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雨の日

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美緒の弟健太も事故で亡くなっていた。健太が亡くなったのは母が勤め始めて一カ月になろうとしていた頃だ。ちょうど今くらいの季節で今日のように雨が降っていた。
その日、美緒は宿題を忘れて先生に叱られ、些細な事で友人とけんかした。おまけに帰り道で転んでひざをすりむいていた。
 しとしと雨の降る少し肌寒い黄昏時、いつもならとっくに母が帰って来る時間だった。健太は真新しいランドセルと黄色い帽子を放り出して四階の窓から外を眺めている。窓からは母が帰って来る道がよく見えた。
「ママ遅いね。僕、お腹がすいちゃった」
 美緒はふり返りもしなかった。いつの間にか健太がそばに来ていた。そして、美緒の手を引っぱりながら
「ねえ、駅まで、ママを迎えに行かない」
 美緒はその手を振り払って
「もう帰って来るでしょ。静かにしてよ」
 自分でも驚くくらい大きな声で厳しい言葉がでた。健太はびっくりしてちょっと泣き出しそうだ。小学生になったばかりの健太の悲しそうな様子に美緒はちょっと後悔した。その時だった。健太は明るく宣言した。
「僕、駅まで行ってくるよ」
「暗くなると危ないから、出ちゃダメでしょ。それにきっともう帰って来るわ」
「すぐ戻るから」
 健太の走り去る足音がした。雨だけでなく風も強くなり始めていた。美緒は健太の後を追いかけようか少し迷ったが、すぐに戻ると言ってたからいいやと自分に言い訳をしてベットに横たわって漫画を読み始めた。
――健太にとっても駅までは通学路だし、入学してだいぶたっているから一人でも平気だろう。摺りむいたひざも痛いし。
 言い訳して美緒は健太の後を追わなかった。
 五分いや十分ほどして近くで救急車のサイレン音が響いた。雨の音に交じってざわざわと人々の声がしたようだった。
 事故かしらと美緒は思った。
健太はなかなか戻らなかった。駅まで十分程もかからないのに一時間近く経っても帰ってこない。おまけに、母も帰ってこなかった。
 胸騒ぎがして駅まで健太を迎えに行こうとした時だった。近所に住む祖母があわてた様子で玄関から駆け込んできた。
「美緒ちゃん、これから病院に行くよ」
 駅前の横断歩道を渡っていた健太は信号無視した車にはねられて頭を強く打った。健太の小さな体はたくさんの管をつながれていた。そうして死んだように病院のベットに横たわっていた。頭に巻かれた包帯に少し血がにじんでいるのが痛々しかった。
母は健太の手を握りしめていた。美緒をチラッと見ると無言ですぐ健太の方を向いた。
「ママ、あの」
 祖母が手を引いた。そして口元に指をおいて静かにするようにうながした。振り返りもしない母の背中は灰色の高い壁のように思われた。美緒は祖母の手を強く握りしめ、うなだれてその場に立ちすくんだ。
 次の日から、父と母は交代で健太の様子を見に行った。美緒だけは祖母の家に預けられベットに横たわった健太に会うことはできなかった。
「あの時後を追いかけていたら。健太の事故は私のせいだ」
 美緒は泣きじゃくって、祖母にしがみついていた。何も言わずに背中を撫でてくれる祖母の手は温かかった。
 その時だった。健太の姿が美緒達の前に現れた。
――健太が会いに来た。
二日ぶりに会った健太の目からは涙が流れていた。
「健太」
 そう叫んだ時だ。何か言おうとしたのか健太の口元が動いたような気がした。
「おばあちゃん、健太が、健太が」
 祖母にも健太の姿が見えたらしい。
「会いに来てくれたんだね」
 そういって祖母は美緒を抱きしめた。事故から二日して健太は息を引き取った。健太はきっと苦しかったに違いない。それでも生きようと二日間も頑張ったのだ。
美緒たちの前に健太が現れたのはちょうど亡くなった時刻だった。健太の口元は動いていた。
――何を言おうとしたんだろう。何を言いたかったんだろう。
 何度も繰り返し考えた。
――お姉ちゃん、何故止めてくれなかったの、どうして一緒に来てくれなかったの。
 そういいたかったに違いないとうつむいた時、美緒の手の甲に涙の粒が落ちていた。
 健太の遺体が家に戻った夜の事だった。健太は今にも立ち上がって話し始めそうだった。
母は「私が勤めに出ていなければ」と泣き崩れていた。父はそっと「運命だったんだ」と母の肩に手をのせた。美緒のそばには祖母が寄り添ってくれたが、母は健太だけを見つめていて父はそんな母を気遣うだけだった。
――パパ,ママ。美緒も悲しいよ。美緒もここにいるんだよ。
美緒はお通夜の時も葬儀の時もただ茫然としていた。健太が死んだことも現実と思えない。ただ、棺が荼毘に付され(火葬され)健太が骨になった時静かに涙が流れ落ちた。健太はとても小さな骨壺になって帰ってきた。遺影の健太は笑っている。入学式の朝とった写真だ。花瓶にはカサブランカが飾られていた。骨壺は小さくて健太だと思う事は出来なかった。美緒は昼間涙を見せなかった。夜ベットに入るといつの間にか涙が出てきた。そんな美緒を両親は少し冷ややかに見ていた。葬儀が終わっても母は勤めを休んでいた。やがて仕事を辞めて家にいるようになった。美緒は毎日色のない世界で過ごしていた。
――私が止めていたら、いや一緒に行ってあげれば。何度も何度もその言葉が繰り返し浮かんできた。
「私が悪いんだ」と繰り返し食事や睡眠も十分とれずに父と母を心配させた。
 三人家族になった美緒は時間が経っても以前のように笑うことが無くなった。父も母も美緒も健太との思い出の詰まった部屋で暮らすのは辛過ぎた。健太の思い出の詰まったマンションを引き払って三人は祖母の家に同居することになった。
 祖母は三人を迎えるためにずいぶん苦労して家を整えていた。ずっとそのままにしていた祖父の部屋は和室から洋間に変わってすっかり面影はなかった。南向きのその部屋はこの家で一番居心地の良い部屋だからと父と母の為に用意した。一階の和室は祖母の部屋になって、美緒ためには母が子供の頃使っていた部屋が準備されていた。キッチンのトイレも浴室もすっかり新築のように改装してある。叔父が学生の頃使っていた部屋は父の書斎にしつらえてある。外壁も白く塗り替えてあった。壁紙にも浴室の色合いにも祖母の心遣いが感じられた。美緒達は次第に落ち着きを取り戻していった。残された家族は四十九日、一周忌と仏事を行ううち、やっと少しずつ健太の死を受け入れていった。美緒にはお経の意味は分からなかったが、お経特有の旋律と線香、白檀の香りが不思議に心を穏やかにしてくれた。お経や線香は死者だけの為ではなかった。残された家族に愛する人の死を受け入れ生きる力を与えてくれた。少なくとも美緒達に生きる気力を取り戻させてくれた。
 そのころはやっと以前の日常が戻ってきたと思っていた。けれど、それが間違えだと気づくまでそんなに時間はいらなかった。健太を失った苦しみはその後さらに深くなった。愛する家族を失った喪失感は心の中に広がっていく。そして決して消せない黒い染みように広がっていった。やがて、残された家族は理解できない喪失感に包まれていく。美緒たちは光のない迷いの森を出口を求めて永遠に彷徨っていた。
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