悪役令嬢、婚約破棄された本日より暴走を開始します 

八雲

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王宮の執務室。そこはかつて、ニーアが「婚約者の義務」として毎日十時間は籠もっていた場所だ。


しかし現在、その主であるアレン王子は、デスクの上に積み上がった紙の山を前に、髪を掻き乱していた。


「……おい、この『物流港の関税調整案』はどうなっている!? 今日が締め切りだろう!」


アレンの叫びに、執務室の隅で震えていた若手書記官が、消え入るような声で答える。


「は、はい……。それは、ニーア様が独自に組まれた計算式に基づいたものでして……。我々では、どの数字がどこに対応しているのか、さっぱり……」


「何だと!? あんな女の書いたものなど、適当に数字を埋めておけばいいだろう!」


「そ、それが……。ニーア様の手順を飛ばして提出したところ、隣国の外交官から『整合性が取れない、宣戦布告と見なす』と猛抗議が来ておりまして……」


アレンは机を叩いた。


「くそっ、あの女、嫌がらせのためにわざと複雑にしていったのか!」


そこへ、可憐な足音と共にリリィが部屋に入ってきた。


彼女は手作りのクッキーが入ったバスケットを抱え、ひまわりのような笑顔を浮かべている。


「アレン様、お疲れ様です! 息抜きに、甘いものでもいかがですか?」


「おお、リリィ! 君の笑顔を見ると救われるよ。……ああ、この忌々しい書類さえなければな」


「まあ、大変そう……。ニーア様って、本当に不親切だったのですね。こんなにアレン様を困らせるなんて」


リリィはアレンの肩に手を置き、甘ったるい声で続けた。


「大丈夫ですよ、アレン様。あんな怖い顔をした人より、私の方がもっと素敵に……あ、あれ? この『国債発行に関する予算書』って……」


リリィがひょいと覗き込んだ書類には、ニーアによる「無駄を極限まで削ぎ落とした」超効率的な予算案が記されていた。


「……リリィ、君なら分かるか?」


「え、ええと……あはは! なんだか、数字がたくさん書いてあって、とっても芸術的ですね!」


「……芸術的?」


「はい! きっと、もっと可愛くハートマークとかを付ければ、みんなハッピーになると思いますよ!」


アレンは一瞬、遠い目をした。


ニーアなら、ここで「ハートマーク一つつけるインク代と、それを見る役人の工数損失を計算してください」と冷たく言い放っただろう。


当時はそれが可愛げがないと思っていたが、今、目の前にある「可愛さ」は何の解決にもならなかった。


「……殿下、失礼いたします!」


血相を変えて飛び込んできたのは、王宮の財務卿だった。


「財務卿か。今度は何だ」


「何だではありません! ニーア様が去り際に精算された『立て替え金』の二億四千万ゴルド……。あれを支払うために、王室の予備費が完全に底を突きました!」


「なっ……! 二億程度で、我が王家が揺らぐわけなかろう!」


「殿下は何もご存知ないのですか!? あの二億は、ニーア様が『運用』することで、実質的には十億以上の価値を生んでいたのです! 彼女がいなくなったことで、予定されていた事業の融資がすべて止まりました!」


財務卿の顔は、もはや土気色を通り越して真っ白だ。


「さらに、ニーア様はご自身名義の特許権をすべて隣国へ売却されたようです。今後、我が国で魔石灯を一つ灯すごとに、隣国へ特許料が流れることになります!」


「な……ななな、何だと!?」


アレンの膝が、がくがくと震え始める。


彼は初めて、ニーアが自分に注いでいた「愛(という名の労働)」の、真の市場価値を知ったのだ。


「すぐに……すぐにニーアを連れ戻せ! あの女はアステリア公爵家の娘だろう! 命令すれば戻ってくるはずだ!」


「それが……公爵家からは『娘は勘当した。居場所も知らぬ。以後の苦情は弁護士を通せ』との返答が……」


アレンは、机の上のクッキーのバスケットをひっくり返した。


バラバラと床に散らばるクッキー。


リリィは「ああっ、私のクッキーが!」と泣きそうな声を上げているが、アレンにはそれに応える余裕などなかった。


「ニーア……。あいつ、本気で消えたのか……?」


その頃、当のニーアは、下町の安宿のベッドで算盤を弾きながら、幸せそうに独り言を漏らしていた。


「ふふ……。今頃、王宮の維持コストが指数関数的に跳ね上がっているはずですわ。……さて、明日はどの店を買い叩きましょうか」


それは、あまりにも鮮やかで、あまりにも冷酷な「戦略的撤退」の成果であった。
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