わった。

鬱蒼としていた書類の山が消え、床が見え始めたのだ。

「……信じられない」

文官の一人が呟く。

「床だ……この部屋に床があったんだ……」

「窓から光が入ってくる……」

まるで文明開化の夜明けを見たような感動が、文官たちの間に広がっていく。

しかし、ルーアの手は止まらない。

「感動するのは早いわ。まだ山の三合目よ。ここからが本番」

ルーアは腕まくりをさらに上げ、一番奥にあった巨大な木箱を指差した。

「あれは何? 厳重に鎖が巻かれているけれど」

「あ、あれは『開かずの箱』です! 歴代の補佐官たちが『これだけはどうしても処理できない』と封印した、呪いの案件が入っているとか……」

「呪い? 非効率の言い間違いでしょ」

ルーアは迷わず近づき、近くにあったペーパーナイフで鎖をこじ開けた。

ギギギ……と不気味な音を立てて蓋が開く。

中には、どす黒いオーラを放つ一束の書類が入っていた。

ハンスたちが悲鳴を上げて後ずさる。

ルーアは顔色一つ変えずにそれを手に取った。

「……なるほどね」

「な、何が書かれているんですか!? 悪魔召喚の儀式ですか!?」

「いいえ。これは『領内全店舗の売掛金未回収リスト(十年分)』よ」

「ひいいい! もっと恐ろしいやつだ!」

「しかも、相手先が貴族や王族ばかり。忖度して請求できなかったの音ね。……合計金額、金貨五万枚」

ルーアの目が、チャリンという音と共に『¥(エン)』マーク……ならぬ『G(ゴールド)』マークに変わった。

「宝の山じゃない」

彼女は不敵な笑みを浮かべた。

「回収するわよ。全額、耳を揃えて」

「む、無理ですよ! 相手は大物ばかりで……」

「関係ないわ。借金を返さない人間に、身分もへったくれもありません。督促状を作成します。文面は私が考えるから、あなたたちは宛名書きをなさい」

「は、はい……」

ルーアは即座に、相手の逃げ道を完全に塞ぐ、慇懃無礼かつ法的に完璧な督促状を書き上げた。

『拝啓 春陽の候、皆様におかれましては益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。さて、貴殿の未払い金につきまして、時効の援用は認められない旨、法的根拠に基づきご通知申し上げます――』

その文章の美しさと冷徹さに、ハンスたちは戦慄した。

この人は、氷の公爵よりも恐ろしいかもしれない。

そう確信した瞬間だった。

ガチャリ。

扉が開き、魔物討伐から帰還したクラウスが入ってきた。

返り血を浴び、殺気を纏ったその姿はまさに魔王。

「戻ったぞ。……おい、ルーア。まさか逃げ出しては……」

クラウスは言葉を失った。

彼の目の前には、整然と片付いた部屋。

分類され、紐で縛られた書類の束。

そして、床に膝をつき、疲れ果てて眠りこけている文官たち。

その中心で、ただ一人、優雅に紅茶を飲んでいるルーアの姿があった。

「おかえりなさいませ、閣下」

ルーアはカップを置き、ニッコリと微笑んだ。

「定時五分前です。業務完了いたしました」

「……馬鹿な」

クラウスは部屋を見渡した。

あの地獄のような書類の山が、消滅している。

「魔法を使ったのか? 消滅魔法を?」

「いいえ。事務処理能力という物理攻撃です。……あ、報告事項があります」

ルーアは一枚の紙をクラウスに突きつけた。

「これは?」

「閣下の『無駄遣いリスト』です。魔導具の衝動買い、意味不明なオブジェの購入、そして頻繁すぎる外壁の修理費(自分で壊したものを含む)。これらにより、公爵家の財政は赤字スレスレです」

「ぐっ……」

「つきましては、来月から閣下のお小遣い制を導入します」

「お、お小遣い……だと!? 私は公爵だぞ!?」

「公爵だろうと神だろうと、赤字は許しません。文句があるなら、ご自身で帳簿をつけてみてください。三日で発狂すると思いますが」

ルーアの絶対的な眼差しに、クラウスはたじろいだ。

戦場で数多の魔物を葬ってきた彼が、たった一人の小柄な少女に圧されている。

しかし。

クラウスの頬が、奇妙に紅潮し始めた。

「……お小遣い制、か」

「はい?」

「誰かに財布の紐を握られるというのは……案外、悪くない響きだ。まるで新婚家庭のようではないか」

「……はあ。ポジティブな解釈で何よりです」

ルーアは呆れたように肩をすくめた。

「では、私はこれで失礼します。定時ですので」

「待て。夕食はどうする?」

「部屋で一人で食べます。疲れましたので」

「ならん。私の『拘束権』を行使する」

クラウスはルーアの腕を掴み、強引に引き寄せた。

「今日の夕食は、君の歓迎会だ。私が特別に予約しておいた店がある」

「……残業代は出ますか?」

「出る。最高級のディナーという現物支給だ」

ルーアはお腹がグーと鳴るのを必死に抑えつつ、ため息をついた。

「……わかりました。ただし、二時間以内でお願いします。明日も早いので」

「フッ、商談成立だな」

クラウスは満足げに笑うと、ルーアをエスコートして歩き出した。

背後で、ようやく目を覚ましたハンスたちが、「助かった……」「生き延びた……」と涙を流して抱き合っているのを、ルーアは見なかったことにした。

こうして、ルーアのドラグーン公爵領での初日は、伝説的な成果と共に幕を閉じた。

だが、これはまだ序章に過ぎない。

翌日からは、さらに厄介な『人間関係の整理整頓』が待ち受けていることを、彼女はまだ知らなかった。
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