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近衛騎士団長の執務室。
そこは、鉄と革の匂いが漂う、いかにも質実剛健な空間でした。
「どうぞ、座ってくれ。今、部下に茶を淹れさせよう」
「ジークフルト様。お言葉ですが、茶を淹れる工程に五分、それを飲むのに十分……計十五分の損失です。その間に私は、この乱雑に積まれた書類の山を、少なくとも三束は処理できますわ」
私は椅子に座る間もなく、机の上に鎮座する「書類の山」に鋭い視線を送りました。
それは、整理整頓という言葉を知らない人間が積み上げた、まさに知性の墓場です。
「……ベルベット様、少しは落ち着いてはどうだ。先ほど婚約破棄されたばかりだろう?」
「殿下との婚約は、私にとって『重すぎる不良債権』でした。それが損切りできたのですから、今はむしろ心身ともに軽量化され、処理能力が向上しております」
私は手袋を脱ぎ捨て、一番上にあった分厚い帳簿を手に取りました。
パラパラと数ページめくるだけで、私の脳内にある演算回路が警報を鳴らします。
「……ひどいですわね。この騎士団の備品購入履歴、計算が小学生レベルです。いえ、算数のできる猫の方がまだマシかもしれません」
「猫に負けるとは、我が団の文官も形無しだな。……具体的にどこが怪しい?」
「三ページ目、訓練用木剣の単価が、先月より二割高騰しています。しかし、同時期の木材市場の価格推移は安定していました。つまり、この差額の二割は、業者の懐か、あるいは承認印を押した人間のポケットに消えていますわ」
私は流れるような動作で、羽根ペンを手に取りました。
余白に、本来あるべき適正価格と、そこから算出される「返還請求額」を猛スピードで書き込んでいきます。
「なるほど……。ベルベット様、貴女は数字を見るだけで、その背後にある悪意まで見えるのか」
「悪意ではありません。ただの『非効率なバグ』です。バグを見つけたら消去する。それが知的生命体の義務というものでしょう?」
そこへ、騎士団の若い部下が、おずおずとお茶のトレイを持って入ってきました。
彼は私と目が合うなり、蛇に睨まれた蛙のように硬直しました。
「あ、あの! 団長! 例の、例の『氷の公爵令嬢』がなぜここに……! あ、いえ、ベルベット様! お茶をどうぞ!」
「……三秒で置いて退出してください。貴方のその震えでカップが揺れ、波紋が生じるのを見る時間は、私の人生において必要ありません」
「ひぃっ! 失礼しました!」
脱兎のごとく逃げ出していく騎士。
私は溜息をつき、一口だけ茶を啜りました。
……悔しいことに、最高級の茶葉だと言ったのは嘘ではなかったようで、脳に糖分が回るのを感じます。
「それで、ジークフルト様。先ほどの約束……『王宮の図書室の整理権』を、正式に慰謝料の第一項目として計上させていただきますわ」
「図書室か。あそこはもはや、整理というよりは『樹海』に近い状態だぞ? 十年前の予算案と、昨日の献立表が同じ棚に眠っているような場所だ」
「素晴らしい。カオスであればあるほど、秩序(システム)を構築する甲斐があるというものです」
私は立ち上がり、ジークフルト様の目を真っ直ぐに見つめました。
彼は驚いたように、少しだけ頬を染めた……ような気がしましたが、照明の加減でしょう。
「私は、この国の『おバカ』をすべて論破し、最適化したいのです。ライオネル殿下のような、感情だけで動く非合理な存在が二度と現れないように」
「それは、王家に対する宣戦布告に近いぞ、ベルベット様」
「いいえ。これは『メンテナンス』です。老朽化した橋を補修するように、私はこの国のシステムを組み直します。……まずは、あのゴミ溜め……失礼、王立図書室から始めましょう」
「……分かった。明日、陛下に直接、貴女の『図書室長』への就任を打診しよう。もちろん、誰にも文句は言わせない。私が貴女の盾になろう」
「盾、ですか。物理的な防御力よりも、予算を通すための説得力が欲しいところですが……まあ、貴方のその筋肉質な体格は、威圧感という意味での交渉力にはなりそうですわね」
「……褒め言葉として受け取っておく」
ジークフルト様は苦笑しながら、私のために執務室のドアを開けました。
エスコートされる私の脳内では、すでに図書室の全棚を分類するための、新しい十進分類法のアルゴリズムが組み上がっていました。
(待っていなさい、王国の知識の殿堂。明日から、貴女たちを完璧な数列に変えて差し上げますわ)
夜風を浴びながら、私は確信していました。
恋だの愛だのという予測不能な変数に振り回されるより、整然と並ぶ数字と事実の世界こそが、私の居場所なのだと。
「ベルベット様、一つ聞いてもいいか」
「なんですの? 十秒以内でお願いします」
「……いや、なんでもない。ただ、貴女が今、とても楽しそうに見えたものでな」
「……気のせいですわ。私はただ、効率的な作業を想像して、脳内麻薬が分泌されているだけですから」
私は素っ気なく答え、馬車へと乗り込みました。
婚約破棄からわずか数時間。
私の「悪役令嬢としての第二の人生」は、どの国家予算の推移よりも、右肩上がりの勢いで加速し始めていたのです。
そこは、鉄と革の匂いが漂う、いかにも質実剛健な空間でした。
「どうぞ、座ってくれ。今、部下に茶を淹れさせよう」
「ジークフルト様。お言葉ですが、茶を淹れる工程に五分、それを飲むのに十分……計十五分の損失です。その間に私は、この乱雑に積まれた書類の山を、少なくとも三束は処理できますわ」
私は椅子に座る間もなく、机の上に鎮座する「書類の山」に鋭い視線を送りました。
それは、整理整頓という言葉を知らない人間が積み上げた、まさに知性の墓場です。
「……ベルベット様、少しは落ち着いてはどうだ。先ほど婚約破棄されたばかりだろう?」
「殿下との婚約は、私にとって『重すぎる不良債権』でした。それが損切りできたのですから、今はむしろ心身ともに軽量化され、処理能力が向上しております」
私は手袋を脱ぎ捨て、一番上にあった分厚い帳簿を手に取りました。
パラパラと数ページめくるだけで、私の脳内にある演算回路が警報を鳴らします。
「……ひどいですわね。この騎士団の備品購入履歴、計算が小学生レベルです。いえ、算数のできる猫の方がまだマシかもしれません」
「猫に負けるとは、我が団の文官も形無しだな。……具体的にどこが怪しい?」
「三ページ目、訓練用木剣の単価が、先月より二割高騰しています。しかし、同時期の木材市場の価格推移は安定していました。つまり、この差額の二割は、業者の懐か、あるいは承認印を押した人間のポケットに消えていますわ」
私は流れるような動作で、羽根ペンを手に取りました。
余白に、本来あるべき適正価格と、そこから算出される「返還請求額」を猛スピードで書き込んでいきます。
「なるほど……。ベルベット様、貴女は数字を見るだけで、その背後にある悪意まで見えるのか」
「悪意ではありません。ただの『非効率なバグ』です。バグを見つけたら消去する。それが知的生命体の義務というものでしょう?」
そこへ、騎士団の若い部下が、おずおずとお茶のトレイを持って入ってきました。
彼は私と目が合うなり、蛇に睨まれた蛙のように硬直しました。
「あ、あの! 団長! 例の、例の『氷の公爵令嬢』がなぜここに……! あ、いえ、ベルベット様! お茶をどうぞ!」
「……三秒で置いて退出してください。貴方のその震えでカップが揺れ、波紋が生じるのを見る時間は、私の人生において必要ありません」
「ひぃっ! 失礼しました!」
脱兎のごとく逃げ出していく騎士。
私は溜息をつき、一口だけ茶を啜りました。
……悔しいことに、最高級の茶葉だと言ったのは嘘ではなかったようで、脳に糖分が回るのを感じます。
「それで、ジークフルト様。先ほどの約束……『王宮の図書室の整理権』を、正式に慰謝料の第一項目として計上させていただきますわ」
「図書室か。あそこはもはや、整理というよりは『樹海』に近い状態だぞ? 十年前の予算案と、昨日の献立表が同じ棚に眠っているような場所だ」
「素晴らしい。カオスであればあるほど、秩序(システム)を構築する甲斐があるというものです」
私は立ち上がり、ジークフルト様の目を真っ直ぐに見つめました。
彼は驚いたように、少しだけ頬を染めた……ような気がしましたが、照明の加減でしょう。
「私は、この国の『おバカ』をすべて論破し、最適化したいのです。ライオネル殿下のような、感情だけで動く非合理な存在が二度と現れないように」
「それは、王家に対する宣戦布告に近いぞ、ベルベット様」
「いいえ。これは『メンテナンス』です。老朽化した橋を補修するように、私はこの国のシステムを組み直します。……まずは、あのゴミ溜め……失礼、王立図書室から始めましょう」
「……分かった。明日、陛下に直接、貴女の『図書室長』への就任を打診しよう。もちろん、誰にも文句は言わせない。私が貴女の盾になろう」
「盾、ですか。物理的な防御力よりも、予算を通すための説得力が欲しいところですが……まあ、貴方のその筋肉質な体格は、威圧感という意味での交渉力にはなりそうですわね」
「……褒め言葉として受け取っておく」
ジークフルト様は苦笑しながら、私のために執務室のドアを開けました。
エスコートされる私の脳内では、すでに図書室の全棚を分類するための、新しい十進分類法のアルゴリズムが組み上がっていました。
(待っていなさい、王国の知識の殿堂。明日から、貴女たちを完璧な数列に変えて差し上げますわ)
夜風を浴びながら、私は確信していました。
恋だの愛だのという予測不能な変数に振り回されるより、整然と並ぶ数字と事実の世界こそが、私の居場所なのだと。
「ベルベット様、一つ聞いてもいいか」
「なんですの? 十秒以内でお願いします」
「……いや、なんでもない。ただ、貴女が今、とても楽しそうに見えたものでな」
「……気のせいですわ。私はただ、効率的な作業を想像して、脳内麻薬が分泌されているだけですから」
私は素っ気なく答え、馬車へと乗り込みました。
婚約破棄からわずか数時間。
私の「悪役令嬢としての第二の人生」は、どの国家予算の推移よりも、右肩上がりの勢いで加速し始めていたのです。
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