29 / 29
29
しおりを挟む
「……フッ。今日の玉ねぎは、なかなか手強い抵抗を見せるな」
バルカ帝国、皇太子妃専用厨房。
そこには、かつて「影の死神」と恐れられた元暗殺者、ハンスの姿があった。
彼の右手にあるのは暗殺用の短剣ではなく、マーシャから授かった「最高級モリブデン鋼の牛刀」。
ハンスは無表情のまま、玉ねぎの繊維を細胞単位で見極め、音速の速さで刻んでいく。
トトトトトトトトト……ッ!!
まな板の上には、機械で測ったかのように寸分の狂いもない、0.5ミリ角の微塵切りが積み上がっていた。
「……ハンスさん、相変わらず無駄に殺気立っていますわね。玉ねぎは敵ではなく、ソースの深みを生み出す協力者ですのよ?」
背後から呆れたような声をかけたのは、元王国の聖女、リリアである。
かつての清らかな法衣はどこへやら、今の彼女は「私は土と共に生きる」と書かれた前掛けを締め、手には泥付きのジャガイモを握りしめていた。
「リリアか。……お前こそ、そのジャガイモを愛おしそうに撫でるのはやめろ。傍から見れば、不気味な呪術師にしか見えんぞ」
「失礼ね! これは撫でているのではなく、対話しているのですわ。この子は少しデンプン質が足りないから、じっくり低温で蒸し上げてあげないと、最高のマッシュポテトにはなれないの」
リリアは神聖な祈りを捧げるような手つきで、ジャガイモの芽を「聖女の指先(物理)」で弾き飛ばした。
王国を追われ、マーシャに「再教育」された二人は、今や帝国の厨房を支える二大巨頭……もとい、美食の奴隷と化していた。
「……なあ、リリア。お前は、王国に戻りたいと思ったことはないのか?」
ハンスがふと、包丁を止めて尋ねた。
リリアは一瞬だけ遠くを見つめ、それから思い切り首を振った。
「まさか! あんな、隠し味に金平糖を入れるような味盲の王子がいる国なんて、こちらから願い下げですわ。……何より、ここにはマーシャ様がいるもの」
「……同感だ」
ハンスは再び包丁を動かし始めた。
「俺はかつて、人の息の根を止めることだけが自分の存在価値だと思っていた。だが、マーシャ様に『あなたの指先は、人を生かす黄金の千切りを作るためにあるのよ』と言われてから、世界が変わった」
「……あの方、たまにさらっと恐ろしいことを言いますわよね。私がジャガイモの芽取りをサボった時、『そんなに芽が惜しいなら、あなたの頭に植えて差し上げましょうか?』って微笑まれましたの。……あれは本気でしたわ」
二人は同時に、マーシャの笑顔を思い出して背筋を震わせた。
その時、厨房の扉が勢いよく開いた。
「皆様! 準備はよろしくて!? 今、カイル様が森で『幻の白イノシシ』を仕留めてくださいましたわ! 今すぐ解体して、特製の赤ワイン煮込みを作りますわよ!」
返り血ならぬ、イノシシの返り脂を少しだけ頬につけたマーシャが、興奮気味に飛び込んできた。
その後ろには、大きな獲物を担いで「また無茶を言う……」と苦笑いするカイルの姿もある。
「ハンスさん! 骨周りの肉を削ぎ落とすのは、あなたの超高速捌きが頼りですわ!」
「はっ! 細胞一つ残さず、完璧に分離させてみせましょう!」
「リリア様! 付け合わせのジャガイモは、あなたが昨日から『説教』していたあの自信作を使いなさいな!」
「お任せくださいませ! あの子たちは今、最高にホクホクしたがっていますわ!」
主人の号令一下、元暗殺者と元聖女は、かつてない機敏な動きで戦場(コンロ)へと向かった。
そこには、国家の陰謀も、ドロドロの断罪劇も存在しない。
ただ、「美味しいものを作りたい」という純粋で、かつ狂気的な情熱だけが、厨房の熱気と共に渦巻いていた。
「……ふふ。今日も私の厨房は、最高の布陣ですわね!」
マーシャの笑い声が、香ばしい肉の匂いと共に、バルカ帝国の空へと高く響き渡った。
バルカ帝国、皇太子妃専用厨房。
そこには、かつて「影の死神」と恐れられた元暗殺者、ハンスの姿があった。
彼の右手にあるのは暗殺用の短剣ではなく、マーシャから授かった「最高級モリブデン鋼の牛刀」。
ハンスは無表情のまま、玉ねぎの繊維を細胞単位で見極め、音速の速さで刻んでいく。
トトトトトトトトト……ッ!!
まな板の上には、機械で測ったかのように寸分の狂いもない、0.5ミリ角の微塵切りが積み上がっていた。
「……ハンスさん、相変わらず無駄に殺気立っていますわね。玉ねぎは敵ではなく、ソースの深みを生み出す協力者ですのよ?」
背後から呆れたような声をかけたのは、元王国の聖女、リリアである。
かつての清らかな法衣はどこへやら、今の彼女は「私は土と共に生きる」と書かれた前掛けを締め、手には泥付きのジャガイモを握りしめていた。
「リリアか。……お前こそ、そのジャガイモを愛おしそうに撫でるのはやめろ。傍から見れば、不気味な呪術師にしか見えんぞ」
「失礼ね! これは撫でているのではなく、対話しているのですわ。この子は少しデンプン質が足りないから、じっくり低温で蒸し上げてあげないと、最高のマッシュポテトにはなれないの」
リリアは神聖な祈りを捧げるような手つきで、ジャガイモの芽を「聖女の指先(物理)」で弾き飛ばした。
王国を追われ、マーシャに「再教育」された二人は、今や帝国の厨房を支える二大巨頭……もとい、美食の奴隷と化していた。
「……なあ、リリア。お前は、王国に戻りたいと思ったことはないのか?」
ハンスがふと、包丁を止めて尋ねた。
リリアは一瞬だけ遠くを見つめ、それから思い切り首を振った。
「まさか! あんな、隠し味に金平糖を入れるような味盲の王子がいる国なんて、こちらから願い下げですわ。……何より、ここにはマーシャ様がいるもの」
「……同感だ」
ハンスは再び包丁を動かし始めた。
「俺はかつて、人の息の根を止めることだけが自分の存在価値だと思っていた。だが、マーシャ様に『あなたの指先は、人を生かす黄金の千切りを作るためにあるのよ』と言われてから、世界が変わった」
「……あの方、たまにさらっと恐ろしいことを言いますわよね。私がジャガイモの芽取りをサボった時、『そんなに芽が惜しいなら、あなたの頭に植えて差し上げましょうか?』って微笑まれましたの。……あれは本気でしたわ」
二人は同時に、マーシャの笑顔を思い出して背筋を震わせた。
その時、厨房の扉が勢いよく開いた。
「皆様! 準備はよろしくて!? 今、カイル様が森で『幻の白イノシシ』を仕留めてくださいましたわ! 今すぐ解体して、特製の赤ワイン煮込みを作りますわよ!」
返り血ならぬ、イノシシの返り脂を少しだけ頬につけたマーシャが、興奮気味に飛び込んできた。
その後ろには、大きな獲物を担いで「また無茶を言う……」と苦笑いするカイルの姿もある。
「ハンスさん! 骨周りの肉を削ぎ落とすのは、あなたの超高速捌きが頼りですわ!」
「はっ! 細胞一つ残さず、完璧に分離させてみせましょう!」
「リリア様! 付け合わせのジャガイモは、あなたが昨日から『説教』していたあの自信作を使いなさいな!」
「お任せくださいませ! あの子たちは今、最高にホクホクしたがっていますわ!」
主人の号令一下、元暗殺者と元聖女は、かつてない機敏な動きで戦場(コンロ)へと向かった。
そこには、国家の陰謀も、ドロドロの断罪劇も存在しない。
ただ、「美味しいものを作りたい」という純粋で、かつ狂気的な情熱だけが、厨房の熱気と共に渦巻いていた。
「……ふふ。今日も私の厨房は、最高の布陣ですわね!」
マーシャの笑い声が、香ばしい肉の匂いと共に、バルカ帝国の空へと高く響き渡った。
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。
黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」
豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。
しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。
《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。
ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」
その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。
【完結】旦那様、わたくし家出します。
さくらもち
恋愛
とある王国のとある上級貴族家の新妻は政略結婚をして早半年。
溜まりに溜まった不満がついに爆破し、家出を決行するお話です。
名前無し設定で書いて完結させましたが、続き希望を沢山頂きましたので名前を付けて文章を少し治してあります。
名前無しの時に読まれた方は良かったら最初から読んで見てください。
登場人物のサイドストーリー集を描きましたのでそちらも良かったら読んでみてください( ˊᵕˋ*)
第二王子が10年後王弟殿下になってからのストーリーも別で公開中
〈完結〉【書籍化&コミカライズ】悪妃は余暇を楽しむ
ごろごろみかん。
恋愛
「こちら、離縁届です。私と、離縁してくださいませ、陛下」
ある日、悪妃と名高いクレメンティーナが夫に渡したのは、離縁届だった。彼女はにっこりと笑って言う。
「先日、あなた方の真実の愛を拝見させていただきまして……有難いことに目が覚めましたわ。ですので、王妃、やめさせていただこうかと」
何せ、あれだけ見せつけてくれたのである。ショックついでに前世の記憶を取り戻して、千年の恋も瞬間冷凍された。
都合のいい女は本日で卒業。
今後は、余暇を楽しむとしましょう。
吹っ切れた悪妃は身辺整理を終えると早々に城を出て行ってしまった。
【完結】転生したら悪役継母でした
入魚ひえん@発売中◆巻き戻り冤罪令嬢◆
恋愛
聖女を優先する夫に避けられていたアルージュ。
その夜、夫が初めて寝室にやってきて命じたのは「聖女の隠し子を匿え」という理不尽なものだった。
しかも隠し子は、夫と同じ髪の色。
絶望するアルージュはよろめいて鏡にぶつかり、前世に読んだウェブ小説の悪妻に転生していることを思い出す。
記憶を取り戻すと、七年間も苦しんだ夫への愛は綺麗さっぱり消えた。
夫に奪われていたもの、不正の事実を着々と精算していく。
◆愛されない悪妻が前世を思い出して転身したら、可愛い継子や最強の旦那様ができて、転生前の知識でスイーツやグルメ、家電を再現していく、異世界転生ファンタジー!◆
*旧題:転生したら悪妻でした
『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』
鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」
幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された
公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。
その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、
彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。
目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。
だが、中身は何ひとつ変わっていない。
にもかかわらず、
かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、
「やり直したい」とすり寄ってくる。
「見かけが変わっても、中身は同じです。
それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」
静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。
やがて彼女に興味を示したのは、
隣国ノルディアの王太子エドワルド。
彼が見ていたのは、美貌ではなく――
対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。
これは、
外見で価値を決められた令嬢が、
「選ばれる人生」をやめ、
自分の意思で未来を選び直す物語。
静かなざまぁと、
対等な関係から始まる大人の恋。
そして――
自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。
---
はじめまして、旦那様。離婚はいつになさいます?
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
「はじめてお目にかかります。……旦那様」
「……あぁ、君がアグリア、か」
「それで……、離縁はいつになさいます?」
領地の未来を守るため、同じく子爵家の次男で軍人のシオンと期間限定の契約婚をした貧乏貴族令嬢アグリア。
両家の顔合わせなし、婚礼なし、一切の付き合いもなし。それどころかシオン本人とすら一度も顔を合わせることなく結婚したアグリアだったが、長らく戦地へと行っていたシオンと初対面することになった。
帰ってきたその日、アグリアは約束通り離縁を申し出たのだが――。
形だけの結婚をしたはずのふたりは、愛で結ばれた本物の夫婦になれるのか。
★HOTランキング最高2位をいただきました! ありがとうございます!
※書き上げ済みなので完結保証。他サイトでも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる