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1話
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「あ、大丈夫ですよ、私のことはどうぞお気になさらずお続け下さい」
「そうだ気にすることはない、アリーシャのことは居ない者として扱ってくれ。どうせ元々、影が薄いのだからな」
「そう言われましても、やはり側に居られると気になりますわ」
「そうか、だったらアリーシャ、お前はこの夫婦の寝室から出て行ってくれ」
「承知しました。まあ、気には、なるのですね。今度の方は常識があって何よりです。では失礼いたします」
と言って扉の外に出ると、侍女のカンナがちょうど通りかかった。
「奥様、どちらに行かれるのですか?」
「旦那様から夫婦の寝室から出て行けと言われましたので私はお散歩にでも行こうかと」
「もしかしてまた、中に女性が居るのですか? このお屋敷の奥様はアリーシャ様なのですよ」
カンナは憤慨した様子だ。
その姿に私はふっと笑みが溢れた。
「カンナ、怒ってくれてありがとう。でも私は大丈夫。さあ、一緒にお散歩にでも行きましょうか」
そう誘うと、彼女は深いため息をついた。
「まったく、奥様はいつもそうして笑っておられるのですから」
そう言って呆れた顔をしている。
しばらくして屋敷へ戻ると、旦那様が居間でくつろいでいた。
私は旦那様に尋ねてみた。
「先程のご夫人は、もうお帰りになられたのですか?」
「ああ、先ほどな」
「そうですか……では旦那様、突然のお願いなのですが、離れの小屋を改装して、私の住まいにしてもよろしいでしょうか?」
「ん? 急だな。別に構わんが、無駄遣いはするなよ」
「はい。できるだけ節約いたしますが、まあ、必要経費というものですわ」
「必要経費? なぜそうなる」
「だって、ご婦人方がお見えになるたび、同じ寝室に私がいれば、旦那様に妙な趣味がおありだと誤解されかねませんもの」
「なるほど、ふむ。確かに、それは一理あるな」
旦那様は軽く頷き、それから少し笑みを浮かべて言った。
「変な趣味、か。はは、なるほど。そう見えるのか」
私は心の中でそっと呟いた。
(ええ、旦那様、世間ではそれを《悪趣味》と呼ぶのですよ)
そして翌日、私は早速、離れの小屋の改装に取りかかった。
(湯浴みだけは本宅に行かないと無理ね。でも、それ以外は大抵のものが揃っているわ)
独り言を漏らしながら掃除をしていると、カンナが黙々と手伝ってくれた。
だけど建て付けとなると素人では手に負えないので、業者を呼ぶことにした。
「まあ、この程度なら必要経費の範囲内よね」
私が言うと、カンナが突然、真剣な顔で怒っている。
「奥様‥‥本当に悔しくないのですか? 旦那様が毎回、別の女性を連れ込むなんて!」
私は微笑みながら、彼女を見つめた。
「カンナ、あなたには話しておいた方がいいわね」
そう言って、私はこれまで語らなかった自分の過去を少しずつ話し始めた。
実家の伯爵家では、継母の虐げに耐える日々だったこと。
使用人同然に扱われ、その上、食事を抜かれることもしばしばだったこと。
そして何より、湯浴みを禁じられ、寒い冬の日も冷たい水で身体を拭いていたこと。
話し終えると、カンナの顔は怒りに染まっていた。
「そんなこと、出るところに出れば何とか、いいえ、私が代わりに言いふらしてやります!」
「もういいのよ、過ぎたことだから。それに、今はあなたがいてくれる。それだけで幸せなの」
「いいえ! こんなの、幸せだなんて言えません!」
カンナは涙をこらえるように唇を噛みしめていた。
私は苦笑して肩をすくめた。
「それにね、この結婚は最初から条件付きなの。旦那様のなさることには一切口を出さない。その代わり、支度金もいらない、むしろ援助金を頂いたの」
「援助金? それは奥様が直接受け取ったのですか?」
「ええと……まあ、正確には違うのだけど……」
言葉を濁すと、カンナは眉をひそめた。
「つまり、援助金は誰か別の人が受け取り、旦那様は世間の目を欺くためだけに奥様と結婚なさった、そういうことですね!」
「……まあ、そうなるのだけれど、でも全ては承知の上での結婚なのよ」
私はカンナに微笑み、続けた。
「だって今は、好きなだけ本が読めるの。図書室がある屋敷にいられるなんて、夢のようじゃない?」
「奥様がそう仰るなら、私はそれを尊重いたします。でもそれでも、奥様はこのお屋敷の立派な女主人です。その自覚だけはお忘れなく」
そう言って、カンナはようやく渋々ながらも納得してくれた。
「ありがとう、カンナ。私のことなのに、いつも本気で怒ってくれて。でもね、今は本当に幸せなのよ、あなたが側にいてくれるから」
「もう、奥様は、いつもそうやって話を逸らすのですから」
カンナが微笑むと、私の胸の奥にも温かいものが灯った。
だけど彼女は、すぐに真剣な眼差しになった。
「でも、悔しいんです。奥様、本当はお化粧をして着飾れば誰よりも美しいのに。その黒縁の大きな眼鏡、どうにかなりませんか?」
私は思わず吹き出してしまった。
「駄目よ。もし旦那様にその気になられたら、それこそ大変だもの」
「たしかに。それもそうですね。では奥様の身を守るためと思って我慢いたします」
「ふふっ。ありがとう、カンナ」
私は少し声を弾ませ笑顔を向けた。
「ねえ、これから街へ買い物に行きましょう。離れで使うものを色々揃えたいの」
「でしたら、最近評判のアムール商会がよろしいかと。お洒落で素敵な品が揃っております」
「まあ、楽しみね。では決まりね」
そう言って、私たちは仲良く並んで屋敷を後にした。
穏やかな午後の日差しの中、風が二人の頬を通り過ぎた。
「そうだ気にすることはない、アリーシャのことは居ない者として扱ってくれ。どうせ元々、影が薄いのだからな」
「そう言われましても、やはり側に居られると気になりますわ」
「そうか、だったらアリーシャ、お前はこの夫婦の寝室から出て行ってくれ」
「承知しました。まあ、気には、なるのですね。今度の方は常識があって何よりです。では失礼いたします」
と言って扉の外に出ると、侍女のカンナがちょうど通りかかった。
「奥様、どちらに行かれるのですか?」
「旦那様から夫婦の寝室から出て行けと言われましたので私はお散歩にでも行こうかと」
「もしかしてまた、中に女性が居るのですか? このお屋敷の奥様はアリーシャ様なのですよ」
カンナは憤慨した様子だ。
その姿に私はふっと笑みが溢れた。
「カンナ、怒ってくれてありがとう。でも私は大丈夫。さあ、一緒にお散歩にでも行きましょうか」
そう誘うと、彼女は深いため息をついた。
「まったく、奥様はいつもそうして笑っておられるのですから」
そう言って呆れた顔をしている。
しばらくして屋敷へ戻ると、旦那様が居間でくつろいでいた。
私は旦那様に尋ねてみた。
「先程のご夫人は、もうお帰りになられたのですか?」
「ああ、先ほどな」
「そうですか……では旦那様、突然のお願いなのですが、離れの小屋を改装して、私の住まいにしてもよろしいでしょうか?」
「ん? 急だな。別に構わんが、無駄遣いはするなよ」
「はい。できるだけ節約いたしますが、まあ、必要経費というものですわ」
「必要経費? なぜそうなる」
「だって、ご婦人方がお見えになるたび、同じ寝室に私がいれば、旦那様に妙な趣味がおありだと誤解されかねませんもの」
「なるほど、ふむ。確かに、それは一理あるな」
旦那様は軽く頷き、それから少し笑みを浮かべて言った。
「変な趣味、か。はは、なるほど。そう見えるのか」
私は心の中でそっと呟いた。
(ええ、旦那様、世間ではそれを《悪趣味》と呼ぶのですよ)
そして翌日、私は早速、離れの小屋の改装に取りかかった。
(湯浴みだけは本宅に行かないと無理ね。でも、それ以外は大抵のものが揃っているわ)
独り言を漏らしながら掃除をしていると、カンナが黙々と手伝ってくれた。
だけど建て付けとなると素人では手に負えないので、業者を呼ぶことにした。
「まあ、この程度なら必要経費の範囲内よね」
私が言うと、カンナが突然、真剣な顔で怒っている。
「奥様‥‥本当に悔しくないのですか? 旦那様が毎回、別の女性を連れ込むなんて!」
私は微笑みながら、彼女を見つめた。
「カンナ、あなたには話しておいた方がいいわね」
そう言って、私はこれまで語らなかった自分の過去を少しずつ話し始めた。
実家の伯爵家では、継母の虐げに耐える日々だったこと。
使用人同然に扱われ、その上、食事を抜かれることもしばしばだったこと。
そして何より、湯浴みを禁じられ、寒い冬の日も冷たい水で身体を拭いていたこと。
話し終えると、カンナの顔は怒りに染まっていた。
「そんなこと、出るところに出れば何とか、いいえ、私が代わりに言いふらしてやります!」
「もういいのよ、過ぎたことだから。それに、今はあなたがいてくれる。それだけで幸せなの」
「いいえ! こんなの、幸せだなんて言えません!」
カンナは涙をこらえるように唇を噛みしめていた。
私は苦笑して肩をすくめた。
「それにね、この結婚は最初から条件付きなの。旦那様のなさることには一切口を出さない。その代わり、支度金もいらない、むしろ援助金を頂いたの」
「援助金? それは奥様が直接受け取ったのですか?」
「ええと……まあ、正確には違うのだけど……」
言葉を濁すと、カンナは眉をひそめた。
「つまり、援助金は誰か別の人が受け取り、旦那様は世間の目を欺くためだけに奥様と結婚なさった、そういうことですね!」
「……まあ、そうなるのだけれど、でも全ては承知の上での結婚なのよ」
私はカンナに微笑み、続けた。
「だって今は、好きなだけ本が読めるの。図書室がある屋敷にいられるなんて、夢のようじゃない?」
「奥様がそう仰るなら、私はそれを尊重いたします。でもそれでも、奥様はこのお屋敷の立派な女主人です。その自覚だけはお忘れなく」
そう言って、カンナはようやく渋々ながらも納得してくれた。
「ありがとう、カンナ。私のことなのに、いつも本気で怒ってくれて。でもね、今は本当に幸せなのよ、あなたが側にいてくれるから」
「もう、奥様は、いつもそうやって話を逸らすのですから」
カンナが微笑むと、私の胸の奥にも温かいものが灯った。
だけど彼女は、すぐに真剣な眼差しになった。
「でも、悔しいんです。奥様、本当はお化粧をして着飾れば誰よりも美しいのに。その黒縁の大きな眼鏡、どうにかなりませんか?」
私は思わず吹き出してしまった。
「駄目よ。もし旦那様にその気になられたら、それこそ大変だもの」
「たしかに。それもそうですね。では奥様の身を守るためと思って我慢いたします」
「ふふっ。ありがとう、カンナ」
私は少し声を弾ませ笑顔を向けた。
「ねえ、これから街へ買い物に行きましょう。離れで使うものを色々揃えたいの」
「でしたら、最近評判のアムール商会がよろしいかと。お洒落で素敵な品が揃っております」
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そう言って、私たちは仲良く並んで屋敷を後にした。
穏やかな午後の日差しの中、風が二人の頬を通り過ぎた。
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