欠片の軌跡⑤〜あらがう者たち

ねぎ(塩ダレ)

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第八章②「敵地潜入」

逆三日月

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夜更けになって登る細い月を、ギルは自室のバルコニーから眺めた。

もうずっと寝付きが悪い。

別に徹夜が続こうが平気な体質だが、寝なければいけない時に眠れないと言うのは、長い部隊生活の中でそうそう経験した事がない。
よく寝付けないという隊員を見たが、こんなにもジリジリと重くのしかかるものだとは思っていなかった。

執事長が心配して、薬や魔術医・魔法医を呼ぶ事を勧めてくれたが、どうも気が乗らない。
眠れないなら薬や魔術などで寝てしまえばいいと合理的に考えていた自分が嘘のようだった。

寝付けないというのは、精神的な影響が大きい。

その精神的な影響が、物理的に無理矢理眠りに持っていく事を拒絶しているのだ。
今更ながら、人の心というものは繊細なんだなと思う。
常に数式の様に、現象から求める結果を得る為に手段を考えて行ってきたのに、今はそれでは割り切れなくて持て余す。

先日、見舞いに行った臨月のサムは、そんな俺を「随分、人間らしくなったじゃない」と言って豪快に笑っていた。

見慣れていたサムは、腹が出ていたせいか会った事のない貴婦人の様に美しかった。
剣を握り、男顔負けの豪腕を振るっていた時とは、また違った美しさだった。
内側からにじみ出す様な、慈愛と包容力が彼女を輝かせていた。
綺麗になったなと言ったら、何それ、嫌味?と笑われた。
思ったままを伝えたのだが、どうやら妊娠中の女性は、体型も変わり身なりにあまり気遣えないから、そんな事を言われても嫌味かと思うらしかった。

「でもありがと。ギルがそんなお世辞を言えないのは知ってるから、本心なのよね。知ってるわ。凄く嬉しいけど、ちょっと驚いた。そんな感性も出てきたのね。あなた。」

そう言って笑う顔は、母親そのものだった。
そんな感性も出てきたと言われると言う事は、俺はそれまで、そういうもののない人間に見えたのだろう。
確かに何かを見て美しいとか、それに気持ちを惹かれたり、言葉にするほど意識したりする事はそれまでなかった気がする。

何が自分を変えたのだろう?
その心当たりは十分すぎるほどあった。

1つの風と、1つの花だ。

俺から見ればちっぽけで、落ち着きがなくて、あっちこっちにぴょんぴょん移動しては、旋風を起こして周りを巻き込んでぐるぐる回る。
そんなものに自分も巻き込まれたのだ。
それは端的に回っていた自分の世界に混乱を生み出す。

混乱が混沌と新世界を見せてくれた。

絶望と希望、欲望と渇望、衝動と安息。
異なる全てが実は同じものなのだと知った。
時計の針が進むように無機的に進んできた自分の年月に、いきなり季節という不確かな時の流れを吹き込んできたのだ。

そしてそれは、1つの花を運んできた。

旋風に巻き込まれて混乱する俺は、その花を見て美しいと思った。
その花は甘く香り高く、そして孤高で棘があった。
その香りと美しさで周囲を誘惑するのに、近づけば棘を容赦なく刺す、そんな花だった。

見ている分には申し分ない花。
だが近づくには身を切る覚悟がいる花。

だがそんな花自身は思いの外、純真だった。
野性的で、本能的で、そこに嘘がない。

その生々しい強さと孤独に引き込まれた。
虫がその香りに誘われて引き込まれ、蜜に溺れて行くように、俺は生まれて初めて愛欲に溺れた。
そして同時に、棘が心身を切り裂いた。

花は笑った。
涙を流して笑った。

花もまた、自身の棘で傷だらけだったのだ。

俺達は、その蜜と傷の痛みを分かち合った。
それが世界の全てだと思った。

風を愛している。
でも花より特別なものなど、この世に存在していない。
花を失う事は、自分の世界の全てを失う事と同じだ。

だから恐ろしいのだ。

いつか花を失う時が来る事が。
そしてそれは、必ず訪れる事だからだ。


そして今、花はここにはない。


風も吹いていない。
花も咲いていない。

それがここまで自分に影響を与えるとは思わなかった。
状況は理解している。
そうすべきだった事もわかっている。
今、何をすべきかも知っている。
頭ではわかっている。

だが、心がついてこない。

一度知ってしまった季節という風の流れ。
甘く切ない花の香りとその蜜と、激しくも穏やかな性を、心が求めている。

失わない為にそうしたのに、もうこれ以上、ニつのない状況に耐えられそうもない。

こんなにも枯渇するなら、色のないモノクロの時計の針の上にいれば良かった。
そうすれば全て単純に答えがあったのに、行動と結果を淡々と繰り返して行けたのに、今はそれができない。

頭ではわかっている。
これはその結果を得る為の過程であって、そこに向かってきちんと土台は積み上がっているのだ。
答えだってじきに出る。
多くのものがその結果の為に動き、集まっている。
答えはすぐ目の前まで来ているのだ。
もう少し待てば結果が出るのだ。

なのに……。

ギルは深くため息をついた。
焦燥感が胸を焼いて抑えられない。
どんなに準備したって冷静さを欠けば完璧な結果を得られなくなるというのに、それをどんなに頭でわかっていても抑えられないのだ。

もう待てない。
心が乾いて死んでしまう。

自分にそんな感情があった事に驚く。
完璧な騎士である事の為に、全てをかけたというのに、今の自分は完璧ではない。

不完全で不確かで、脆く儚い。
強くなる為にたくさんの苦行を自分に課し、乗り越えてきたのに全て壊れてしまった。

だが、それに後悔はない。

壊れたものを見てみれば、自分がどんなに小さな世界でそれを誇っていたかわかった。

世界は広い。

たくさんの色があって、無秩序で不合理で、音が鳴り響き、騒がしく息づいている。
その混沌とした全てが今は愛おしい。
その中で翻弄されている事に、生きている意味を感じる。

そう、生きている意味だ。

それがモノクロだった人生に色をつけ、世界を変えた。
新しく見た世界に戸惑いながらも、それを愛している。

でも、どんなに愛していても、広い世界に一人では寂しい。
目まぐるしく季節を運ぶ風が吹き、そこに花が咲いていて、それを愛でている事が何よりも幸福だったのだ。

自分だけの花。
何よりも愛しい花。

ふわりと頬をかすめた夜風に、愛しい花の香りが微かに混ざっていた気がした。

体が熱くなる。
そんな熱を持て余す夜を何度越えただろう?

かつては自慰も上手くできなかった。
それは完璧な騎士であろうと思う無意識の呪縛だとサークは言った。
そんなものは簡単に取れないとも言った。
教えられてから、少しずつそれを外す事を意識した。

そんな時だった。
シルクが現れたのは。

衝撃だった。

あの甘い香り。
はじめはなんとなく感じていたが、意識すればするほど、どんどん強く感じた。
むせ返るような甘い香りに意識が飲まれる。
してはならない事だと思いつつ、それを思い返して自分を慰めた時、いとも簡単に果てた。

驚いた。
本当に衝撃的だった。
今までの苦しみが何だったのだろうと思った。

だが、同時に罪悪感にも苛まれた。

恋人でもない。
一方的に思いを寄せているだけなのに、そんな事をしてしまった上、果ててしまった。
騎士道に反して肉欲に想う人を利用してあまつさえ果てた事が、自分の中で処理しきれず、だからといって想いを止める事もできず、ただ翻弄され持て余した。

そこにシルク本人が望まない性の本能を垣間見てしまった。

抑えがたい衝動が体内をかけ巡った。
もう、騎士道どうの言っている場合ではなかった。
例えそれに反していようと、衝動を抑える必要があった。
日々、その熱を捨ててしまわなければ、あの甘い香りに理性を失ってしまう。
本能のまま欲望を押し付ける事は、相手を傷付け、取り返しのつかない事になる。
だから日々、あの香りを想って熱を逃し、その香りと距離を置く事だけで精一杯だったのだ。

だが、蓋を開けてみれば、その衝動に苦しんでいたのは自分だけではなく、シルクも同じだった。
俺にはわからないが、シルクもまた、俺の香りに翻弄され苦しんでいた。

それを分かち合った時、この世の物とは思えないほどの快楽と、世界の全てから祝福を受けたような幸福感に満たされた。

それを伝えると「つがい」だからだとシルクは言った。
その意味はわからなかったが、世界で唯一の相手というのは、するりと納得がいった。

俺がそれまで、自慰すらまともに行えなかった事をサークは騎士道精神のせいだと言ったが、俺はつがいであるシルク以外にそのような事をしないように、いつか出会う唯一の相手を待つ為に、無意識に抑制していたのではないかと思った。
そしてそんな非現実的な考えをする自分が少しおかしかった。

「……参ったな。ここまでとは……。」

延々と、今はそこに居ない花を想う。

体が熱い、熱くて仕方がない。
もうどれくらいあの花に触れていないのだろう?
唯一の人と、どれだけ愛を交わしていないのだろう?

ギルはバルコニーの手すりに肘を付き、頭を抱えた。
今日くらい、あの花を想って自分を慰めてもバチは当たらないだろう。
でないと乾いて死んでしまう。

そう思ってベッドに向かおうと振り向いた時、ギルは突然、何者かに腕を引かれた。

全く気配を感じなかった。

だが冷静にそれを振りほどこうと動いた。
何者かは知らないが、そう簡単に刺客にやられる自分ではない。
長々と自分を鍛える為に苦行を繰り返してきたのだ。

しかし、反撃したはずなのに相手は掴みどころなく、するりと逃げる。
そしてドンッと体制を崩され、ベッドに組み敷かれた。

花の、甘い香りがした。



「夜這いに来たよ?ギル……。」



鍛えぬいた自分を出し抜ける人間を、ギルは数人しか知らない。

その一人。

その一人である男が、自分に馬乗りになって怪しく笑う。

細い月の微かな夜明かりの中、褐色の肌が艶かしく香る。
白い髪がやけに鮮明に夜闇に浮かび上がっていた。
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