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「……遅いですわ。○・三秒」
グランヴィル公爵邸の広大な庭園に、私の冷徹な声が響き渡った。
私の目の前で直立不動になっているのは、この数年でさらに逞しく、そしてさらに「変態性」に磨きがかかった夫、カシアン・ノルド・グランヴィルだ。
「……! ああ、ミリアーナ。私の朝の挨拶が○・三秒遅れただけで、これほどまでの鋭い視線を投げかけてくれるなんて……。結婚して五年経っても、君の『時間管理への執着』は衰えるどころか、神の領域に達しているね」
「……。当然ですわ。時間は、唯一全人類に平等に与えられた有限の資産。それを無駄にする者は、人生そのものをドブに捨てているのと同じです。…閣下、そのネクタイ。…右に一・五度傾いていますわよ。…やり直しなさい」
「……っ!! 一・五度の歪み! 自分では完璧だと思っていたのに、君の瞳という名の精密センサーは誤魔化せないな。……さあ、直してくれ。君の指先で、私の喉仏を圧迫しながら完璧な位置に……!」
「……。不潔です。…自分でやりなさいと言いたいところですが、その歪んだままのあなたを視界に入れておくストレスの方が私の精神衛生上マイナスですので、貸しなさい」
私は呆れ果てながらも、彼の胸元に手を伸ばした。
五年前と変わらない、しかしより深く、確かな熱。
私の指がネクタイを締め上げると、閣下は「ふぅ……」と法悦の吐息を漏らした。
「…不適切な声を上げない! マイナス五〇〇点ですわ!」
「…お母様、またお父様をいじめているの?」
背後から、小さな、しかし驚くほどハキハキとした声が聞こえた。
振り返ると、そこには五歳になる長男のシリルと、三歳の長女のエレナが、完璧な姿勢で立っていた。
「…シリル。これは『いじめ』ではなく、家庭内における『品質管理(クオリティ・コントロール)』ですわ。……それからエレナ。あなたのその歩き方。…左足の重心が外側に逃げています。靴の減り方が不均等になりますわよ。今すぐ姿勢を正しなさい」
「はーい、お母様! 今の私の歩行効率、マイナス何点ですか?」
「一五点ですわ。次までに修正しておきなさい」
「エレナ、甘いよ。僕なんてさっき、挨拶の語尾が〇・一秒伸びただけで『知性の浪費』って言われたんだから」
子供たちは、私の厳しい説教を怖がるどころか、まるで高度なゲームのスコア表でも受け取るかのように楽しんでいる。
…どうやら私の教育方針は、我が子の脳内を「正論中毒」に変えてしまったようですわね。
「…ふふ。見てくれミリアーナ。君が育てた子供たちだ。この領地の未来は、かつてないほどの『効率』と『清潔さ』に包まれるだろうね」
カシアン閣下が、満足げに子供たちの頭を撫でた。
今や、グランヴィル公爵領は隣国のみならず大陸全土から「世界で最も住みやすく、最も無駄のない理想郷」と称えられている。
…かつて私を捨てたあの国が、今や我が領地からの輸入物資と、私が作成した「救済計画書」なしでは一日も保たない惨状であることを考えれば、皮肉なものですわ。
「そういえば、閣下。王都の『清掃員』として働いている元王子から、また減刑の嘆願書が届いていましたわよ」
「ああ、あの鼻毛の彼かい?どうしたんだい?」
「『皿洗いのノルマが厳しすぎる、ミリアーナに一目会って謝罪したい』だそうですわ。即座にシュレッダーにかけましたけれど」
「……! 物理的な抹殺! 素晴らしい判断だ、ミリアーナ。…過去を振り返る時間は、一秒たりとも我が家には存在しないからね」
カシアン閣下は、私の肩を抱き寄せ、庭園の向こうに広がる平和な領都を見渡した。
「……ミリアーナ。私は、本当に幸せだよ。君に罵られ、君に正され、君と共にこの世界を磨き上げる。これ以上の人生、どんな天才数学者にも計算できないだろう?」
「…馬鹿なことを」
私は、熱くなる頬を隠すように扇を広げた。
「幸せなどという抽象的な概念で、私の論理を惑わさないでいただけます?私はただ、あなたが私の目の届く範囲で、不潔で非効率な真似をしないよう、一生かけて監視し続けるだけですわ。それが、私の『契約』なのですから」
「…ああ、一生の監視。なんて、甘美な地獄(パラダイス)なんだ」
閣下が、私の耳元にそっと唇を寄せた。
「愛しているよ、ミリアーナ。…世界で一番、可愛くない私の妻」
「…その台詞、一日に一回までと決めておいたはずですわ…。本日は二回目。規約違反ですので、今夜の書斎の整理整頓は、あなたの担当にしますわよ。…覚悟しなさい、カシアン!」
私は真っ赤な顔で、しかし力強く、彼の足を踏み抜いた。
「ぐっ……! あ、ありがとう……!」
青空の下、私たちの「正論と愛の戦い」は、これからも果てしなく続いていく。
可愛げなんて、いりませんわ。
私は私の言葉で、この愛すべき変態と、この不完全な世界を、どこまでも「正しく」導いてみせますから。
不潔な無能たちが去り、残されたのは、世界で最も騒がしく、最も「効率的」な、最高の幸福。
私の「可愛くない反撃」は、ここに、永遠の「溺愛」として完結したのでした。
グランヴィル公爵邸の広大な庭園に、私の冷徹な声が響き渡った。
私の目の前で直立不動になっているのは、この数年でさらに逞しく、そしてさらに「変態性」に磨きがかかった夫、カシアン・ノルド・グランヴィルだ。
「……! ああ、ミリアーナ。私の朝の挨拶が○・三秒遅れただけで、これほどまでの鋭い視線を投げかけてくれるなんて……。結婚して五年経っても、君の『時間管理への執着』は衰えるどころか、神の領域に達しているね」
「……。当然ですわ。時間は、唯一全人類に平等に与えられた有限の資産。それを無駄にする者は、人生そのものをドブに捨てているのと同じです。…閣下、そのネクタイ。…右に一・五度傾いていますわよ。…やり直しなさい」
「……っ!! 一・五度の歪み! 自分では完璧だと思っていたのに、君の瞳という名の精密センサーは誤魔化せないな。……さあ、直してくれ。君の指先で、私の喉仏を圧迫しながら完璧な位置に……!」
「……。不潔です。…自分でやりなさいと言いたいところですが、その歪んだままのあなたを視界に入れておくストレスの方が私の精神衛生上マイナスですので、貸しなさい」
私は呆れ果てながらも、彼の胸元に手を伸ばした。
五年前と変わらない、しかしより深く、確かな熱。
私の指がネクタイを締め上げると、閣下は「ふぅ……」と法悦の吐息を漏らした。
「…不適切な声を上げない! マイナス五〇〇点ですわ!」
「…お母様、またお父様をいじめているの?」
背後から、小さな、しかし驚くほどハキハキとした声が聞こえた。
振り返ると、そこには五歳になる長男のシリルと、三歳の長女のエレナが、完璧な姿勢で立っていた。
「…シリル。これは『いじめ』ではなく、家庭内における『品質管理(クオリティ・コントロール)』ですわ。……それからエレナ。あなたのその歩き方。…左足の重心が外側に逃げています。靴の減り方が不均等になりますわよ。今すぐ姿勢を正しなさい」
「はーい、お母様! 今の私の歩行効率、マイナス何点ですか?」
「一五点ですわ。次までに修正しておきなさい」
「エレナ、甘いよ。僕なんてさっき、挨拶の語尾が〇・一秒伸びただけで『知性の浪費』って言われたんだから」
子供たちは、私の厳しい説教を怖がるどころか、まるで高度なゲームのスコア表でも受け取るかのように楽しんでいる。
…どうやら私の教育方針は、我が子の脳内を「正論中毒」に変えてしまったようですわね。
「…ふふ。見てくれミリアーナ。君が育てた子供たちだ。この領地の未来は、かつてないほどの『効率』と『清潔さ』に包まれるだろうね」
カシアン閣下が、満足げに子供たちの頭を撫でた。
今や、グランヴィル公爵領は隣国のみならず大陸全土から「世界で最も住みやすく、最も無駄のない理想郷」と称えられている。
…かつて私を捨てたあの国が、今や我が領地からの輸入物資と、私が作成した「救済計画書」なしでは一日も保たない惨状であることを考えれば、皮肉なものですわ。
「そういえば、閣下。王都の『清掃員』として働いている元王子から、また減刑の嘆願書が届いていましたわよ」
「ああ、あの鼻毛の彼かい?どうしたんだい?」
「『皿洗いのノルマが厳しすぎる、ミリアーナに一目会って謝罪したい』だそうですわ。即座にシュレッダーにかけましたけれど」
「……! 物理的な抹殺! 素晴らしい判断だ、ミリアーナ。…過去を振り返る時間は、一秒たりとも我が家には存在しないからね」
カシアン閣下は、私の肩を抱き寄せ、庭園の向こうに広がる平和な領都を見渡した。
「……ミリアーナ。私は、本当に幸せだよ。君に罵られ、君に正され、君と共にこの世界を磨き上げる。これ以上の人生、どんな天才数学者にも計算できないだろう?」
「…馬鹿なことを」
私は、熱くなる頬を隠すように扇を広げた。
「幸せなどという抽象的な概念で、私の論理を惑わさないでいただけます?私はただ、あなたが私の目の届く範囲で、不潔で非効率な真似をしないよう、一生かけて監視し続けるだけですわ。それが、私の『契約』なのですから」
「…ああ、一生の監視。なんて、甘美な地獄(パラダイス)なんだ」
閣下が、私の耳元にそっと唇を寄せた。
「愛しているよ、ミリアーナ。…世界で一番、可愛くない私の妻」
「…その台詞、一日に一回までと決めておいたはずですわ…。本日は二回目。規約違反ですので、今夜の書斎の整理整頓は、あなたの担当にしますわよ。…覚悟しなさい、カシアン!」
私は真っ赤な顔で、しかし力強く、彼の足を踏み抜いた。
「ぐっ……! あ、ありがとう……!」
青空の下、私たちの「正論と愛の戦い」は、これからも果てしなく続いていく。
可愛げなんて、いりませんわ。
私は私の言葉で、この愛すべき変態と、この不完全な世界を、どこまでも「正しく」導いてみせますから。
不潔な無能たちが去り、残されたのは、世界で最も騒がしく、最も「効率的」な、最高の幸福。
私の「可愛くない反撃」は、ここに、永遠の「溺愛」として完結したのでした。
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