婚約破棄を待ってました!喜んで帰りますわ!

ハチワレ

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「ルーア! ルーア・バーンスタイン! そこにいるのは分かっているぞ!」

ドラグーン公爵城の正門前。

ロランド王子の間抜けな、もとい、よく通る大声が響き渡っていた。

彼は白馬に跨り(なぜかこの雪国で半袖の正装だ)、隣には厚着をしてダルマのようになったミナを従えている。

さらに後ろには、隣国の近衛兵たちが寒さで震えながら整列していた。

城のバルコニーからその様子を見下ろしていたルーアは、ハンスから手渡された拡声器(魔導スピーカー)のスイッチを入れた。

『……あー、テステス。本日の業務開始時間は午前九時です。現在は八時四十五分。アポイントメントのない訪問者は、お引き取りください』

事務的なアナウンスが、大音量で周囲に響く。

ロランドが顔を真っ赤にして叫び返した。

「ふざけるな! 私はアポなどという俗なものは取らん! 王族だぞ!」

『ここは隣国です。あなたの王族特権は、ここでは単なる「観光客のワガママ」として処理されます』

「減らず口を! ルーア、私は君を助けに来たのだ!」

ロランドは馬上で大げさに腕を広げた。

「君はこの『氷の魔導公爵』に騙され、拉致監禁され、過酷な労働を強いられているのだろう!? 私の元へ戻ってくれば、その罪を許してやろうという慈悲の心で、わざわざ来てやったのだ!」

「そうだそうだー! ロランド様の愛に感謝しなさいよねー!」

ミナが毛皮のマフラーに顔を埋めながら、便乗して叫ぶ。

ルーアは拡声器を下ろし、こめかみを指で押さえた。

「……ハンス。彼らの言っている言語は共通語よね? なぜ意味が理解できないのかしら」

「い、以前の上司なので申し上げにくいですが……殿下の脳内では、世界は自分を中心に回っている設定なのだと思います」

「バグね。修正不可能だわ」

ルーアはため息をつくと、再び拡声器を構えた。

『訂正します。私は拉致されていません。極めてホワイトな労働条件の下、定時退社と高額な給与、そして福利厚生を享受しております。殿下の元にいた時の百倍は幸せですので、ご心配なく』

「嘘だ! そんな強がりを! 悪名高いドラグーン公爵が、そんな好条件を出すはずがない!」

ロランドは懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。

ビシッ、とそれを掲げる。

「見ろ! これが私の『寛大な心』の証だ!」

『……なんですか、その紙切れは? 遠すぎて見えません。まさか、また請求書ですか?』

「違う! 『謝罪および復縁許可証』だ!」

ロランドは勝ち誇った顔で言った。

「君がこれまでの無礼を詫び、私の足元にひざまずいて靴を舐めるならば、側室の一人として再び城に置いてやってもいい……という、私の直筆の手紙だ!」

一瞬の沈黙の後。

城壁の上にいる衛兵たちが、一斉にざわめいた。

「正気か?」

「側室って……浮気相手のミナ嬢が正妻ってこと?」

「靴を舐めろって……どんな性癖だ?」

冷ややかな視線がロランドに突き刺さる。

しかし、ルーアの反応は違った。

彼女はバルコニーから身を乗り出し、目を細めた。

『……殿下。その手紙、ちょっと見せていただけますか?』

「ほう! やはり戻りたいのだな! いいだろう、受け取れ!」

ロランドは近衛兵に命じ、手紙をバルコニーまで届けさせた。

ルーアはその手紙を受け取ると、ポケットから赤ペンを取り出した。

サラサラサラ……。

静寂の中、ペンを走らせる音だけが響く。

ロランドはニヤニヤしながら待っている。

「どうだルーア。私の愛の深さに涙しているか?」

数分後。

ルーアは手紙を掲げた。

『採点完了。――0点です』

「は?」

『まず、「寛大」の「寛」の字が間違っています。「官」になっていますが、あなたは官僚ですか? 次に、「謝罪」が「写罪」になっています。罪を写生してどうするんですか? さらに文法ミスが十五箇所、論理的矛盾が三箇所、そして何より――』

ルーアは手紙をクシャクシャに丸めると、冷徹に言い放った。

『内容が気持ち悪い。生理的に無理です』

ポイッ。

丸められた手紙が、ロランドの頭上に落下し、ポスッと当たった。

「ぶっ!?」

「きゃあ! ロランド様になんてことを!」

「き、きき、貴様ぁぁぁ! 私の手紙をゴミのように!」

「ゴミだから捨てたのです。分別しなかっただけ感謝してください」

ロランドの顔色が、怒りで紫色に変色していく。

「おのれ……! そこまで言うなら、力ずくで連れ戻してやる! おい、者ども! 城門を破れ! あの生意気な女を引きずり出せ!」

近衛兵たちが戸惑いながらも、武器を構えようとした、その時。

ゴゴゴゴゴ……。

地響きのような音が鳴り響き、周囲の気温が急激に低下した。

空がにわかに曇り、吹雪が舞い始める。

「……誰だ?」

地獄の底から響くような声。

城門がゆっくりと開き、その奥から一人の男が歩み出てきた。

漆黒のマントをなびかせ、周囲に氷の結晶を撒き散らす男。

クラウス・フォン・ドラグーン。

その瞳は、絶対零度の怒りに燃えていた。

「私の城門の前で、騒音を撒き散らしている羽虫どもは」

「ひっ……!」

ロランドの馬が、恐怖でいななき、後ずさりする。

「こ、これが……氷の魔導公爵……!?」

「ルーア!」

クラウスはバルコニーを見上げ、叫んだ。

その声には、先ほどの怒気とは違う、焦りのような色が混じっていた。

「あいつらは何だ? 君のストーカーか? 害獣駆除の対象として処理していいか?」

『ええ、お願いします。業務妨害ですので』

ルーアがあっさりと許可を出す。

「よし。――氷結牢(ニブルヘイム)!」

クラウスが指を鳴らした瞬間。

バキキキキッ!

ロランドたちの周囲の地面から、巨大な氷の柱が一斉に突き出した。

それは檻のように彼らを囲い込み、逃げ場を完全に塞いだ。

「うわあああ! 冷たい! 寒い! 死ぬぅ!」

「いやあああ! 私のドレスが凍っちゃうぅ!」

氷の檻の中で、ロランドとミナが逃げ惑う。

クラウスは無慈悲に宣告した。

「我が領地への不法侵入、および我が補佐官へのストーカー行為により、拘束する。……身代金は、貴国の一年分の国家予算相当とする」

「な、なんだとぉおお!?」

「払えないなら、このまま氷像として我が城の庭園に飾る。魔除けにはなるだろう」

「やめろぉ! 父上に言いつけてやるぅ!」

情けない悲鳴を上げるロランド。

その様子をバルコニーから眺めていたルーアは、ハンスに指示を出した。

「ハンス、今の会話を録音した? 『不法侵入』の現行犯逮捕の証拠として完璧ね。それと、あの氷の檻の使用料と、撤去費用も請求書に追加しておいて」

「は、はい……あの、ルーア様」

「何?」

「元婚約者の方がああなっていますが、少しも心が痛まないのですか?」

ハンスが恐る恐る尋ねる。

ルーアは不思議そうに首を傾げた。

「心が痛む? なぜ? 不良債権が処理されているのを見ているだけよ。むしろ清々しいわ」

ルーアはバルコニーの手すりに肘をつき、氷漬けになりかけている元婚約者を見下ろして微笑んだ。

「さあ、これで静かになったわね。仕事に戻りましょうか」

「……ルーア様、やはりあなた様こそが最強の『悪役』かもしれません」

ハンスの呟きは、吹雪の中に消えた。

しかし、騒動はこれだけでは終わらなかった。

クラウスが氷の檻の前で仁王立ちし、さらに追撃を加えようとしている。

「貴様ら、ルーアに『靴を舐めろ』と言ったな? その言葉、万死に値する」

彼は本気で怒っていた。

ルーアがバルコニーから声をかける。

『閣下! もういいですから戻ってきてください! 深追いすると外交問題になります!』

「ならん! 君を侮辱した罪は重い。最低でも、全身の毛穴を凍らせて反省させる!」

『地味に嫌な拷問はやめてください! それより、新しい椅子のカタログが届いてますよ!』

「……椅子?」

クラウスの動きがピタリと止まる。

『はい。閣下が約束してくださった、最高級チェアのカタログです。一緒に選びましょう?』

その言葉を聞いた瞬間、クラウスの周囲の吹雪がピタリと止んだ。

彼はくるりと振り返り、満面の(ただし周囲には悪巧みにしか見えない)笑みを浮かべた。

「すぐ行く!」

彼はロランドたちを放置し、ウキウキとした足取りで城内へと戻っていった。

取り残されたロランドとミナは、氷の檻の中でガタガタと震えている。

「お、おい……放置か? このまま凍死させる気か!?」

「誰か助けてぇ……」

ルーアは彼らを一瞥し、最後に拡声器で告げた。

『あ、氷は三時間後に自然解凍するように設定してあります。それまで反省文でも書いていてください。用紙とペンは差し入れしますので』

「鬼ぃぃぃ! 悪魔ぁぁぁ!」

ロランドの絶叫をBGMに、ルーアはバルコニーから部屋へと戻った。

「さて、カタログ、カタログっと」

彼女は実に楽しそうに執務室のソファに座った。

数分後、息を切らせて戻ってきたクラウスと共に、二人は仲良くカタログを見ながら「腰への負担軽減率」について熱く語り合うことになる。

その様子は、奇妙な信頼関係で結ばれた、ある意味お似合いのカップルのようであった。

城の外には、二つの氷像(元王子と元浮気相手)が、芸術的なポーズで固まっていた。
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