太陽の猫と戦いの神

中安子

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一人

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 陽が昇ってからは、姫二人も自分の足で歩いた。
 負われていては軽く眠る事しかできないため、すっきり疲れがとれたわけではなかった。ましてや、他の四人は休まずに歩き続けているため、疲労の色を隠しきれなかった。シュウトだけは何の痛手もない顔だった。ハルカのように空気を作れないため、ただ疲れきった五人を後ろから見守る事しかできなかった。
 レイが後ろを振り返ってから、声を振り絞って言う。
「暗くなるまでは、足を止めないようにしましょう。シュウト様の実力が向こうに知られてしまいましたから、次の追手も考えてくるはずです。姫様方の事を考えても、出来るだけ戦闘は避けたい。無理を言っているのは分かっていますが、今は進み続ける事が賢明でしょう」
「賛成だよ」
 ハルカがすぐさま声を大きくして応えた。アンリに心配をかけまいと明るく振舞ってはいたが、空元気だった。皆も自分の気丈さを保つ事で精一杯で、周りを気にする余裕も残っていなかった。あのキヌン達が攻めてきた時の記憶が鮮明すぎて、精神的にも堪えていた。近付いてくるたくさんの足音が今でも耳から離れず、振り払おうと足に力を込めた。逃げ続ける辛さを初めて知ったのだった。ただ、それが活力に繋がるのも事実だった。
「早くゆっくり酒が飲みたいぜ」
 ハルカは冗談のように言ったが、本気ともとれる様子だった。
「全て終わった時には、六人で祝杯をあげましょう」
 レイがにこりと微笑んで返した。「そうだな」とハルカはすぐに想像を膨らませてふっと笑った。希望を抱けば、少しばかりの力になった。苦しい今を生きるために、人はきっと想像を覚えたのだ。
「森が見えるわ」
 きつい日差しから少しでも逃れようと、俯いて歩いていた六人だった。急にアマネが調子を明るくして言ったのだった。皆は釣られて顔を上げ、妹姫の指差す方を眺めた。
 徐々になだらかに下っていく砂地の奥一帯に、青々と群がる木々。まだ手を伸ばしても届かない場所ではあった。あそこまで歩くのかと、げんなりしてしまうくらいだ。しかし、久しぶりの緑は目に優しく、国を思い出して懐かしくさえあった。陽光を受けて葉が元気よく輝いているようだ。レイが眩しそうに目を細めて言った。
「今夜は森の入口で休みましょう。暗くなるまでには着くと思いますので」
「もう少しだけ頑張りましょう」
 ユウが姫達を励ますように言った。二人は言葉を発しはしなかったが、力強く頷いた。目的の見えない旅ほど不安なものはない。やっと終わるのかと思うと、安堵の胸をなでおろした。

 見上げる木々は遠く空まで伸び、寄り添いなさいと語りかけてくれるようだった。風の音が変わった。疲れきった旅人たちの頭をそっと撫でるように、労いの言葉を掛けるかのように、優しく吹き渡っていく。木々のそよぎが心地良かった。
 六人は森に入ってすぐ、僅かの空き地を見つけてそこに腰を下ろした。跨げるくらいの小さな川が流れており、それぞれすくって口に含んだ。しばらく六人は喋る事もなく、自分自身の疲労と、喉を通っていく水のこの上ない美味しさを噛みしめていた。
「暗くなる前に食事を取って、姫様方はお休みになってください。男四人で交代して見張りをしますので」
 レイが姿勢を正して姫達に向き合った。陽は沈みかけていて、薄暗くなっていた。
 ユウはすっと立ち上がった。
「食料を探してきます。すぐに戻りますので」
 皆は何も言えず彼を見送った。彼も十分疲れているはずだった。一緒に行くとすぐに言えなかった自分を悔やんで、ハルカは頭をかきむしった。一番野営に慣れているとはいえ、何のためらいもなく姫に尽くせるなんて、そう簡単に出来るものではない。せめてもと、姫のために寝床を用意し始めた。シュウトも俊敏に立ち上がってハルカを手伝った。
「ハルカは休んだ方がいい」
 そっと気遣うように言った。目をぱちくりさせながら、ハルカは相棒を眺めた。
「そんなに酷いか?俺」
 シュウトは深刻そうに頷いて見せたが、ハルカが堪えきれず笑ってしまった後では、それも保っていられなかった。くしゃっとした、整っていない笑顔を浮かべる。
 ハルカは調子を戻して作業を続けた。体は鉛の様に重たかったが、これから休めると思うと心持ちはずいぶん違った。横になって眠った日がはるか昔のように思える。
「今夜は見張りは俺がする」
 当に限界を超えているのに体に鞭を打つ相棒を見ていられなかった。
「そんなかっこ悪いとこ見せられねえよ」
 ハルカは小声ですぐさま否定した。近くにちょこんと座っている姫二人をちらと見た。どこか放心しているような顔つきだった。すぐにでも寝てしまいたいが、空腹も堪えているため、ユウの帰りを待つしかなかった。言葉一つ話すのも頭と体力を使うため、何もせずじっとしているのが最善だった。ずっと周りに気遣いを見せていたアンリも、余裕がなくなっている。ハルカは労しげにそんな姉姫を眺めた。
 ユウがしばらくして戻ってきた。姫の前にナツメヤシを広げて、食べている間に火をつけて簡単なスープを用意した。敵に見つかる不安よりも、姫の体調を優先したのだった。ユウは実に素早く調理をし、六つの椀に分けた。周りは手際の良さに改めて感心してしまう。味も申し分なく、姫二人は噛み締めるように少しずつ口に含んだ。アマネはまだスープが底に残っているうちに、目を閉じて首を傾けた。アンリは見かねて妹からそっと椀を取り、横に寝かせた。微笑ましい光景ではあったが、明日は我が身でありとても笑っていられる状態ではなかった。男達も勢いよくスープを飲み干した。
「ユウ、ご馳走さまでした」
 アンリは丁寧に頭を下げた。
「ゆっくりお休みください」ユウはすぐさま畏まって応えてから、椀を受け取った。姉姫は申し訳なさそうに頷いてから、妹に寄り添うように横になった。
 男四人は誰も口を開くことなく、しばらく姫の寝息に耳を傾けていた。我に返ったように、レイが沈黙を破った。
「僕達も交代で休みましょう。いつも通り、ユウ様とハルカ様は先に寝てください」
 若い神官に気遣われている情けなさから、素直に頷けない二人だった。ただ、皆が譲り合ってしまえば、この話に決着がつかなくなってしまう。疲れた頭で答えを見つけるのは困難を極めた。
「今夜は俺が一人で見張る」
 ハルカは驚いて相棒を見てから、「嫌だ」と静かに呟いた。
「見れば分かる。皆疲れてるだろう」
 シュウトは淡々と、ありのままを口にした。
「先に休んで、回復したら交代してくれればいい」
 正論だったため、誰も何も言い返せなかった。シュウトは更にユウに向けて続ける。
「不審な動きがあればすぐに起こす」
 シュウトからは一切疲れがみられなかった。ユウは不思議そうに彼を眺めるしかなかった。
「何故そこまで言ってくださるんですか」
 レイがそっと訊ねた。シュウトはきょとんとしてしまった。
 少しどもりながらも、「一番良い策を考えただけだが…」と答え、ぶっきらぼうに続けた。
「夜はすぐに更ける。早く寝た方がいい」
 それぞれ感謝を口にしてから、目を閉じていった。ハルカだけは嬉しそうにふっと笑った。「優しいな」寝言のような頼りない言葉だったが、シュウトの胸にはしっとりと沁みていった。
 疲れもあっただろうが、今夜はシュウトに命を預けてくれるようだった。思い返せば初めてのことだった。ハルカは一人にはさせないと断固として言うだろうが、今感じるのは孤独ではなかった。王家の墓を守っていた時のような、存在を肯定してくれる者。シュウトがいなければ、彼らはゆっくり休む事は出来ない。こんな些細な事であっても、居てよかったのだと思えた。
 任務を全うしようと、耳を研ぎ澄まし辺りに注意を払った。あまりシュウトに馴染みのない、風が葉を撫でていく音や、鳥の鳴き声が遠くで聞こえる。月も見えにくいが、居心地悪くはなかった。呼吸を一つする度に、星が傾いていく気がした。
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