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「リュカ様、お久しぶりですわ。……いえ、『地獄の淵』で再会した気分ですわね」
王宮、謁見の間。
黄金の装飾が施された高い扉が左右に開くと、私は一歩、また一歩と、執念深い幽霊のような足取りで絨毯を踏みしめた。
周囲の近衛兵たちが、私の泥だらけのドレスを見て、一様に「……うわぁ」という顔で後ずさる。
いいわ、その怯え。それこそが、今の私にふさわしい供物ですわ。
「な、ナタリー……!? 君、昨日の今日で、さらにひどい格好になっているじゃないか!」
玉座の近くにいたリュカ様が、椅子から半分立ち上がって叫んだ。
その隣では、ミエル様がハンカチを口に当てて、小刻みに震えている。
「ひどい……? 失礼な。これは今の私の『心のドレス』ですのよ。引き裂かれた恋の破片が、この泥の一つ一つに詰まっていますの」
「……ナタリー様、お顔が真っ黒です。……それは、お化粧なのですか?」
ミエル様が震える声で尋ねる。
私はフッと、自嘲気味に笑ってみせた。
「これはお化粧ではありません。私が昨夜、自分の墓を掘っていた時に浴びた、『絶望という名の泥』ですわ。……リュカ様、あなたにお返しした数々の品……。その中に、私の『魂の一部』が足りないことに気づきましたの」
「魂の一部……? 何を言っているんだ。君から預かったものは、すべて返したはずだぞ」
リュカ様が苛立たしげに手を振った。
その時、私の背後で控えていたセドリック様が、無機質な声で割って入った。
「失礼します、殿下。ナタリー嬢が申しておりますのは、ゴールドマン家家宝『碧眼の涙』のことです。中間報告書によれば、そちらからの返還リストに含まれておりません」
「ああ、あの青いブローチか。……あんなもの、もう私の手元にはないぞ」
「……ない? それはどういう意味ですかしら、リュカ様」
私は一歩詰め寄った。
泥がポタリと絨毯に落ちる。セドリック様がそれを見て、わずかに眉をひそめた。
「……昨日、ミエルが『この宝石、なんだか美味しそうですね』と言ったので、記念に差し上げたのだ。愛し合う我々に、古い婚約者の思い出など不要だろう?」
「美味しそう……!? 家宝を、食べ物扱いされましたの!?」
私は衝撃のあまり、その場に膝をついた。
……ドラマチック! なんてドラマチックな展開!
家宝を新しい愛人に「おやつ」のように与えるなんて、これ以上の悲劇がありますかしら!?
「ああ……! お父様、お母様、ご先祖様! 『碧眼の涙』は今、ミエル様の胃袋という名の暗黒大陸へ旅立とうとしていますわ……!」
「食べてません! 食べてませんから! あ、あちらの棚に飾ってあります!」
ミエル様が慌てて部屋の隅の飾り棚を指差した。
そこには、無造作に置かれた青いブローチが、誇り高く、しかしどこか寂しげに光っていた。
「……セドリック様。見て。あの方が、私を呼んでいますわ。……『ナタリー、この女の味は砂糖菓子みたいで退屈だよ』って、泣いていますわ……!」
「……ブローチは喋らない。……おい、ナタリー、立て。早く回収して帰るぞ」
セドリック様が私の襟首を掴んで、無理やり立ち上がらせる。
「待て、セドリック! 一度私がミエルに与えたものだ。それを返すというなら、相応の理由が必要だろう!」
リュカ様が立ちふさがった。
私はその瞬間、憑依したかのように、瞳に涙を溜めて彼を見つめた。
「理由……? 理由をお望みですのね。……いいでしょう。このブローチがないと、私は明日から『絶望のあまり、王宮の門前で毎日呪いの歌を歌い続けること』になるからですわ!」
「……呪いの歌!?」
「朝の四時から、リュカ様の初恋の失敗談や、実は寝相が悪くてシーツを噛んでいることなどを、朗々と、絶叫気味に歌い上げますの。……それが、私の立ち直れない心が生み出す、唯一の救いなんですわよ……!」
「や、やめろ! そんなことをされたら、私の威厳が丸潰れだ!」
リュカ様の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「威厳なんて、私の家宝に比べれば、キャビアに添えられたパセリのようなものですわ! ……さあ、選んで。ブローチを返して私の呪いを解くか、それとも毎朝私の『悲しみのテノール』を聞くか!」
「……返せ! 今すぐ返してやる! セドリック、そいつを今すぐ連れて帰れ! 二度と、二度と私の前に出すな!」
リュカ様は震える手で飾り棚からブローチを掴み取ると、汚いものを見るような目で私に投げつけた。
私はそれを、布でぐるぐる巻きにした手で、見事にキャッチした。
「……ふふ。……ふふふふふ。……戻ってきましたわね、私の魂」
私はブローチを愛おしそうに頬に寄せた。
顔の泥がブローチにべったりと付着したが、そんなことはどうでもいい。
「……満足か、悲劇のヒロイン。……殿下、お騒がせいたしました。失礼します」
セドリック様は、私を小脇に抱えると、早歩きで謁見の間を後にした。
背後で「……あいつ、本当にナタリーなのか……?」と困惑する王子の声が聞こえた。
王宮を出て馬車に乗り込んだ瞬間、私はブローチを掲げて、ガッツポーズを取った。
「やりましたわ! セドリック様! これで今月の小遣い停止処分は、撤回になりますわよね!?」
「……。……お前、さっきの涙はどこへ行った」
セドリック様は、ハンカチで私の顔の泥を乱暴に拭いながら、呆れ果てたように呟いた。
「涙は、節約するものですわ。……ああ、お腹が空きました。セドリック様、帰りに美味しいキャビアを買ってくださいまし。泥の味ではなく、本物のキャビアの味を、私の傷ついた舌に思い出させてあげたいの」
「……。……マドレーヌで我慢しろ」
こうして私は、一握りの「魂(資産)」を奪還し、華麗なる(?)復活への第一歩を踏み出したのである。
……まあ、まだ「立ち直れない」設定は継続中ですけれど。
王宮、謁見の間。
黄金の装飾が施された高い扉が左右に開くと、私は一歩、また一歩と、執念深い幽霊のような足取りで絨毯を踏みしめた。
周囲の近衛兵たちが、私の泥だらけのドレスを見て、一様に「……うわぁ」という顔で後ずさる。
いいわ、その怯え。それこそが、今の私にふさわしい供物ですわ。
「な、ナタリー……!? 君、昨日の今日で、さらにひどい格好になっているじゃないか!」
玉座の近くにいたリュカ様が、椅子から半分立ち上がって叫んだ。
その隣では、ミエル様がハンカチを口に当てて、小刻みに震えている。
「ひどい……? 失礼な。これは今の私の『心のドレス』ですのよ。引き裂かれた恋の破片が、この泥の一つ一つに詰まっていますの」
「……ナタリー様、お顔が真っ黒です。……それは、お化粧なのですか?」
ミエル様が震える声で尋ねる。
私はフッと、自嘲気味に笑ってみせた。
「これはお化粧ではありません。私が昨夜、自分の墓を掘っていた時に浴びた、『絶望という名の泥』ですわ。……リュカ様、あなたにお返しした数々の品……。その中に、私の『魂の一部』が足りないことに気づきましたの」
「魂の一部……? 何を言っているんだ。君から預かったものは、すべて返したはずだぞ」
リュカ様が苛立たしげに手を振った。
その時、私の背後で控えていたセドリック様が、無機質な声で割って入った。
「失礼します、殿下。ナタリー嬢が申しておりますのは、ゴールドマン家家宝『碧眼の涙』のことです。中間報告書によれば、そちらからの返還リストに含まれておりません」
「ああ、あの青いブローチか。……あんなもの、もう私の手元にはないぞ」
「……ない? それはどういう意味ですかしら、リュカ様」
私は一歩詰め寄った。
泥がポタリと絨毯に落ちる。セドリック様がそれを見て、わずかに眉をひそめた。
「……昨日、ミエルが『この宝石、なんだか美味しそうですね』と言ったので、記念に差し上げたのだ。愛し合う我々に、古い婚約者の思い出など不要だろう?」
「美味しそう……!? 家宝を、食べ物扱いされましたの!?」
私は衝撃のあまり、その場に膝をついた。
……ドラマチック! なんてドラマチックな展開!
家宝を新しい愛人に「おやつ」のように与えるなんて、これ以上の悲劇がありますかしら!?
「ああ……! お父様、お母様、ご先祖様! 『碧眼の涙』は今、ミエル様の胃袋という名の暗黒大陸へ旅立とうとしていますわ……!」
「食べてません! 食べてませんから! あ、あちらの棚に飾ってあります!」
ミエル様が慌てて部屋の隅の飾り棚を指差した。
そこには、無造作に置かれた青いブローチが、誇り高く、しかしどこか寂しげに光っていた。
「……セドリック様。見て。あの方が、私を呼んでいますわ。……『ナタリー、この女の味は砂糖菓子みたいで退屈だよ』って、泣いていますわ……!」
「……ブローチは喋らない。……おい、ナタリー、立て。早く回収して帰るぞ」
セドリック様が私の襟首を掴んで、無理やり立ち上がらせる。
「待て、セドリック! 一度私がミエルに与えたものだ。それを返すというなら、相応の理由が必要だろう!」
リュカ様が立ちふさがった。
私はその瞬間、憑依したかのように、瞳に涙を溜めて彼を見つめた。
「理由……? 理由をお望みですのね。……いいでしょう。このブローチがないと、私は明日から『絶望のあまり、王宮の門前で毎日呪いの歌を歌い続けること』になるからですわ!」
「……呪いの歌!?」
「朝の四時から、リュカ様の初恋の失敗談や、実は寝相が悪くてシーツを噛んでいることなどを、朗々と、絶叫気味に歌い上げますの。……それが、私の立ち直れない心が生み出す、唯一の救いなんですわよ……!」
「や、やめろ! そんなことをされたら、私の威厳が丸潰れだ!」
リュカ様の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「威厳なんて、私の家宝に比べれば、キャビアに添えられたパセリのようなものですわ! ……さあ、選んで。ブローチを返して私の呪いを解くか、それとも毎朝私の『悲しみのテノール』を聞くか!」
「……返せ! 今すぐ返してやる! セドリック、そいつを今すぐ連れて帰れ! 二度と、二度と私の前に出すな!」
リュカ様は震える手で飾り棚からブローチを掴み取ると、汚いものを見るような目で私に投げつけた。
私はそれを、布でぐるぐる巻きにした手で、見事にキャッチした。
「……ふふ。……ふふふふふ。……戻ってきましたわね、私の魂」
私はブローチを愛おしそうに頬に寄せた。
顔の泥がブローチにべったりと付着したが、そんなことはどうでもいい。
「……満足か、悲劇のヒロイン。……殿下、お騒がせいたしました。失礼します」
セドリック様は、私を小脇に抱えると、早歩きで謁見の間を後にした。
背後で「……あいつ、本当にナタリーなのか……?」と困惑する王子の声が聞こえた。
王宮を出て馬車に乗り込んだ瞬間、私はブローチを掲げて、ガッツポーズを取った。
「やりましたわ! セドリック様! これで今月の小遣い停止処分は、撤回になりますわよね!?」
「……。……お前、さっきの涙はどこへ行った」
セドリック様は、ハンカチで私の顔の泥を乱暴に拭いながら、呆れ果てたように呟いた。
「涙は、節約するものですわ。……ああ、お腹が空きました。セドリック様、帰りに美味しいキャビアを買ってくださいまし。泥の味ではなく、本物のキャビアの味を、私の傷ついた舌に思い出させてあげたいの」
「……。……マドレーヌで我慢しろ」
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……まあ、まだ「立ち直れない」設定は継続中ですけれど。
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