誘拐されて、悪役令嬢として断罪されているよです!

ハチワレ

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「……あら? あちらの馬車、なんだかすごく香ばしくて甘い匂いがするわ」

公爵令嬢マーシャ・ランドールは、全寮制の学園へと向かう馬車列の影で、ぴたりと足を止めた。

今日は待ちに待った王立学園の入学式である。
本来ならば、実家が用意した「ランドール公爵家」の家紋が入った重厚な馬車に乗るべきなのだが。

「……くんくん。これは……発酵バター。それも最高級のやつね。それに、わずかに混じるのは焦がしキャラメルの芳香……。間違いないわ、幻の菓子職人ボナールの新作タルトだわ!」

マーシャの鼻は、並外れていた。
美味しいもの、特に甘いものに関しては、数キロ先のオーブンの予熱すら嗅ぎ分けると言われている。

目の前に停まっているのは、飾り気のない、しかし作りは非常に頑丈そうな黒塗りの馬車だ。
本来、新入生が乗るべき華やかな馬車列からは少し離れた場所に、ひっそりと置かれている。

「私の馬車、お父様が張り切りすぎて座席が硬いのよね。それに比べて、あっちの馬車はクッションも良さそう……。何より、タルトの誘惑には勝てないわ」

マーシャは周囲を見渡した。
護衛の騎士たちは、出発前の点検や他の令嬢たちの荷物運びで慌ただしくしている。

「ちょっと失礼して、味見だけ。そう、味見だけよ」

マーシャは持ち前の身軽さで、ドレスの裾をひょいと持ち上げると、無人と思われる黒塗りの馬車に滑り込んだ。

「失礼します……って、わあ! やっぱり!」

馬車の中には、小さな銀のトレイに乗せられた黄金色のタルトが鎮座していた。
サイドテーブルには、まだ湯気の立っているアールグレイまで備え付けられている。

「なんて至れり尽くせりなの。学園の特別室へ向かう方の馬車かしら? それなら、同じ新入生として少しご相伴に預かっても罰は当たらないわよね」

マーシャは自分に都合の良い解釈を瞬時に下すと、ふかふかの座席に深く腰を下ろした。

「いただきます!」

サクッ、という小気味良い音が車内に響く。
口の中に広がるのは、濃厚なカスタードと、甘酸っぱい季節の果実。そして、計算し尽くされたタルト生地の塩気。

「幸せ……。これなら学園までの三時間の道のりも、天国だわ……」

マーシャが二個目のタルトに手を伸ばそうとした、その時だった。

「――よし、野郎ども! 予定通りだ、出せ!」

低い男の声が外から響き、馬車がガタリと大きく揺れた。

「あら? もう出発かしら。随分と威勢の良い御者さんね」

マーシャは口の周りにパイ生地をつけたまま、のんびりと窓の外を眺めた。
馬車は学園へ続く穏やかな並木道ではなく、なぜか裏手の険しい森へと向かって猛スピードで加速していく。

「……あらあら? あっちの道、工事中だったかしら?」

その時、御者台とは別の場所から、男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。

「おい! 追手は来ているか!?」

「へっ、公爵家の騎士どもは、空の馬車を必死に守ってやがりますよ!」

「計画通りだ! このまま国境を抜けるぞ。この馬車には『重要なお宝』が載っているんだからな!」

マーシャは、タルトを口に運ぶ手を止めた。

「…………重要なお宝?」

彼女は馬車の中を、キョロキョロと見回した。
自分以外には、食べかけのタルトと、冷めかけた紅茶、そして自分の脱ぎ捨てた手袋くらいしかない。

「お宝……ああ、このボナールのタルトのことね! 確かにこれは国宝級の美味しさだわ。誘拐犯の人たちも、なかなか味のわかる方々なのね」

マーシャは一人で納得し、うんうんと頷いた。

「でも、国境を抜けるなんて、ずいぶん遠出をするのね。これじゃあ入学式に遅れちゃうわ。……まあいいわ。あんな退屈な式典、出なくても死ぬわけじゃないし。それより、この紅茶のおかわりはないかしら」

彼女は座席の下の収納ボックスを勝手に開け始めた。
そこには予備の茶葉どころか、見たこともないような複雑な機構の魔導通信機や、物騒な短剣、そして大量の保存食が入っていた。

「……あら、これ。この干し肉、ただの干し肉じゃないわね。スパイスにクミンとコリアンダーを使っているわ。それに、このワイン漬けのドライフルーツ……なんて贅沢なの」

馬車が激しく上下に揺れ、食器がカチャカチャと音を立てる。
外では馬のいななきと、何かがぶつかり合う破壊音が聞こえてきた。

「止まれ! その馬車を止めろ!」

背後から追いかけてくる騎士たちの声。
しかし、マーシャの乗っている馬車は、まるで魔法がかかっているかのような速度で森を駆け抜けていく。

「なんだか、とっても賑やかね。お祭りかしら?」

マーシャは、収納ボックスから見つけた高級そうなクラッカーに、備え付けのレバーパテを塗りたくりながら呟いた。

「それにしても、この馬車のサスペンション、最高だわ。こんなに激しく動いているのに、パテが全然こぼれないんですもの」

その頃、馬車の外では死闘が繰り広げられていた。
覆面を被った屈強な男たちが、迫りくる追手を次々と振り落としていく。

「リーダー! 例の令嬢、中で震えてやがりませんかね?」

御者台に飛び乗った男が、横に座る鋭い眼光の青年に尋ねた。
青年――カイルは、忌々しそうに馬の手綱を捌きながら鼻で笑った。

「公爵家のお嬢様だぞ? 今頃、腰を抜かして泣き叫んでいるか、気絶でもしているだろう。……可哀想だが、これも作戦のためだ」

「へへっ、そりゃそうですね。俺たちがどれだけ恐ろしいか、思い知らせてやりますよ!」

カイルは背後の馬車を一瞥した。
中は静まり返っている。悲鳴一つ聞こえてこない。

(……静かすぎるな。恐怖で声も出ないのか?)

カイルはわずかに良心が痛んだが、すぐに首を振った。
彼らには退けない理由がある。この「人質」を使って、王国と取引をしなければならないのだ。

一方、その「人質」であるマーシャは。

「ふぅ……。お腹いっぱい。ちょっと眠くなってきちゃったわ」

彼女は、高価な絹のクッションを枕代わりにすると、丸くなって横になった。
馬車の揺れが、まるでゆりかごのように心地よい。

「……おやすみなさい。入学式は……まあ、明日でいいわよね……」

マーシャが深い眠りに落ちた直後、馬車は王国の国境を越えた。
歴史に残る「公爵令嬢失踪事件」の幕開けである。

しかし、マーシャが知る由もないことだが。
彼女がこうして呑気に誘拐されている間に、母国ではとんでもない陰謀が動き始めていた。

「――マーシャ・ランドールは、隣国の間諜と通じ、我が国の軍事機密を盗んで逃亡した!」

王立学園の講堂で、彼女の婚約者であるウィフレッド王太子が、高らかに宣言する。

「彼女は聖女リリアを毒殺しようとした、稀代の悪女である! よって、私はここに彼女との婚約破棄を宣言し、国家反逆罪として断罪する!」

主役不在の断罪劇。
マーシャを「悪役令嬢」に仕立て上げるための嘘が、真実として国中に広まっていく。

そんなこととは露知らず、マーシャは馬車の中で小さな寝息を立てていた。

「……むにゃ……次のデザートは……冷製スフレがいいわ……」

誘拐犯の首領カイルが、馬車を止めて扉を勢いよく開けたのは、その数分後のことだった。

「おい、人質! 生きてるか! ……って、なんだこれは!?」

カイルが目にしたのは、恐怖に震える令嬢の姿ではなかった。
山のように積み上げられたお菓子の空き箱と、パテで汚れた口元を幸せそうに緩めて爆睡している、一人の少女の姿だった。

「……こいつ、食うだけ食って寝てやがるのか!?」

カイルの叫びは、静かな夜の森に虚しく響き渡った。
これが、後に「帝国の胃袋」と呼ばれることになるマーシャと、不運な将軍カイルの出会いであった。
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