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第九章「海神編」
あの日の鼓草を探して
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『……いい?お兄ちゃん?』
「ああ……。」
俺は触れるか触れないかの状態で胸に抱いているライオネル殿下の無意識を見つめた。
こんなに小さい……。
俺はその事に打ちひしがれていた。
この人をここまで追い詰めてしまったのは、きっと自分だから……。
そんな俺に、何ができるのだろう?
そう思った。
ラニは何も言わなかった。
思いつめる俺を黙って見つめている。
そんな気がした。
『……お兄ちゃん。王子様はお兄ちゃんが思っているほど、弱くないよ……。』
「え?」
唐突に言われた言葉。
俺は少し面食らってしまった。
そんな俺にラニは言った。
『僕、たくさんの人の意識を見てきたけど、この人は凄く強い。だから今のお兄ちゃんが王子様の無意識に入ったら、飲まれるよ?』
意外な言葉だった。
ライオネル殿下はもう、自己の認識すら危うくなっていて消えようとしていて、こんなにも小さな無意識になってしまっていると言うのに、どういう事だろう?
よくわからなくて顔を上げる。
『……自分が弱い人はたくさんいる。いや、逆かな?現実でどう見えているかに関わらず、その人の中は……特に無意識の中は自我が脆くて弱いものなんだ。現実でどんな人であろうと、普通、誰しも本当は弱くて脆い存在なんだよ……。』
世界意識の中は薄暗く、どこまで続いているのかわからない。
そのどこにラニがいるのかも俺にはわからない。
けれど直接俺の頭の中に話しかける様なラニの声は静かに続けた。
『だから人の深層深部に降りるのはとても難しいんだ。一刻一刻で状況が変わる。自己が安定してないから……。でも、王子様は違った。普通の人よりずっと安定してた。だからそこまで気を張らなくてもすんなり降りれたんだよ。……僕、眠ってる王子様の姿や聞いた話から、きっとこれはとても難しい仕事になるって思ってた。でも違ったんだ。深層深部に降りようとしてみてわかった。この人はとても強い人だって……。』
ラニにそう言われ、俺はこれまでの事を思い出していた。
いつもふわふわした感じで夢見る乙女の様に見えるけれど、この人は一度こうと決めたら絶対に揺るがなかった。
そしてそれを実現させる行動力と判断力は物凄かった。
何度、俺はそれに驚かされたことだろう……。
そう思ったら、少し笑ってしまった。
周囲の反対など押さえ込む材料を用意して、有無を言わさず俺を自分の騎士にした。
正当法で上手く行かないからと、荷馬車に潜んで勝手に王宮を抜け出してきた事もあった。
長く無断欠勤をして立場が危うい時、俺ごとシルクを引き抜こうとした他の警護部隊なんかの申し出を頑として跳ね除けた。
南の国ではグレゴリウス王太子の横暴に最終的にはブチギレて、一国の王子として毅然とそれにやり返した。
南の国に政治的侵略を受けていた時だって、ガブリエル王太子と共にそれと戦った。
何よりこの人は、ずっと海神をその身に宿しながらも、決して自分を見失わなかったじゃないか。
その意識が奪われそうになれば、自分自身を切り捨ててまで、己が意思を突き通した。
ああ、そうだ。
忘れていた、この人は強い。
だってこの人は、青空の下で黄金に輝くたんぽぽなのだ。
儚く見えたって、その根はどんな植物より頑丈に地中深く根を貼り、真冬の寒さだって乗り越えてしまう鼓草なのだ。
凍てつく冬の中で死んだように見えたとしても、それは黙しているだけ。
春の風が吹けばその葉を持ち上げ、やがてまたその黄金色の美しい花を咲かせて、柔らかく風に揺れるのだ。
『……この人は強い人だよ、お兄ちゃん。』
「あぁ、知ってる。知ってるさ……。」
それを思い出して腕の中の無意識を見てみれば、確かにそれは他の無意識に比べてとても小さかったけれど、他のぼんやりとした存在の無意識とは違い、ぎゅっと濃縮されているだけで淡く輝いてそこにあった。
そこにその人の無意識があるのだと、確かな存在を放っていた。
『……なら、大丈夫。』
「あぁ、ありがとな、ラニ。」
『僕は何もしてないよ。』
「それでもありがとう。」
『……うん。』
絶望していたが、それは間違いだと気づかせてくれてありがとう。
この人の本当の顔を思い出させてくれてありがとう。
こんな状況だが希望はある。
その希望こそがライオネル殿下、その人自身だ。
この人がそう簡単に負ける訳がない。
あんなに華奢でおっとりしていて中性的なのに、こんなに芯の強い人がいるのかと驚かされてばかりだった。
今は凍てつく冬の中で仮死状態なだけだ。
春風を感じれば、必ず自らその身を起こすだろう。
「……問題は、俺が春風になれるかだなぁ……。」
そんな暖かくて優しい風になれるだろうか?
今まで殿下にしてきた仕打ちを考えると、なんか自信がない……。
『……なれるよ。多分。』
ラニはそう言った。
どこまでわかっているのかはわからない。
でも、その気持ちが嬉しかった。
『少なくとも、今、王子様が待ち焦がれている風は、お兄ちゃんにしか吹かす事ができないよ。』
「……そうだな。」
春風になれる自信はないが、ライオネル殿下を起こす風は俺にしか吹かないのは確かだろう。
だったらやるしかない。
ライオネル殿下の望む風になれるかはわからないが、とにかく起きずにはいられなくすればいいのだ。
「……行ってくるよ、ラニ。」
『うん。』
「殿下の事はどうにかする。だからラニは状況を見て動いてくれ。俺の事は構わなくていい。」
『でも……!!』
「大丈夫、ウニにもらった欠片もあるし。それにライオネル殿下が目覚めたら、殿下を通じて仮想精神空間にも繋がるんだろ??」
『そうだけど……。』
「うん。だからラニは俺から出て、ライオネル殿下に入っていてくれ。殿下が目覚めたらすぐに肉体の方に意識を繋げるように。」
『……わかった。お兄ちゃんが王子様の無意識に入って、突発的な事が起こらないのを確かめたら王子様の方に一旦、戻るよ。でも、お兄ちゃんは下手に動かないでね?!必ず迎えに来るから……!!』
「あぁ。わかった。」
俺はわかったと返事をしたが、状況を見て動こうと思っていた。
恐らくライオネル殿下が目覚めれば、海神の方にも変化が起こる。
無意識層に閉じ込められていたから今はおとなしくしていてくれているが、ライオネル殿下が表層意識に戻ったとなれば自分もそこに戻ろうとするだろう。
義父さんとの話し合いに納得してなら良いが、そうでないのなら前と変わらずライオネル殿下の精神に破滅的な負荷をかける事になる。
今回の事で殿下の精神体はかなり弱っている。
そこにまた海神という大きすぎる精神体が入ってしまったら、それこそ取り返しがつかなくなる可能性がある。
『……お兄ちゃん。』
心の片隅でそんな事を考えていた俺に、ラニが静かに声をかけてきた。
俺は顔を上げ、どこにいるかはわからないが俺の側にいるラニを見つめた。
『お兄ちゃん。僕の仕事は必要な全ての繋がりである「道」を作り安定させて保つ事、おじさんを精神世界に連れてくる事、そして王子様を含め、この「道」の中にある精神体、その全てを戻るべき場所に元通り戻す事だよ。』
ラニはそう言った。
それ以上でもそれ以下でもなく、そう言った。
その言葉の意味を俺は受け取った。
「……ああ、そうだな。」
少し見透かされていたかもしれない。
何しろここは精神世界だ。
そしてそのプロであるラニに、ここで隠し事をすると言うのは難しい話なのかもしれない。
『なら、お願いします。気をつけて。』
「ああ、行ってくる。全部終わったら、一緒に風呂に入って、旨いもん食おうな。」
俺がそう言うと、ラニは少し驚いた気配がした。
ニッと笑いかけるとラニも笑った。
『ふふっ、そうだね。ゆっくりお風呂に入って、美味しいもの食べようね、お兄ちゃん。』
少しだけゆとりの見えたラニに俺は頷き、そして手の中のライオネル殿下の無意識を見つめた。
『世界精神の中に入るほど深く落ちている無意識はどこよりも予測不可能な状態だと思う。現実にある常識も法則も一切意味を持たない。正直、僕も自我すら消えかけた個人の無意識がどうなっているのかわからないよ。』
「そうか、わかった。」
『だから、むしろお兄ちゃんが中を作り上げるくらいの気持ちでいいと思う。』
「作り上げる??」
『うん。中は不確定な世界だ。しかも王子様の自我は自分を認識できないほど無に近い。だから逆にそれを利用するんだ。お兄ちゃんが王子様に働きかけやすいよう意識を放出して、働きかけやすい状況を作っていくんだ。』
「そんな事して大丈夫なのか?!」
『確かにやり過ぎたら王子様の意識をより圧迫して無に近くするよ。加減はいると思う。でもお兄ちゃんは王子様の意識を助けようと働かきかけるから、意識がそこまで追い詰められるとは思わない。ただ無意識層は常識が通用しないから、良いと思った事が良くない場合も考えられるよ。だから多くを感じ取って、臨機応変に対応してみて。』
「……わかった、やってみる。」
『何より……お兄ちゃんがここまで来てくれたという事こそが、王子様にとって大きな風になると思う。』
「……うん。」
『お兄ちゃんに起こせなかったら、多分、誰にも起こせないよ。だって、王子様が待っているのは……他の誰でもなく、お兄ちゃんなんだから……。』
その言葉に、俺は胸が痛んだ。
どうしてライオネル殿下は俺を選んだんだろう?
どうして俺でなければいけなかったんだろう?
俺はそんな一途に思ってもらえるような人間じゃない。
この人の真っ直ぐな気持から逃げ回るような卑怯者なのに……。
『色々考えても仕方ないよ、お兄ちゃん。』
ラニがまた俺の心を覗いた様にそう言った。
俺は苦笑いして、ぼんやりと明るい世界無意識の中を見つめた。
「そうだな。反省会は後にしないとな。今は殿下に目覚めてもらう事に集中する。余計な事を考えているほど余裕がある訳じゃない。」
『うん……。』
俺はライオネル殿下の無意識を見つめた。
大丈夫、この人は強い。
まだ希望はある。
ずっと逃げ回っていたけど、今度こそ本当に、俺もきちんと殿下と向き合わなければ。
それがどんな結末になっても俺はもう逃げない。
スっとライオネル殿下の無意識に手を近づけた。
一瞬、抵抗するようにピクリと緊張が走る。
「殿下、ライオネル殿下、俺です。サークです……。」
そう呼びかけ、抱きしめるようにその無意識に触れた。
ライオネル殿下の無意識は、少し戸惑った後、音もなく俺の中に飛び込んできた。
「……………………。本当に何もない……。」
呟いた自分の言葉が耳の中で木霊する。
いや違う。
言葉そのものがこの場ではなく、俺の中だけに響いているのだ。
なるほど、音すらここには存在できないのか……。
それは真空に似ている。
音がそこにあっても、大気がないから振動させられなくて伝わらないのだ。
「……なら、まず大気を作ろう。」
このままではライオネル殿下に言葉を伝える事ができない。
ラニが呼びかけても応えなかったのは、音が届かなかったからなのかもしれないとふと思った。
イメージする。
そこに大気があって、風が流れるのを。
情報を使う事はできないので、そこに魔力を込めた。
ふわっと俺の周りから、そよ風のような動きが生まれ、周囲に広がる。
「……お~、伝わる伝わる。」
音が空気を振動させて周囲に届くように、自分の中だけで反響していた声が、音として耳から入った。
「?!」
すると、それに応えるようにどこかから僅かな風が吹いた。
ライオネル殿下だと俺は思った。
何もないように見えるが、殿下はここにいる。
その微かな息吹きが、空気を作った事で周囲を振動させたのだろう。
大丈夫、あの方はまだここにちゃんといらっしゃる。
下手に自我や意識が確立していないから、この中は無に近いだけで無秩序に情報や感情が入り乱れていない。
だからラニも俺を一人で入らせたのだろう。
入る人数が多ければ、それだけライオネル殿下の自我を圧迫してしまう。
複数の人間がいれば、それだけ思考や感情が多くなり複雑になる。
そして殿下は俺を無意識に待っているようだが、ラニはそうではない。
だから俺と一緒に異物が混入したような感覚になり、この中はおそらくもっと不安定になっただろう。
大気を想像したけれど、ここにあるのは今はそれだけだ。
俺は何もないその空間を見つめる。
ライオネル殿下はこんなところで、自分自身すら不確かになっているのだ。
それを思うと切なくなる。
殿下が最後に俺に言った言葉。
これが、私のあなたに対する愛なのだと……。
「……こんな……こんな寂しい愛、俺は受け取れません……。ちゃんと向き合おうとしなかった俺が悪い。でも、だからこそこんな形で終わらせたくないんです……。ライオネル殿下……。」
俺の気持ちは決まっていた。
でも何だかんだ理由をつけて、きちんと向き合ってこなかった。
時間を巻き戻す事はできない。
でも、ここには時間の概念はないのだ。
俺は上を見上げた。
何もないその場所に青空を想い描く。
あの日の様に青く澄んだ空を。
「それで……だ。」
俺は自分の横にトンっと手をついた。
何もなかったそこに、頑丈な城壁が現れる。
それは俺が手をついた所から、彼方まで続いていく。
王宮都市の外壁。
懐かしいその城壁を見つめ俺は笑った。
ライオネル殿下と出会った場所であり、かつての職場。
生涯、この城壁を見て過ごすんだと思っていた頃が懐かしい。
「……本当、随分遠くまで来たもんだ。」
俺はそこから歩き始める。
足を踏み出した先から、馴染んだ空間が生成されていく。
「案外、覚えてるもんだな……。」
あの頃、毎日歩いていたその場所が出来上がっていくのを見て少しおかしかった。
そんなに前の話ではないが、あの日からの日々が目まぐるし過ぎて、随分と昔の様な気がする。
けれど俺の中にそれは確かにあって、こうやって形作る事ができる。
俺が歩んできた軌跡。
そして新しい始まりが起こった場所。
ラッパの音が心の中に響き、それが外に漏れ出して周囲に鳴り響いた。
俺はあの日の様にのろのろ歩き、朝礼台の方に向かう。
移動式の舞台にはカーペットが敷かれ、その一角に立派な椅子が置かれていた。
俺が初めてライオネル殿下を見た景色。
総括のジェフさんが号令をかける後ろにその人はいたのだ。
舞台の上、その一角に設置された、このガサツな外壁警備隊には似つかわしくない天幕の下、俺の給料の何ヶ月分なんだろうと思う椅子に座り、その人は俺達をにこにこと見つめていた。
周りの奴らは美しいその人に色めきだって興奮していて、ちょっと面白かった。
俺はその人を見るより、そっちを見ていた気がする。
何ともまぁ、初めから失礼極まりない奴だったな、俺。
そんな事を思い苦笑いする。
だってその時はまさか、平民の俺がその人に強引に引き抜かれて騎士になるなんて思ってなかったのだから仕方がない。
俺はあの時と同じぐらいの場所に立った。
そして遠くからそこを見つめた。
見つめた先の椅子には、あのふんわりとした金色のたんぽぽの花が咲いていた。
「ああ……。」
俺は触れるか触れないかの状態で胸に抱いているライオネル殿下の無意識を見つめた。
こんなに小さい……。
俺はその事に打ちひしがれていた。
この人をここまで追い詰めてしまったのは、きっと自分だから……。
そんな俺に、何ができるのだろう?
そう思った。
ラニは何も言わなかった。
思いつめる俺を黙って見つめている。
そんな気がした。
『……お兄ちゃん。王子様はお兄ちゃんが思っているほど、弱くないよ……。』
「え?」
唐突に言われた言葉。
俺は少し面食らってしまった。
そんな俺にラニは言った。
『僕、たくさんの人の意識を見てきたけど、この人は凄く強い。だから今のお兄ちゃんが王子様の無意識に入ったら、飲まれるよ?』
意外な言葉だった。
ライオネル殿下はもう、自己の認識すら危うくなっていて消えようとしていて、こんなにも小さな無意識になってしまっていると言うのに、どういう事だろう?
よくわからなくて顔を上げる。
『……自分が弱い人はたくさんいる。いや、逆かな?現実でどう見えているかに関わらず、その人の中は……特に無意識の中は自我が脆くて弱いものなんだ。現実でどんな人であろうと、普通、誰しも本当は弱くて脆い存在なんだよ……。』
世界意識の中は薄暗く、どこまで続いているのかわからない。
そのどこにラニがいるのかも俺にはわからない。
けれど直接俺の頭の中に話しかける様なラニの声は静かに続けた。
『だから人の深層深部に降りるのはとても難しいんだ。一刻一刻で状況が変わる。自己が安定してないから……。でも、王子様は違った。普通の人よりずっと安定してた。だからそこまで気を張らなくてもすんなり降りれたんだよ。……僕、眠ってる王子様の姿や聞いた話から、きっとこれはとても難しい仕事になるって思ってた。でも違ったんだ。深層深部に降りようとしてみてわかった。この人はとても強い人だって……。』
ラニにそう言われ、俺はこれまでの事を思い出していた。
いつもふわふわした感じで夢見る乙女の様に見えるけれど、この人は一度こうと決めたら絶対に揺るがなかった。
そしてそれを実現させる行動力と判断力は物凄かった。
何度、俺はそれに驚かされたことだろう……。
そう思ったら、少し笑ってしまった。
周囲の反対など押さえ込む材料を用意して、有無を言わさず俺を自分の騎士にした。
正当法で上手く行かないからと、荷馬車に潜んで勝手に王宮を抜け出してきた事もあった。
長く無断欠勤をして立場が危うい時、俺ごとシルクを引き抜こうとした他の警護部隊なんかの申し出を頑として跳ね除けた。
南の国ではグレゴリウス王太子の横暴に最終的にはブチギレて、一国の王子として毅然とそれにやり返した。
南の国に政治的侵略を受けていた時だって、ガブリエル王太子と共にそれと戦った。
何よりこの人は、ずっと海神をその身に宿しながらも、決して自分を見失わなかったじゃないか。
その意識が奪われそうになれば、自分自身を切り捨ててまで、己が意思を突き通した。
ああ、そうだ。
忘れていた、この人は強い。
だってこの人は、青空の下で黄金に輝くたんぽぽなのだ。
儚く見えたって、その根はどんな植物より頑丈に地中深く根を貼り、真冬の寒さだって乗り越えてしまう鼓草なのだ。
凍てつく冬の中で死んだように見えたとしても、それは黙しているだけ。
春の風が吹けばその葉を持ち上げ、やがてまたその黄金色の美しい花を咲かせて、柔らかく風に揺れるのだ。
『……この人は強い人だよ、お兄ちゃん。』
「あぁ、知ってる。知ってるさ……。」
それを思い出して腕の中の無意識を見てみれば、確かにそれは他の無意識に比べてとても小さかったけれど、他のぼんやりとした存在の無意識とは違い、ぎゅっと濃縮されているだけで淡く輝いてそこにあった。
そこにその人の無意識があるのだと、確かな存在を放っていた。
『……なら、大丈夫。』
「あぁ、ありがとな、ラニ。」
『僕は何もしてないよ。』
「それでもありがとう。」
『……うん。』
絶望していたが、それは間違いだと気づかせてくれてありがとう。
この人の本当の顔を思い出させてくれてありがとう。
こんな状況だが希望はある。
その希望こそがライオネル殿下、その人自身だ。
この人がそう簡単に負ける訳がない。
あんなに華奢でおっとりしていて中性的なのに、こんなに芯の強い人がいるのかと驚かされてばかりだった。
今は凍てつく冬の中で仮死状態なだけだ。
春風を感じれば、必ず自らその身を起こすだろう。
「……問題は、俺が春風になれるかだなぁ……。」
そんな暖かくて優しい風になれるだろうか?
今まで殿下にしてきた仕打ちを考えると、なんか自信がない……。
『……なれるよ。多分。』
ラニはそう言った。
どこまでわかっているのかはわからない。
でも、その気持ちが嬉しかった。
『少なくとも、今、王子様が待ち焦がれている風は、お兄ちゃんにしか吹かす事ができないよ。』
「……そうだな。」
春風になれる自信はないが、ライオネル殿下を起こす風は俺にしか吹かないのは確かだろう。
だったらやるしかない。
ライオネル殿下の望む風になれるかはわからないが、とにかく起きずにはいられなくすればいいのだ。
「……行ってくるよ、ラニ。」
『うん。』
「殿下の事はどうにかする。だからラニは状況を見て動いてくれ。俺の事は構わなくていい。」
『でも……!!』
「大丈夫、ウニにもらった欠片もあるし。それにライオネル殿下が目覚めたら、殿下を通じて仮想精神空間にも繋がるんだろ??」
『そうだけど……。』
「うん。だからラニは俺から出て、ライオネル殿下に入っていてくれ。殿下が目覚めたらすぐに肉体の方に意識を繋げるように。」
『……わかった。お兄ちゃんが王子様の無意識に入って、突発的な事が起こらないのを確かめたら王子様の方に一旦、戻るよ。でも、お兄ちゃんは下手に動かないでね?!必ず迎えに来るから……!!』
「あぁ。わかった。」
俺はわかったと返事をしたが、状況を見て動こうと思っていた。
恐らくライオネル殿下が目覚めれば、海神の方にも変化が起こる。
無意識層に閉じ込められていたから今はおとなしくしていてくれているが、ライオネル殿下が表層意識に戻ったとなれば自分もそこに戻ろうとするだろう。
義父さんとの話し合いに納得してなら良いが、そうでないのなら前と変わらずライオネル殿下の精神に破滅的な負荷をかける事になる。
今回の事で殿下の精神体はかなり弱っている。
そこにまた海神という大きすぎる精神体が入ってしまったら、それこそ取り返しがつかなくなる可能性がある。
『……お兄ちゃん。』
心の片隅でそんな事を考えていた俺に、ラニが静かに声をかけてきた。
俺は顔を上げ、どこにいるかはわからないが俺の側にいるラニを見つめた。
『お兄ちゃん。僕の仕事は必要な全ての繋がりである「道」を作り安定させて保つ事、おじさんを精神世界に連れてくる事、そして王子様を含め、この「道」の中にある精神体、その全てを戻るべき場所に元通り戻す事だよ。』
ラニはそう言った。
それ以上でもそれ以下でもなく、そう言った。
その言葉の意味を俺は受け取った。
「……ああ、そうだな。」
少し見透かされていたかもしれない。
何しろここは精神世界だ。
そしてそのプロであるラニに、ここで隠し事をすると言うのは難しい話なのかもしれない。
『なら、お願いします。気をつけて。』
「ああ、行ってくる。全部終わったら、一緒に風呂に入って、旨いもん食おうな。」
俺がそう言うと、ラニは少し驚いた気配がした。
ニッと笑いかけるとラニも笑った。
『ふふっ、そうだね。ゆっくりお風呂に入って、美味しいもの食べようね、お兄ちゃん。』
少しだけゆとりの見えたラニに俺は頷き、そして手の中のライオネル殿下の無意識を見つめた。
『世界精神の中に入るほど深く落ちている無意識はどこよりも予測不可能な状態だと思う。現実にある常識も法則も一切意味を持たない。正直、僕も自我すら消えかけた個人の無意識がどうなっているのかわからないよ。』
「そうか、わかった。」
『だから、むしろお兄ちゃんが中を作り上げるくらいの気持ちでいいと思う。』
「作り上げる??」
『うん。中は不確定な世界だ。しかも王子様の自我は自分を認識できないほど無に近い。だから逆にそれを利用するんだ。お兄ちゃんが王子様に働きかけやすいよう意識を放出して、働きかけやすい状況を作っていくんだ。』
「そんな事して大丈夫なのか?!」
『確かにやり過ぎたら王子様の意識をより圧迫して無に近くするよ。加減はいると思う。でもお兄ちゃんは王子様の意識を助けようと働かきかけるから、意識がそこまで追い詰められるとは思わない。ただ無意識層は常識が通用しないから、良いと思った事が良くない場合も考えられるよ。だから多くを感じ取って、臨機応変に対応してみて。』
「……わかった、やってみる。」
『何より……お兄ちゃんがここまで来てくれたという事こそが、王子様にとって大きな風になると思う。』
「……うん。」
『お兄ちゃんに起こせなかったら、多分、誰にも起こせないよ。だって、王子様が待っているのは……他の誰でもなく、お兄ちゃんなんだから……。』
その言葉に、俺は胸が痛んだ。
どうしてライオネル殿下は俺を選んだんだろう?
どうして俺でなければいけなかったんだろう?
俺はそんな一途に思ってもらえるような人間じゃない。
この人の真っ直ぐな気持から逃げ回るような卑怯者なのに……。
『色々考えても仕方ないよ、お兄ちゃん。』
ラニがまた俺の心を覗いた様にそう言った。
俺は苦笑いして、ぼんやりと明るい世界無意識の中を見つめた。
「そうだな。反省会は後にしないとな。今は殿下に目覚めてもらう事に集中する。余計な事を考えているほど余裕がある訳じゃない。」
『うん……。』
俺はライオネル殿下の無意識を見つめた。
大丈夫、この人は強い。
まだ希望はある。
ずっと逃げ回っていたけど、今度こそ本当に、俺もきちんと殿下と向き合わなければ。
それがどんな結末になっても俺はもう逃げない。
スっとライオネル殿下の無意識に手を近づけた。
一瞬、抵抗するようにピクリと緊張が走る。
「殿下、ライオネル殿下、俺です。サークです……。」
そう呼びかけ、抱きしめるようにその無意識に触れた。
ライオネル殿下の無意識は、少し戸惑った後、音もなく俺の中に飛び込んできた。
「……………………。本当に何もない……。」
呟いた自分の言葉が耳の中で木霊する。
いや違う。
言葉そのものがこの場ではなく、俺の中だけに響いているのだ。
なるほど、音すらここには存在できないのか……。
それは真空に似ている。
音がそこにあっても、大気がないから振動させられなくて伝わらないのだ。
「……なら、まず大気を作ろう。」
このままではライオネル殿下に言葉を伝える事ができない。
ラニが呼びかけても応えなかったのは、音が届かなかったからなのかもしれないとふと思った。
イメージする。
そこに大気があって、風が流れるのを。
情報を使う事はできないので、そこに魔力を込めた。
ふわっと俺の周りから、そよ風のような動きが生まれ、周囲に広がる。
「……お~、伝わる伝わる。」
音が空気を振動させて周囲に届くように、自分の中だけで反響していた声が、音として耳から入った。
「?!」
すると、それに応えるようにどこかから僅かな風が吹いた。
ライオネル殿下だと俺は思った。
何もないように見えるが、殿下はここにいる。
その微かな息吹きが、空気を作った事で周囲を振動させたのだろう。
大丈夫、あの方はまだここにちゃんといらっしゃる。
下手に自我や意識が確立していないから、この中は無に近いだけで無秩序に情報や感情が入り乱れていない。
だからラニも俺を一人で入らせたのだろう。
入る人数が多ければ、それだけライオネル殿下の自我を圧迫してしまう。
複数の人間がいれば、それだけ思考や感情が多くなり複雑になる。
そして殿下は俺を無意識に待っているようだが、ラニはそうではない。
だから俺と一緒に異物が混入したような感覚になり、この中はおそらくもっと不安定になっただろう。
大気を想像したけれど、ここにあるのは今はそれだけだ。
俺は何もないその空間を見つめる。
ライオネル殿下はこんなところで、自分自身すら不確かになっているのだ。
それを思うと切なくなる。
殿下が最後に俺に言った言葉。
これが、私のあなたに対する愛なのだと……。
「……こんな……こんな寂しい愛、俺は受け取れません……。ちゃんと向き合おうとしなかった俺が悪い。でも、だからこそこんな形で終わらせたくないんです……。ライオネル殿下……。」
俺の気持ちは決まっていた。
でも何だかんだ理由をつけて、きちんと向き合ってこなかった。
時間を巻き戻す事はできない。
でも、ここには時間の概念はないのだ。
俺は上を見上げた。
何もないその場所に青空を想い描く。
あの日の様に青く澄んだ空を。
「それで……だ。」
俺は自分の横にトンっと手をついた。
何もなかったそこに、頑丈な城壁が現れる。
それは俺が手をついた所から、彼方まで続いていく。
王宮都市の外壁。
懐かしいその城壁を見つめ俺は笑った。
ライオネル殿下と出会った場所であり、かつての職場。
生涯、この城壁を見て過ごすんだと思っていた頃が懐かしい。
「……本当、随分遠くまで来たもんだ。」
俺はそこから歩き始める。
足を踏み出した先から、馴染んだ空間が生成されていく。
「案外、覚えてるもんだな……。」
あの頃、毎日歩いていたその場所が出来上がっていくのを見て少しおかしかった。
そんなに前の話ではないが、あの日からの日々が目まぐるし過ぎて、随分と昔の様な気がする。
けれど俺の中にそれは確かにあって、こうやって形作る事ができる。
俺が歩んできた軌跡。
そして新しい始まりが起こった場所。
ラッパの音が心の中に響き、それが外に漏れ出して周囲に鳴り響いた。
俺はあの日の様にのろのろ歩き、朝礼台の方に向かう。
移動式の舞台にはカーペットが敷かれ、その一角に立派な椅子が置かれていた。
俺が初めてライオネル殿下を見た景色。
総括のジェフさんが号令をかける後ろにその人はいたのだ。
舞台の上、その一角に設置された、このガサツな外壁警備隊には似つかわしくない天幕の下、俺の給料の何ヶ月分なんだろうと思う椅子に座り、その人は俺達をにこにこと見つめていた。
周りの奴らは美しいその人に色めきだって興奮していて、ちょっと面白かった。
俺はその人を見るより、そっちを見ていた気がする。
何ともまぁ、初めから失礼極まりない奴だったな、俺。
そんな事を思い苦笑いする。
だってその時はまさか、平民の俺がその人に強引に引き抜かれて騎士になるなんて思ってなかったのだから仕方がない。
俺はあの時と同じぐらいの場所に立った。
そして遠くからそこを見つめた。
見つめた先の椅子には、あのふんわりとした金色のたんぽぽの花が咲いていた。
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平凡ワンコ系が憧れの幼なじみにめちゃくちゃにされちゃう話(小説版)
優狗レエス
BL
Ultra∞maniacの続きです。短編連作になっています。
本編とちがってキャラクターそれぞれ一人称の小説です。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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