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「……あああ! もう! 分からない、さっぱり分からないぞ!」
王立アカデミーの卒業パーティーから数日。
王宮の一室にある執務室で、ウィルフレッド王子は頭を抱えて叫んでいた。
彼の前には、城の各部署から届けられた未決済の書類が、まるで小山のように積み上がっている。
以前であれば、これらはすべてミリアーナが事前に目を通し、不備を修正し、彼がサインするだけの状態に整えられていたものだ。
「殿下ぁ、そんなに怖い顔をしないでくださいませ。せっかくルルアが、美味しいクッキーを焼いて持ってきたんですからぁ」
甘ったるい声と共に、ルルアが部屋に入ってきた。
彼女はトレイに乗せたクッキーを、あろうことか「重要」と書かれた書類の束の上に無造作に置いた。
「ルルア……。今、それどころではないんだ。この予算案の数字が、何度計算しても合わないんだ。ミリアーナがいれば、一瞬で終わるはずなのに……」
「もう、殿下ったら。ミリアーナ様の名前なんて出さないでください。あんなに可愛げのない、口うるさい女がいなくなって、ようやく自由になれたんですから。計算なんて、誰か他の人にやらせればいいじゃないですかぁ」
ルルアはウィルフレッドの肩に寄り添い、クッキーを一口食べさせようとする。
しかし、ウィルフレッドの表情は晴れない。
「そう思って、文官たちに投げたんだ。だが、彼らが持ってくる修正案はどれも難解で、結局俺が読んでも理解できないんだ! ミリアーナは、俺が三歳児でも分かるように図解までしてくれていたんだぞ……!」
「……三歳児? 殿下、それはさすがに、ミリアーナ様が殿下をバカにしていただけでは……?」
「いや、今となってはあれが最大の慈悲だったと分かる! ……おい、誰かいないか!」
ウィルフレッドが呼びかけると、青白い顔をした文官が入ってきた。
彼の目は充血し、足元はふらついている。
「……殿下、例の件ですが。オーブリー公爵家からの融資、本日をもって引き揚げるとの通達がありました。それと……ミリアーナ様が管理していた『特級茶葉』と『最高級紙』の仕入れルートも、すべて契約が解除されました」
「な、なんだと!? なぜだ!」
「契約者が『ミリアーナ・オーブリー』個人になっていたようです。彼女がいなくなった今、仕入れ先は『信頼できない相手とは取引しない』と。現在、城内の紙が不足し、トイレットペーパーすら一週間後には底を突く見込みです」
「トイレットペーパー!? 王子である俺に、紙のない生活を送れというのか!」
ウィルフレッドは机を叩いて立ち上がった。
ルルアが持ってきたクッキーのトレイがひっくり返り、クッキーの粉が重要書類の上に散らばる。
「ああっ! ルルア、何をする! この書類、ミリアーナなら『粉が飛ぶ前に片付けなさい』と怒鳴って防いでくれたのに!」
「な、何でもかんでもミリアーナ様と比較しないでください! クッキーが割れちゃったじゃないですかぁ、酷いですぅ!」
ルルアが泣き真似を始めるが、今のウィルフレッドにはそれをなだめる余裕などなかった。
彼は、机の上のクッキーの粉を必死で手で払いのけようとして、逆に書類を汚してしまった。
「あああ……。そういえば、ミリアーナが言っていたな……。『愛だけではネクタイは結べませんし、国も治められません』と。……くそっ! あいつ、本当に余計なことばかり、正論を……!」
ウィルフレッドは、自分のネクタイを鏡で確認した。
案の定、左右の長さがバラバラで、結び目も歪んでいる。
ミリアーナがいなくなってから、まともにネクタイを結んでくれる者すらいない。
侍従たちは、王子の不機嫌を恐れて遠巻きにしているだけだ。
「殿下ぁ、そんなことより、今夜のダンスパーティーの練習をしましょうよぉ」
「パーティー!? この書類の山が見えないのか! それから、城内の衛生管理が最悪だ。廊下の隅にホコリが溜まっている。ミリアーナがいたら、今頃執事長が三回は解雇されているレベルだぞ!」
「掃除なんて後で誰かがやりますわよぉ。殿下、ルルアをエスコートしてくださるって、あんなに甘い約束をしてくださったじゃありませんかぁ」
ルルアの甘い声が、今のウィルフレッドには「騒音」にしか聞こえなかった。
彼はふと、ミリアーナの冷徹で、かつ完璧に整ったあの声を思い出した。
罵倒されて、説教されて、正論で叩きのめされる。
当時は屈辱だと思っていたそれが、どれほど贅沢な「教育」だったのか。
「……ミリアーナ。あいつ、今頃どこで何をしているんだ。まさか本当に、あの隣国のカシアン公爵のところへ行ったのか?」
「噂では、カシアン様が無理やり連れ去ったとか……。きっと今頃、あんな可愛くない女、捨てられて路地裏で泣いてますわよ。うふふ」
ルルアの笑い声が響く中、ウィルフレッドは窓の外を見つめた。
もし、ミリアーナが本当に捨てられているのなら。
迎えに行って、「少しは反省したか?」と声をかけてやれば、彼女は泣いて喜んで戻ってくるのではないか。
そして、この山積みの書類を、一晩で片付けてくれるのではないか。
「……よし。カシアンの動向を探れ。ミリアーナが捨てられたという確証が得られたら、すぐに連れ戻す。……あ、それからルルア。そのクッキー、甘すぎて喉が渇く。ミリアーナの淹れた、あの苦くて目が覚めるようなお茶が飲みたいんだ。下がってくれ」
「えぇっ!? そんな、殿下ぁ……!」
追い出されるように部屋を出ていくルルア。
静かになった執務室で、ウィルフレッドは再び計算の合わない予算案にペンを走らせた。
しかし、書けば書くほどミスが増え、書類は黒いインクのシミで汚れていく。
「ミリアーナ……。お前、本当に……性格だけじゃなくて、仕事まで可愛くないんだよ。……俺がこんなに困っているんだぞ、早く助けに来い……」
王子の独り言は、誰に届くこともなく、ただホコリの溜まった部屋の中に虚しく消えていった。
王立アカデミーの卒業パーティーから数日。
王宮の一室にある執務室で、ウィルフレッド王子は頭を抱えて叫んでいた。
彼の前には、城の各部署から届けられた未決済の書類が、まるで小山のように積み上がっている。
以前であれば、これらはすべてミリアーナが事前に目を通し、不備を修正し、彼がサインするだけの状態に整えられていたものだ。
「殿下ぁ、そんなに怖い顔をしないでくださいませ。せっかくルルアが、美味しいクッキーを焼いて持ってきたんですからぁ」
甘ったるい声と共に、ルルアが部屋に入ってきた。
彼女はトレイに乗せたクッキーを、あろうことか「重要」と書かれた書類の束の上に無造作に置いた。
「ルルア……。今、それどころではないんだ。この予算案の数字が、何度計算しても合わないんだ。ミリアーナがいれば、一瞬で終わるはずなのに……」
「もう、殿下ったら。ミリアーナ様の名前なんて出さないでください。あんなに可愛げのない、口うるさい女がいなくなって、ようやく自由になれたんですから。計算なんて、誰か他の人にやらせればいいじゃないですかぁ」
ルルアはウィルフレッドの肩に寄り添い、クッキーを一口食べさせようとする。
しかし、ウィルフレッドの表情は晴れない。
「そう思って、文官たちに投げたんだ。だが、彼らが持ってくる修正案はどれも難解で、結局俺が読んでも理解できないんだ! ミリアーナは、俺が三歳児でも分かるように図解までしてくれていたんだぞ……!」
「……三歳児? 殿下、それはさすがに、ミリアーナ様が殿下をバカにしていただけでは……?」
「いや、今となってはあれが最大の慈悲だったと分かる! ……おい、誰かいないか!」
ウィルフレッドが呼びかけると、青白い顔をした文官が入ってきた。
彼の目は充血し、足元はふらついている。
「……殿下、例の件ですが。オーブリー公爵家からの融資、本日をもって引き揚げるとの通達がありました。それと……ミリアーナ様が管理していた『特級茶葉』と『最高級紙』の仕入れルートも、すべて契約が解除されました」
「な、なんだと!? なぜだ!」
「契約者が『ミリアーナ・オーブリー』個人になっていたようです。彼女がいなくなった今、仕入れ先は『信頼できない相手とは取引しない』と。現在、城内の紙が不足し、トイレットペーパーすら一週間後には底を突く見込みです」
「トイレットペーパー!? 王子である俺に、紙のない生活を送れというのか!」
ウィルフレッドは机を叩いて立ち上がった。
ルルアが持ってきたクッキーのトレイがひっくり返り、クッキーの粉が重要書類の上に散らばる。
「ああっ! ルルア、何をする! この書類、ミリアーナなら『粉が飛ぶ前に片付けなさい』と怒鳴って防いでくれたのに!」
「な、何でもかんでもミリアーナ様と比較しないでください! クッキーが割れちゃったじゃないですかぁ、酷いですぅ!」
ルルアが泣き真似を始めるが、今のウィルフレッドにはそれをなだめる余裕などなかった。
彼は、机の上のクッキーの粉を必死で手で払いのけようとして、逆に書類を汚してしまった。
「あああ……。そういえば、ミリアーナが言っていたな……。『愛だけではネクタイは結べませんし、国も治められません』と。……くそっ! あいつ、本当に余計なことばかり、正論を……!」
ウィルフレッドは、自分のネクタイを鏡で確認した。
案の定、左右の長さがバラバラで、結び目も歪んでいる。
ミリアーナがいなくなってから、まともにネクタイを結んでくれる者すらいない。
侍従たちは、王子の不機嫌を恐れて遠巻きにしているだけだ。
「殿下ぁ、そんなことより、今夜のダンスパーティーの練習をしましょうよぉ」
「パーティー!? この書類の山が見えないのか! それから、城内の衛生管理が最悪だ。廊下の隅にホコリが溜まっている。ミリアーナがいたら、今頃執事長が三回は解雇されているレベルだぞ!」
「掃除なんて後で誰かがやりますわよぉ。殿下、ルルアをエスコートしてくださるって、あんなに甘い約束をしてくださったじゃありませんかぁ」
ルルアの甘い声が、今のウィルフレッドには「騒音」にしか聞こえなかった。
彼はふと、ミリアーナの冷徹で、かつ完璧に整ったあの声を思い出した。
罵倒されて、説教されて、正論で叩きのめされる。
当時は屈辱だと思っていたそれが、どれほど贅沢な「教育」だったのか。
「……ミリアーナ。あいつ、今頃どこで何をしているんだ。まさか本当に、あの隣国のカシアン公爵のところへ行ったのか?」
「噂では、カシアン様が無理やり連れ去ったとか……。きっと今頃、あんな可愛くない女、捨てられて路地裏で泣いてますわよ。うふふ」
ルルアの笑い声が響く中、ウィルフレッドは窓の外を見つめた。
もし、ミリアーナが本当に捨てられているのなら。
迎えに行って、「少しは反省したか?」と声をかけてやれば、彼女は泣いて喜んで戻ってくるのではないか。
そして、この山積みの書類を、一晩で片付けてくれるのではないか。
「……よし。カシアンの動向を探れ。ミリアーナが捨てられたという確証が得られたら、すぐに連れ戻す。……あ、それからルルア。そのクッキー、甘すぎて喉が渇く。ミリアーナの淹れた、あの苦くて目が覚めるようなお茶が飲みたいんだ。下がってくれ」
「えぇっ!? そんな、殿下ぁ……!」
追い出されるように部屋を出ていくルルア。
静かになった執務室で、ウィルフレッドは再び計算の合わない予算案にペンを走らせた。
しかし、書けば書くほどミスが増え、書類は黒いインクのシミで汚れていく。
「ミリアーナ……。お前、本当に……性格だけじゃなくて、仕事まで可愛くないんだよ。……俺がこんなに困っているんだぞ、早く助けに来い……」
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