婚約破棄を待ってました!喜んで帰りますわ!

ハチワレ

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嵐のような一日が過ぎ去った。

強引な両親と、みすぼらしい元王族たちを追い返し、ドラグーン公爵城にはようやく静寂が戻っていた。

深夜の執務室。

ルーアはデスクに向かい、いつものように電卓を叩いていたが、ふと手を止めた。

「……ん?」

彼女は引き出しから、一枚の書類を取り出した。

それは、彼女がこの城に来た初日に、クラウスと交わした『雇用契約書』だった。

「あら。契約期間、来月で満了じゃない」

当初の契約は『試用期間』を含めて半年ごとの更新となっていた。

激務に追われてすっかり忘れていたが、更新時期が迫っていたのだ。

「危ない、危ない。契約切れでタダ働きなんてことになったら、労働基準法の敗北よ」

ルーアは契約書を持って立ち上がり、ソファで優雅にワインを飲んでいるクラウスの元へ歩み寄った。

「閣下。少しよろしいでしょうか」

「なんだ? もう業務時間は過ぎているぞ。プライベートな誘いなら歓迎だが」

クラウスは上機嫌でグラスを揺らしている。

ルーアは事務的に契約書をテーブルに置いた。

「残念ながら業務連絡です。こちらの雇用契約について、更新の協議を申し込みます」

「更新?」

「はい。来月で期間満了となります。つきましては、次期契約の条件交渉を……」

ルーアが言いかけた時、クラウスがスッと手を挙げた。

「不要だ」

「……はい?」

「その契約書は更新しない」

クラウスは契約書を手に取ると、なんとその場で氷漬けにし、パリンと粉々に砕いてしまった。

キラキラと舞い散る氷の結晶。

ルーアは呆然と口を開けた。

「……な、何をするんですか! 原本ですよ!? これがないと、私は明日から無職……いえ、不法占拠者になってしまいます!」

「落ち着け。更新しないと言っただけだ。……『新規契約』を結ぶと言っている」

クラウスは懐から、あらかじめ用意していたらしい、分厚い羊皮紙の束を取り出した。

ドサッ。

重厚な音がする。

表紙には金色の文字で、何やら仰々しいタイトルが書かれていた。

「……『永久独占パートナーシップ契約書(案)』?」

ルーアが読み上げると、クラウスは真剣な眼差しで頷いた。

「そうだ。これまでの半年更新のような不安定な契約ではない。期間の定めのない、恒久的な契約だ」

「はあ……いわゆる正社員登用ですね。福利厚生は?」

「手厚いぞ。だが、条件が少し変わる」

クラウスはページをめくり、ルーアに見せた。

「第1条。契約期間は『乙(ルーア)の心臓が停止するまで』とする」

「……重いですね。終身雇用ですか」

「第2条。乙の勤務地は『甲(クラウス)の半径三メートル以内』を基本とする」

「狭すぎます。トイレにも行けません」

「第3条。乙は、甲以外の男性に対し、業務上の必要最低限の会話を除き、笑顔を見せてはならない。特に『上目遣い』と『計算機を撫でる時の顔』は禁止とする」

「……あの、これは労働契約書ですか? それとも奴隷契約書ですか?」

ルーアは呆れてジト目になった。

「職権乱用も甚だしいです。こんな拘束力の強い契約、労働組合が黙っていませんよ」

「まだ続きがある」

クラウスは、一番最後のページを開いた。

そこには、『報酬』の欄があった。

「第100条。本契約の対価として、甲は乙に対し、『ドラグーン公爵家の全資産の共同管理権』および『クラウス・フォン・ドラグーンの人生全て』を譲渡する」

「…………はい?」

ルーアの思考回路が停止した。

全資産の共同管理権?

人生の譲渡?

それはつまり、会計上の用語で言うところの……。

「……合併(M&A)?」

「違う。……結婚だ」

クラウスは立ち上がり、ルーアの目の前に立った。

そして、いつになく緊張した面持ちで、彼女の手を取った。

「ルーア。私はもう、君なしでは生きられない。仕事のパートナーとしてだけではない。人生のパートナーとして、君が欲しい」

その瞳は、真剣そのものだった。

いつもの俺様な態度はどこへやら、拒絶されるのを恐れるような、縋るような色が浮かんでいる。

「君は計算高い女だ。損得勘定で動く。……だから、私も計算した」

クラウスは早口で続けた。

「私と結婚すれば、君は一生、大好きな数字と金に囲まれて暮らせる。私の領地は広大で、計算しがいのある課題が山積みだ。君の知的好奇心を一生満たし続けられる自信がある」

「……プレゼンですね」

「そうだ。そして、私は君の邪魔をしない。君が仕事をしたいなら、全力でサポートする。君が眠りたいなら、誰よりも静かな環境を用意する。……君にとって、私は『最高優良物件』のはずだ」

クラウスはルーアの手を握り締めた。

「どうだ、ルーア。……私という物件を、契約してくれないか?」

プロポーズ。

それも、ルーアという人間に合わせた、世界一理屈っぽくて、世界一不器用で、そして世界一誠実なプロポーズだった。

ルーアは瞬きをした。

胸の奥が、カッと熱くなる。

計算機を叩いても、弾き出せない感情。

損得勘定? 効率?

そんなものは、とっくに崩壊していた。

(……ズルいわ、この人)

こんな風に言われて、断れるわけがない。

ルーアは俯き、震える声で言った。

「……査定に入ります」

「え?」

「物件の査定です。……外見、Sランク。資産価値、SSランク。耐久性、測定不能」

ルーアは顔を上げ、涙ぐんだ目でニッコリと笑った。

「ただし、『性格』に難あり。独占欲が強すぎ、浪費癖があり、すぐに部屋を凍らせる。……メンテナンスには多大な労力を要します」

「うっ……努力する」

「ですが」

ルーアはクラウスの手を握り返した。

「将来性(ポテンシャル)は無限大です。投資する価値は、十分にあると判断しました」

「……ということは」

「契約、成立です」

ルーアが告げた瞬間。

クラウスの表情が、一気に華やいだ。

彼はルーアを力強く引き寄せ、抱きしめた。

「っ……! ありがとう、ルーア……!」

「く、苦しいです閣下……! 契約初日から労働災害ですか……!」

「愛している。誰よりも、何よりも」

「……はい。私も、計算できないくらい、お慕いしております」

ルーアはクラウスの背中に手を回し、そっと目を閉じた。

温かい。

氷の公爵なのに、こんなにも温かい。

「さて、契約が成立したなら、早速手続きだ」

クラウスはルーアを離すと、ウキウキとした様子で言った。

「結婚式の準備だ。来週には挙行するぞ」

「はあ!? 来週!? 無理です、準備期間が足りません!」

「金ならある! 人を雇え! 国中の花を集めろ!」

「そういう問題じゃありません! 招待状の発送、席次表の作成、料理の選定……ガントチャートを作成しないと!」

「そんなものは君なら一日で出来るだろう?」

「過大評価です! ……あ、ちょっと待ってください」

ルーアは我に返り、先ほどの『永久契約書』を取り上げた。

「サインする前に、条項の修正が必要です」

「なんだ? 不満か?」

「第50条『家事分担』について記載がありません。私は公務で忙しいので、家事はアウトソーシング(外注)か、分担制にします」

「……私が皿洗いをするのか?」

「当然です。公爵の手料理、期待していますよ?」

「……わかった。料理スキルも習得しよう」

「それと、第60条『休日』。週休二日は絶対死守です。たとえ世界が滅びそうでも、休日は働きません」

「……善処する」

二人は深夜の執務室で、額を突き合わせて『結婚契約書』の推敲を始めた。

「ここの『誓いのキス』は『一日一回』でいいですか?」

「少ない。『一日最低十回、および随時』だ」

「唇が荒れます。却下」

「ならリップクリームを経費で購入しろ」

「……採用」

甘いのか、事務的なのか分からない会話が続く。

しかし、その時間は、二人にとって何よりも幸せな『共同作業』だった。

夜明けが近づく頃。

世界一分厚く、世界一細かい条件が記された、二人だけの『結婚契約書』が完成した。

「……よし。これで完璧だ」

「ええ。穴はありません。法的に最強の愛の証です」

二人は最後に、契約書の末尾にサインをした。

『甲:クラウス・フォン・ドラグーン』
『乙:ルーア・バーンスタイン』

ペンを置いた瞬間、二人は顔を見合わせ、自然と笑い合った。

「……よろしく頼むよ、奥様」

「こちらこそ、旦那様」

そして、二人は初めて、契約書に明記された『誓いのキス(第一回目)』を交わした。

窓の外では、朝日が昇り始めていた。

それは、悪役令嬢と呼ばれた女と、氷の公爵と呼ばれた男の、新しい人生の夜明けだった。

しかし。

この幸せな契約締結の直後、最後の試練が訪れる。

「結婚式」という名の、一大プロジェクト。

そして、そこに介入しようとする「ミナ」の最後の悪あがき(という名の自爆特攻)が、密かに進行していたのである。
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