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婚約破棄を宣言されたパーティー会場を後にして、ニーアは鼻歌交じりに公爵邸へと戻った。
深夜にもかかわらず、邸宅の玄関には明かりが灯り、重苦しい空気が漂っている。
「ニーア! 貴様、パーティーで何という大失態を演じてくれたのだ!」
玄関ホールで待ち構えていたのは、ニーアの父、アステリア公爵だった。
彼は顔を真っ赤にし、手にした夜会の速報(王宮の密偵から届いたもの)を震わせている。
「お帰りなさいませ、お父様。大失態とは心外ですわ。私はただ、不良債権を切り離しただけですもの」
「不良債権だと!? 王子殿下との婚約は、我がアステリア家の繁栄のための最優先事項だったのだぞ! それを、あんな……あんな算盤を弾いて金の請求などと!」
公爵が頭を抱えて叫ぶ。
しかし、ニーアは動じない。むしろ、執事にコートを預けながら、涼しい顔で新しい書類を取り出した。
「お父様、落ち着いてください。血管が切れると医療費がかさみますわ。こちら、本日の『婚約破棄に伴う損害および利益確定申告書』です」
「申告書……?」
「はい。殿下と結婚して王妃になった場合、私が今後五十年間で得られる推定年収と、激務による精神的苦痛、および殿下の愛人たちの尻拭いにかかる経費を算出しました。一方で、今ここで身軽になり、商売を始めた場合の期待利益を比較したところ……」
ニーアは自信満々に人差し指を立てた。
「婚約破棄された方が、我が家の純利益は三五〇パーセント向上するという結果が出ましたわ。おめでとうございます、お父様!」
「めでたくあるか! 王家を敵に回して、この先どうするつもりだ! 公爵家の名に泥を塗ったのだぞ!」
「名誉でパンは買えません。それに、泥を塗ったのは私ではなく、浮気をして公衆の面前で冤罪を吹っかけた殿下の方です。私は正当な防衛として、慰謝料という名の『清算』を求めたに過ぎません」
ニーアは流れるような動作で応接室のソファに腰を下ろし、父に手招きをした。
「お父様、よく考えてください。アレン殿下は、リリィ様という男爵令嬢に夢中です。彼女の背後には、借金まみれの男爵家が控えています。もし私が王妃になっていたら、私の実家であるアステリア公爵家は、あの一族の負債を肩代わりさせられていたはずですわ」
「それは……まあ、確かにあの男爵家は評判が悪いが……」
「『悪い』どころではありません。私の調べでは、あと三ヶ月で破綻します。その時、殿下は必ず『ニーア、公爵家の資産で彼女の実家を助けてやれ』と言い出したでしょう。そうなれば、我が家は底なし沼に沈んでいたのです」
公爵は言葉に詰まり、まばたきを繰り返した。
「つまり、今このタイミングでの婚約破棄は、アステリア家にとって『史上最高の損切り』なのです。お分かりいただけましたか?」
「……理屈は、分からんでもない。だが、世間の目はどうする。悪役令嬢として指を差されるのだぞ」
「指を差されるくらい、風通しが良くて結構ではありませんか。むしろ有名税として利用させてもらいます。さて、お父様。ここからが本題です」
ニーアは手帳を広げ、真剣な眼差しで父を見つめた。
「私は明日、この家を出ます」
「何だと!? どこへ行くというのだ!」
「下町です。まずは小さな拠点を構え、市場の動向を探ります。もちろん、公爵令嬢としての身分や権利はすべて返上いたしますわ。その代わり……」
ニーアは不敵な笑みを浮かべ、すっと一枚の紙を差し出した。
「これまでの私の『家政管理報酬』および『領地経営コンサルタント料』として、この屋敷の地下倉庫にある『使われていない骨董品』の所有権を私に譲渡してください」
「地下倉庫の……あそこにあるのは先代が趣味で集めたガラクタばかりだぞ? そんなものでいいのか?」
「ええ。お父様にとってはガラクタでも、私にとっては『初期投資用の種銭』に見えるのです。これを市場で売却し、私の帝国を築く第一歩といたします」
公爵は、娘のあまりの迷いのなさに、呆れを通り越して感心し始めていた。
かつて「冷酷な悪役令嬢」と噂された娘が、実は誰よりも家庭の財布を守り、将来のリスクを計算していたことに、今更ながら気づいたのだ。
「……ふん。好きにするがいい。お前の勝手な振る舞いで、私の心臓がいくつあっても足りん」
「ありがとうございます。契約成立ですね。では、早速今夜中に運び出させていただきますわ。あ、人手が必要ですので、非番の若い使用人たちを時給制で雇ってもよろしいかしら?」
「勝手にしろ! もう寝る!」
背中を向けて去っていく父を見送り、ニーアは満足げに算盤を撫でた。
「さて、時間は金なり、ですわね。まずはあの埃を被った花瓶が、いくらで売れるか……楽しみですわ」
ニーアの瞳には、すでに夜明けの街並みと、そこに渦巻く金の流れが見えていた。
彼女は寝る間も惜しんで、手際よく荷造りを開始した。
公爵令嬢としての豪華なドレスを脱ぎ捨て、動きやすい機能的な服に着替えるその顔は、人生で一番輝いていた。
深夜にもかかわらず、邸宅の玄関には明かりが灯り、重苦しい空気が漂っている。
「ニーア! 貴様、パーティーで何という大失態を演じてくれたのだ!」
玄関ホールで待ち構えていたのは、ニーアの父、アステリア公爵だった。
彼は顔を真っ赤にし、手にした夜会の速報(王宮の密偵から届いたもの)を震わせている。
「お帰りなさいませ、お父様。大失態とは心外ですわ。私はただ、不良債権を切り離しただけですもの」
「不良債権だと!? 王子殿下との婚約は、我がアステリア家の繁栄のための最優先事項だったのだぞ! それを、あんな……あんな算盤を弾いて金の請求などと!」
公爵が頭を抱えて叫ぶ。
しかし、ニーアは動じない。むしろ、執事にコートを預けながら、涼しい顔で新しい書類を取り出した。
「お父様、落ち着いてください。血管が切れると医療費がかさみますわ。こちら、本日の『婚約破棄に伴う損害および利益確定申告書』です」
「申告書……?」
「はい。殿下と結婚して王妃になった場合、私が今後五十年間で得られる推定年収と、激務による精神的苦痛、および殿下の愛人たちの尻拭いにかかる経費を算出しました。一方で、今ここで身軽になり、商売を始めた場合の期待利益を比較したところ……」
ニーアは自信満々に人差し指を立てた。
「婚約破棄された方が、我が家の純利益は三五〇パーセント向上するという結果が出ましたわ。おめでとうございます、お父様!」
「めでたくあるか! 王家を敵に回して、この先どうするつもりだ! 公爵家の名に泥を塗ったのだぞ!」
「名誉でパンは買えません。それに、泥を塗ったのは私ではなく、浮気をして公衆の面前で冤罪を吹っかけた殿下の方です。私は正当な防衛として、慰謝料という名の『清算』を求めたに過ぎません」
ニーアは流れるような動作で応接室のソファに腰を下ろし、父に手招きをした。
「お父様、よく考えてください。アレン殿下は、リリィ様という男爵令嬢に夢中です。彼女の背後には、借金まみれの男爵家が控えています。もし私が王妃になっていたら、私の実家であるアステリア公爵家は、あの一族の負債を肩代わりさせられていたはずですわ」
「それは……まあ、確かにあの男爵家は評判が悪いが……」
「『悪い』どころではありません。私の調べでは、あと三ヶ月で破綻します。その時、殿下は必ず『ニーア、公爵家の資産で彼女の実家を助けてやれ』と言い出したでしょう。そうなれば、我が家は底なし沼に沈んでいたのです」
公爵は言葉に詰まり、まばたきを繰り返した。
「つまり、今このタイミングでの婚約破棄は、アステリア家にとって『史上最高の損切り』なのです。お分かりいただけましたか?」
「……理屈は、分からんでもない。だが、世間の目はどうする。悪役令嬢として指を差されるのだぞ」
「指を差されるくらい、風通しが良くて結構ではありませんか。むしろ有名税として利用させてもらいます。さて、お父様。ここからが本題です」
ニーアは手帳を広げ、真剣な眼差しで父を見つめた。
「私は明日、この家を出ます」
「何だと!? どこへ行くというのだ!」
「下町です。まずは小さな拠点を構え、市場の動向を探ります。もちろん、公爵令嬢としての身分や権利はすべて返上いたしますわ。その代わり……」
ニーアは不敵な笑みを浮かべ、すっと一枚の紙を差し出した。
「これまでの私の『家政管理報酬』および『領地経営コンサルタント料』として、この屋敷の地下倉庫にある『使われていない骨董品』の所有権を私に譲渡してください」
「地下倉庫の……あそこにあるのは先代が趣味で集めたガラクタばかりだぞ? そんなものでいいのか?」
「ええ。お父様にとってはガラクタでも、私にとっては『初期投資用の種銭』に見えるのです。これを市場で売却し、私の帝国を築く第一歩といたします」
公爵は、娘のあまりの迷いのなさに、呆れを通り越して感心し始めていた。
かつて「冷酷な悪役令嬢」と噂された娘が、実は誰よりも家庭の財布を守り、将来のリスクを計算していたことに、今更ながら気づいたのだ。
「……ふん。好きにするがいい。お前の勝手な振る舞いで、私の心臓がいくつあっても足りん」
「ありがとうございます。契約成立ですね。では、早速今夜中に運び出させていただきますわ。あ、人手が必要ですので、非番の若い使用人たちを時給制で雇ってもよろしいかしら?」
「勝手にしろ! もう寝る!」
背中を向けて去っていく父を見送り、ニーアは満足げに算盤を撫でた。
「さて、時間は金なり、ですわね。まずはあの埃を被った花瓶が、いくらで売れるか……楽しみですわ」
ニーアの瞳には、すでに夜明けの街並みと、そこに渦巻く金の流れが見えていた。
彼女は寝る間も惜しんで、手際よく荷造りを開始した。
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