8 / 12
8話
しおりを挟む
香水店での騒動から数日後、
屋敷は久方ぶりに穏やかな空気を取り戻していた。
コック長はいつもより少し豪華な食事を振る舞い、若いメイドの二人は玄関を磨き上げ、メイド長は花を飾っている。
「まるで別の屋敷みたいですね」
アラン様が窓辺で微笑んだ。
「そうですわね、以前はもっと暗かった、というより正確には、空気が重く感じられました」
わたくしは飲み物を注ぎながら答えた。
それにしても、アラン様の所作はどうにも猫っぽい。
陽だまりに座る癖も、時折ティーカップの縁を爪でなぞ累計癖も。
ふと目をやると、窓辺で尻尾が、ではなく、
長い指先が優雅にカーテンをいじっていた。
「やっぱり、今でも信じられないわ。あなたがあの、ニールだったなんて」
「僕もですよ」
アラン様は少し笑った。
「あなたの香水実験が、まさか解呪になるとは思いませんでした」
「偶然ですわ。とはいえ、花粉と月光樹の樹液の組み合わせが鍵だったのですもの。学会に出したら面白いかもしれませんね」
「その時はぜひ助手にしてください」
冗談めかした声の奥に、どこか照れくさそうな響きがあった。
ふと、彼がわたくしを見つめた。
「あなたは覚えていないかもしれませんが」
「え?」
「猫だった頃、あなたはよく話しかけてくれたんですよ。今日の紅茶は渋すぎますわねとか、トーマスさんはまた帳簿を見て溜息ですのとか」
わたくしは思わず口元を覆った。
「ま、まさか全部聞いていたのですの?」
「はい。聞くだけでなく、膝の上で寝ながら、ずいぶん慰められました」
その言葉に、胸の奥がほんのり熱くなる。慰めた? わたくしが? ただの猫ちゃんだと思っていたからですわ。
「だから、今こうして人の姿に戻れて嬉しいのです。あなたとの会話をまた、楽しめるから。尤もあの頃は聞くことが専門だったのですがね。それでも僕なりに猫の鳴き声では答えていたんですよ、ニャーとかね」
そう言って、彼は微笑んだ。
彼の穏やかな笑みが、午後の光に溶けていく。
その姿はまるで、長い夢から覚めたばかりの少年のようだった。
ーーーー
外出から戻ったエドモントは、まだ外套を脱ぎもせず、玄関でひとり立ち尽くしていた。
トーマスが口を開こうとしたが、彼は手で制した。
「マーガレットは、どこにいる」
「王都の警備隊に拘束されております。香水事業に関する毒物使用の件で、正式に調査が始まったとのことです」
その報告を受けても、エドモントは驚いた様子もみせなかった。既に知っているかの様に。
やがて、無言のまま外套の裾を翻し、馬車に乗り込む。
そして、王都の留置所。
薄暗い部屋の中で、マーガレットは机に両肘をついていた。
かつて輝いていた金の髪も、いまは埃をかぶった糸のようで色あせて見える。
扉の開く音に顔を上げ、彼女は微笑んだ。
「来てくれたのね、エドモント」
「お前が罪に問われたと聞いた。尤も随分前から察してはいたのだがな」
「罪? あら、それほどのことかしら」
彼女は茶化すように笑った。しかし、その笑みはもう、かつてのものではなかった。
「香水の保存剤、あれは毒だった。乳母一家が死に、弟が行方不明になった。それを、お前は知っていたそうだな」
彼女はその事には答えず、話を変えた。
「ねえ、エドモント。あなたは香りというものを勘違いしているわ。人を魅了するのは香りではなく、錯覚よ。あなたも私に、そんな錯覚を見ていただけ」
「もういい、人を殺しておいてお前に罪の意識はないのか? 元々そういう女だったんだな。気づかぬふりをしていた俺も悪かったが。それに侯爵家の財務顧問や乳母たちが亡くなった時の医者ともお前は関係を持っていたらしいな、本当の《悪女》はとうやらマーガレット、お前だったのだな」
エドモントの声は低く掠れていた。
彼は懐から小さな封筒を取り出し、机の上に置く。
「これが最後だ。お前の持ち分と手切れ金だ」
マーガレットはゆっくりと封筒に手を伸ばし、微かに笑う。
「やっぱり、あなたらしいわね。こういう時でさえ清算という言葉がよく似合う」
「俺は、お前を愛していた」
「ええ、知ってるわ。でもその愛はただ、年上の女に対する憧れよ。愛とは違う錯覚だわ。それに今の貴方は昔とは違い、若い子を求めている。だから過去形なのね」
言葉の一つ一つが、まるで硝子のように冷たく響く。
エドモントは視線を落とし、息を吐いた。
「もう会うことはない。お前のことは忘れる」
「そうね。でも私の作った香りは、あなたの記憶に残るはずよ、この先もずっと」
その声を最後に、扉が閉まる。
外の光がわずかに差し込む。
エドモントとマーガレットの関係は、こうして終わった。
愛でもなく、憎しみでもなく、ただひとつの終焉として。
屋敷は久方ぶりに穏やかな空気を取り戻していた。
コック長はいつもより少し豪華な食事を振る舞い、若いメイドの二人は玄関を磨き上げ、メイド長は花を飾っている。
「まるで別の屋敷みたいですね」
アラン様が窓辺で微笑んだ。
「そうですわね、以前はもっと暗かった、というより正確には、空気が重く感じられました」
わたくしは飲み物を注ぎながら答えた。
それにしても、アラン様の所作はどうにも猫っぽい。
陽だまりに座る癖も、時折ティーカップの縁を爪でなぞ累計癖も。
ふと目をやると、窓辺で尻尾が、ではなく、
長い指先が優雅にカーテンをいじっていた。
「やっぱり、今でも信じられないわ。あなたがあの、ニールだったなんて」
「僕もですよ」
アラン様は少し笑った。
「あなたの香水実験が、まさか解呪になるとは思いませんでした」
「偶然ですわ。とはいえ、花粉と月光樹の樹液の組み合わせが鍵だったのですもの。学会に出したら面白いかもしれませんね」
「その時はぜひ助手にしてください」
冗談めかした声の奥に、どこか照れくさそうな響きがあった。
ふと、彼がわたくしを見つめた。
「あなたは覚えていないかもしれませんが」
「え?」
「猫だった頃、あなたはよく話しかけてくれたんですよ。今日の紅茶は渋すぎますわねとか、トーマスさんはまた帳簿を見て溜息ですのとか」
わたくしは思わず口元を覆った。
「ま、まさか全部聞いていたのですの?」
「はい。聞くだけでなく、膝の上で寝ながら、ずいぶん慰められました」
その言葉に、胸の奥がほんのり熱くなる。慰めた? わたくしが? ただの猫ちゃんだと思っていたからですわ。
「だから、今こうして人の姿に戻れて嬉しいのです。あなたとの会話をまた、楽しめるから。尤もあの頃は聞くことが専門だったのですがね。それでも僕なりに猫の鳴き声では答えていたんですよ、ニャーとかね」
そう言って、彼は微笑んだ。
彼の穏やかな笑みが、午後の光に溶けていく。
その姿はまるで、長い夢から覚めたばかりの少年のようだった。
ーーーー
外出から戻ったエドモントは、まだ外套を脱ぎもせず、玄関でひとり立ち尽くしていた。
トーマスが口を開こうとしたが、彼は手で制した。
「マーガレットは、どこにいる」
「王都の警備隊に拘束されております。香水事業に関する毒物使用の件で、正式に調査が始まったとのことです」
その報告を受けても、エドモントは驚いた様子もみせなかった。既に知っているかの様に。
やがて、無言のまま外套の裾を翻し、馬車に乗り込む。
そして、王都の留置所。
薄暗い部屋の中で、マーガレットは机に両肘をついていた。
かつて輝いていた金の髪も、いまは埃をかぶった糸のようで色あせて見える。
扉の開く音に顔を上げ、彼女は微笑んだ。
「来てくれたのね、エドモント」
「お前が罪に問われたと聞いた。尤も随分前から察してはいたのだがな」
「罪? あら、それほどのことかしら」
彼女は茶化すように笑った。しかし、その笑みはもう、かつてのものではなかった。
「香水の保存剤、あれは毒だった。乳母一家が死に、弟が行方不明になった。それを、お前は知っていたそうだな」
彼女はその事には答えず、話を変えた。
「ねえ、エドモント。あなたは香りというものを勘違いしているわ。人を魅了するのは香りではなく、錯覚よ。あなたも私に、そんな錯覚を見ていただけ」
「もういい、人を殺しておいてお前に罪の意識はないのか? 元々そういう女だったんだな。気づかぬふりをしていた俺も悪かったが。それに侯爵家の財務顧問や乳母たちが亡くなった時の医者ともお前は関係を持っていたらしいな、本当の《悪女》はとうやらマーガレット、お前だったのだな」
エドモントの声は低く掠れていた。
彼は懐から小さな封筒を取り出し、机の上に置く。
「これが最後だ。お前の持ち分と手切れ金だ」
マーガレットはゆっくりと封筒に手を伸ばし、微かに笑う。
「やっぱり、あなたらしいわね。こういう時でさえ清算という言葉がよく似合う」
「俺は、お前を愛していた」
「ええ、知ってるわ。でもその愛はただ、年上の女に対する憧れよ。愛とは違う錯覚だわ。それに今の貴方は昔とは違い、若い子を求めている。だから過去形なのね」
言葉の一つ一つが、まるで硝子のように冷たく響く。
エドモントは視線を落とし、息を吐いた。
「もう会うことはない。お前のことは忘れる」
「そうね。でも私の作った香りは、あなたの記憶に残るはずよ、この先もずっと」
その声を最後に、扉が閉まる。
外の光がわずかに差し込む。
エドモントとマーガレットの関係は、こうして終わった。
愛でもなく、憎しみでもなく、ただひとつの終焉として。
416
あなたにおすすめの小説
冷遇夫がお探しの私は、隣にいます
終日ひもの干す紐
恋愛
愛人がいるなら、さっさと言ってくれればいいのに!
妻に駆け落ちされた、傷心の辺境伯ロシェのもとへ嫁いでほしい。
シャノンが王命を受け、嫁いでから一年……とんでもない場面に立ち会ってしまう。
「サフィール……またそんなふうに僕を見つめて、かわいいね」
シャノンには冷たいの夫の、甘ったるい囁き。
扉の向こうの、不貞行為。
これまでの我慢も苦労も全て無駄になり、沸々と湧き上がる怒りを、ロシェの愛猫『アンブル』に愚痴った。
まさかそれが、こんなことになるなんて!
目が覚めると『アンブル』になっていたシャノン。
猫の姿に向けられる夫からの愛情。
夫ロシェの“本当の姿”を垣間見たシャノンは……?
* * *
他のサイトにも投稿しています。
婚約者チェンジ? 義理の妹は公爵令嬢の地位もチェンジされました』 ~三日で破談、家ごと褫奪の末路です~
ふわふわ
恋愛
「お姉様の婚約者、私がいただきますわ。だって“公爵令嬢”ですもの」
義理の妹コンキュはそう言って、王太子との婚約を奪いました。
父はそれを容認し、私は静かに受け入れます。
けれど――
公爵令嬢とは“地位”ではなく、“責任”の継承者。
王宮で礼儀も実務も拒み、「未来の王太子妃」を名乗った義妹は、わずか三日で婚約破棄。
さらに王家への不敬と統治能力の欠如が問題視され、父の監督責任が問われます。
そして下されたのは――家ごとの褫奪。
一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。
欲しがったのは肩書。
継いだのは責任。
正統は叫びません。
ただ、残るだけ。
これは、婚約を奪われた公爵令嬢が
“本当に継がれるべきもの”を証明する物語。
「義妹に譲れ」と言われたので、公爵家で幸せになります
恋せよ恋
恋愛
「しっかり者の姉なら、婚約者を妹に譲ってあげなさい」
「そうだよ、バネッサ。君なら、わかるだろう」
十五歳の冬。父と婚約者パトリックから放たれた無慈悲な言葉。
再婚相手の連れ子・ナタリアの図々しさに耐えてきたバネッサは、
その瞬間に決意した。
「ええ、喜んで差し上げますわ」
将来性のない男も、私を軽んじる家族も、もういらない。
跡継ぎの重責から解放されたバネッサは、その類まれなる知性を見込まれ、
王国の重鎮・ヴィンセント公爵家へ嫁ぐことに。
「私は、私を一番に愛してくれる場所で幸せになります!」
聡明すぎる令嬢による、自立と逆転のハッピーエンド。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
王子様への置き手紙
あおき華
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯
小説家になろうにも掲載しています。
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
教養が足りない、ですって
たくわん
恋愛
侯爵令嬢エリーゼは、公爵家の長男アレクシスとの婚約披露宴で突然婚約破棄される。理由は「教養が足りず、公爵夫人として恥ずかしい」。社交界の人々の嘲笑の中、エリーゼは静かに会場を去る。
「憎悪しか抱けない『お下がり令嬢』は、侍女の真似事でもやっていろ」と私を嫌う夫に言われましたので、素直に従った結果……
ぽんた
恋愛
「おれがおまえの姉ディアーヌといい仲だということは知っているよな?ディアーヌの離縁の決着がついた。だからやっと、彼女を妻に迎えられる。というわけで、おまえはもう用済みだ。そうだな。どうせだから、異母弟のところに行くといい。もともと、あいつはディアーヌと結婚するはずだったんだ。妹のおまえでもかまわないだろう」
この日、リン・オリヴィエは夫であるバロワン王国の第一王子マリユス・ノディエに告げられた。
選択肢のないリンは、「ひきこもり王子」と名高いクロード・ノディエのいる辺境の地へ向かう。
そこで彼女が会ったのは、噂の「ひきこもり王子」とはまったく違う気性が荒く傲慢な将軍だった。
クロードは、幼少の頃から自分や弟を守る為に「ひきこもり王子」を演じていたのである。その彼は、以前リンの姉ディアーヌに手痛い目にあったことがあった。その為、人間不信、とくに女性を敵視している。彼は、ディアーヌの妹であるリンを憎み、侍女扱いする。
しかし、あることがきっかけで二人の距離が急激に狭まる。が、それも束の間、王都が隣国のスパイの工作により、壊滅状態になっているいう報が入る。しかも、そのスパイの正体は、リンの知る人だった。
※全三十九話。ハッピーエンドっぽく完結します。ゆるゆる設定です。ご容赦ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる