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「……何ですの、この地獄絵図は」
翌朝、私が案内された城の執務室の惨状を見て、最初に口から出たのはそんな言葉でした。
机の上には整理されていない書類が雪崩を起こし、床には数年前のものと思われる領民からの嘆願書が埃を被っています。
窓際には、中身の干からびたインク瓶が墓標のように並んでいました。
「……あ、あるすたー様。これ、わざとやっていらっしゃいますの?」
「………………」
部屋の隅で、置物のように椅子に深く腰掛けていたアルスター様が、ビクッと肩を震わせました。
彼は相変わらずの「氷の死神」フェイスでこちらを睨んで……いえ、怯えて見つめています。
「…………いそが、しくて……」
「お黙りなさい。忙しいのではなく、単に優先順位がつけられず、人に頼むこともできず、抱え込んで自爆しただけでしょう? 見ていられませんわ」
私は腕まくりをすると(もちろん淑女としてギリギリの範囲で、ですわよ)、まずは入り口付近に溜まっていた書類の山を鷲掴みにしました。
「ボリス! 大きなゴミ箱と、新しいインク、それから私のために最高に濃いお茶を用意してちょうだい!」
「は、はい! ただいま!」
扉の外で待機していた老執事が、救世主でも見るような目で私を拝んでから走り去っていきました。
私が猛然と書類を仕分けし始めてから三十分。
執務室の扉が、おずおずと開きました。
「だ、旦那様……失礼いたします。昨月の騎士団の遠征費の承認をいただきたく……」
入ってきたのは、熊のような体格をした髭面の騎士でした。
彼はアルスター様の顔を見た瞬間、ヒッ、と短い悲鳴を上げてその場に直立不動になりました。
「………………」
アルスター様は、騎士に声をかけられてさらに緊張したのでしょう。
眉間に深いシワが刻まれ、瞳には鋭い光が宿ります。
傍から見れば、今にも大剣を抜いて騎士の首を跳ね飛ばしそうな殺気です。
「ひ、ひぃぃ……! も、申し訳ございません! まだ予算が足りなかったでしょうか、それとも書類の不備で……死罪だけはご勘弁を!」
「…………っ!」
アルスター様が何か言おうとして、口をパクパクさせました。
ですが、言葉が出てこない。
その沈黙が、騎士にとっては「死の宣告」を待つ時間に感じられたようです。
「……あの、よろしいかしら?」
私は二人の間に割って入ると、騎士が持っていた書類をひったくりました。
「な、なんだ貴様は!? 旦那様の前だぞ!」
「今日からこちらの事務全般を担当することになりました、ダリアですわ。騎士様、この書類……数字が三箇所も間違っていますわよ。それに、馬の飼料代が相場の二割も高い。どこの業者と契約していらっしゃいますの?」
「えっ……? あ、いや、それは……」
「やり直し。あと三十分以内に、正しい数字に書き直して持ってきなさい。それから、アルスター様は『死罪にする』とおっしゃっているのではなく、『緊張しすぎて喉の筋肉が固まっているだけ』ですので、安心してお下がりなさいな」
「………………な」
騎士は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、私とアルスター様を交互に見ました。
アルスター様は、消え入りそうな顔でコクリと頷きました。
「……な、なるほど……緊張、ですか……。し、失礼いたしました!」
嵐のように騎士が去っていくと、アルスター様はガタガタと崩れるように机に伏しました。
「…………み、みられた……なさ、けない……」
「いいえ。あなたは座っているだけで役に立ちましたわ。あなたの威圧感のおかげで、相手が一切の言い訳をせずに引き下がりましたもの。素晴らしい『魔王』の演技でしたわよ」
私は彼の背中をポン、と叩きました。
鋼のように硬い筋肉の感触に少し驚きましたが、すぐに手を離して書類に戻ります。
「……だりあ」
「なんですの? 手は動かしていませんけれど、口なら貸して差し上げますわ」
「……どうして、わかるんだ」
「何がですの?」
「……おれが、いいたいこと。……みんな、こわがって……にげるのに」
アルスター様が、机に顔を伏せたまま、ぼそりと呟きました。
その声には、少しだけ切ない響きが含まれているような気がしました。
私は羽ペンを動かす手を止めず、平然と答えました。
「私、王都で十年間、ジュリアン様という別の意味で言葉が通じない生き物の相手をして参りましたの。あの方は、自分の都合の良いことしか話さない。あなたは、相手を気遣いすぎて何も話せなくなる。……後者の方が、よほど翻訳しがいがありますわ」
「………………」
「それに」
私は顔を上げ、彼を真っ直ぐに見つめました。
「あなたの目は、嘘をついていませんもの。……不器用なだけの方を放っておくほど、私は性格が良くありませんのよ。さあ、次はこれです。隣領との水利権についての合意書。これ、完全に舐められていますわね。私が毒入りの返信を書いて差し上げますから、あなたは最後にハンコだけ押しなさいな」
「……あ、ああ。……わかった」
アルスター様が、おずおずと手を伸ばし、私が差し出した書類を受け取りました。
その時、指先が触れ合いました。
氷の死神という割には、彼の指は驚くほど熱を持っていたのを、私は気づかないふりをしました。
「ふふ、契約成立ですわね」
私は勝ち誇ったように笑い、山積みの書類へと再び挑みかかりました。
悪役令嬢と、引きこもりの死神。
この最凶のコンビが、辺境を、そしていずれは王国全体を揺るがすことになるなんて。
まだ誰も、予想だにしていないことでした。
翌朝、私が案内された城の執務室の惨状を見て、最初に口から出たのはそんな言葉でした。
机の上には整理されていない書類が雪崩を起こし、床には数年前のものと思われる領民からの嘆願書が埃を被っています。
窓際には、中身の干からびたインク瓶が墓標のように並んでいました。
「……あ、あるすたー様。これ、わざとやっていらっしゃいますの?」
「………………」
部屋の隅で、置物のように椅子に深く腰掛けていたアルスター様が、ビクッと肩を震わせました。
彼は相変わらずの「氷の死神」フェイスでこちらを睨んで……いえ、怯えて見つめています。
「…………いそが、しくて……」
「お黙りなさい。忙しいのではなく、単に優先順位がつけられず、人に頼むこともできず、抱え込んで自爆しただけでしょう? 見ていられませんわ」
私は腕まくりをすると(もちろん淑女としてギリギリの範囲で、ですわよ)、まずは入り口付近に溜まっていた書類の山を鷲掴みにしました。
「ボリス! 大きなゴミ箱と、新しいインク、それから私のために最高に濃いお茶を用意してちょうだい!」
「は、はい! ただいま!」
扉の外で待機していた老執事が、救世主でも見るような目で私を拝んでから走り去っていきました。
私が猛然と書類を仕分けし始めてから三十分。
執務室の扉が、おずおずと開きました。
「だ、旦那様……失礼いたします。昨月の騎士団の遠征費の承認をいただきたく……」
入ってきたのは、熊のような体格をした髭面の騎士でした。
彼はアルスター様の顔を見た瞬間、ヒッ、と短い悲鳴を上げてその場に直立不動になりました。
「………………」
アルスター様は、騎士に声をかけられてさらに緊張したのでしょう。
眉間に深いシワが刻まれ、瞳には鋭い光が宿ります。
傍から見れば、今にも大剣を抜いて騎士の首を跳ね飛ばしそうな殺気です。
「ひ、ひぃぃ……! も、申し訳ございません! まだ予算が足りなかったでしょうか、それとも書類の不備で……死罪だけはご勘弁を!」
「…………っ!」
アルスター様が何か言おうとして、口をパクパクさせました。
ですが、言葉が出てこない。
その沈黙が、騎士にとっては「死の宣告」を待つ時間に感じられたようです。
「……あの、よろしいかしら?」
私は二人の間に割って入ると、騎士が持っていた書類をひったくりました。
「な、なんだ貴様は!? 旦那様の前だぞ!」
「今日からこちらの事務全般を担当することになりました、ダリアですわ。騎士様、この書類……数字が三箇所も間違っていますわよ。それに、馬の飼料代が相場の二割も高い。どこの業者と契約していらっしゃいますの?」
「えっ……? あ、いや、それは……」
「やり直し。あと三十分以内に、正しい数字に書き直して持ってきなさい。それから、アルスター様は『死罪にする』とおっしゃっているのではなく、『緊張しすぎて喉の筋肉が固まっているだけ』ですので、安心してお下がりなさいな」
「………………な」
騎士は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、私とアルスター様を交互に見ました。
アルスター様は、消え入りそうな顔でコクリと頷きました。
「……な、なるほど……緊張、ですか……。し、失礼いたしました!」
嵐のように騎士が去っていくと、アルスター様はガタガタと崩れるように机に伏しました。
「…………み、みられた……なさ、けない……」
「いいえ。あなたは座っているだけで役に立ちましたわ。あなたの威圧感のおかげで、相手が一切の言い訳をせずに引き下がりましたもの。素晴らしい『魔王』の演技でしたわよ」
私は彼の背中をポン、と叩きました。
鋼のように硬い筋肉の感触に少し驚きましたが、すぐに手を離して書類に戻ります。
「……だりあ」
「なんですの? 手は動かしていませんけれど、口なら貸して差し上げますわ」
「……どうして、わかるんだ」
「何がですの?」
「……おれが、いいたいこと。……みんな、こわがって……にげるのに」
アルスター様が、机に顔を伏せたまま、ぼそりと呟きました。
その声には、少しだけ切ない響きが含まれているような気がしました。
私は羽ペンを動かす手を止めず、平然と答えました。
「私、王都で十年間、ジュリアン様という別の意味で言葉が通じない生き物の相手をして参りましたの。あの方は、自分の都合の良いことしか話さない。あなたは、相手を気遣いすぎて何も話せなくなる。……後者の方が、よほど翻訳しがいがありますわ」
「………………」
「それに」
私は顔を上げ、彼を真っ直ぐに見つめました。
「あなたの目は、嘘をついていませんもの。……不器用なだけの方を放っておくほど、私は性格が良くありませんのよ。さあ、次はこれです。隣領との水利権についての合意書。これ、完全に舐められていますわね。私が毒入りの返信を書いて差し上げますから、あなたは最後にハンコだけ押しなさいな」
「……あ、ああ。……わかった」
アルスター様が、おずおずと手を伸ばし、私が差し出した書類を受け取りました。
その時、指先が触れ合いました。
氷の死神という割には、彼の指は驚くほど熱を持っていたのを、私は気づかないふりをしました。
「ふふ、契約成立ですわね」
私は勝ち誇ったように笑い、山積みの書類へと再び挑みかかりました。
悪役令嬢と、引きこもりの死神。
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