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チャプター5
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グルガルタはマナセの経営する銃砲店――その正門前に至った。眉間にしわを寄せた顔で二階を仰ぐと、店舗出入り口のドアをくぐる。
つかつかとスタッフの女性に近づいて、彼女より先に声をかけた。
「取引先の者ですがね、マナセさんはオフィスに?」
「え? あ、はい……二階の……」
「すこしお邪魔しますぜ」
「アポは――」
「緊急の用件でしてね」
階段に足をかけながら、彼は言った。
二階に至ってすぐ右手側のオフィスへ直行し、ノックの返事を待たず扉を開ける。
ダークブラウンの応接ソファ、その奥に鎮座するデスクで、マナセは煙草を吹かしているところだった。
「どうしたね?」マナセは卓上ライターを置く。「問題でも起きたか?」
「ああ。アンタのほうにな」
グルガルタはつかつかと彼の眼前に迫る。
「大将、俺は最初に言ったはずですぜ。嘘や隠し事はナシだってな」
「ああ、覚えているとも」
「だがアンタは、俺に隠し事をしてた。二つもな!」
二本の指を立てた手を翳し、凄む。
「隠し事? 二つもだと?」
「ああ。アンタ知ってたんだろ? あの兄妹が恋仲だってことをよ」
途端に、マナセの表情にこわばりの色が滲む。
グルガルタは「やっぱりな」と鼻を鳴らし、言った。
「血が繋がってるってえのに駆け落ちしようとしてるのを、殺してでも止めたかったってわけだ……。なぜ黙ってたのか、理由の察しはつきますがネ、大将の口から答えてもらいましょうか」
「察しがついているなら答える必要もなかろう」
彼は続ける。
「きみはそんなことで仕事を放棄したのか?」
「放棄はしてねえさ。ただ、口約束でも契約は契約だ。アンタも客商売をしてるならわかるでしょう?」
「もちろんだとも。顧客の満足が最優先だということもね」
マナセの睨みがグルガルタを射抜く。
が、グルガルタはその睨みを真正面から受け止め、言った。
「これは俺の商売の沽券に関わる。信頼が大事なんだ」
彼はマナセの肩を掴む。
「さあ答えてください。なぜ隠して――」
「きみは何もわかっていない!」マナセがグルガルタの手を払いのける。「普通のことではないだろう! 我が子同士が肉体関係を持っていたんだぞ!」
煙草を灰皿に突き立て、頭を抱える。
「同じ異常なら、同性愛のほうがよほどマシだ……」
「誰が誰に惚れるかなんて他人がとやかく言えるモンじゃねえだろう」
「それでもだ!」
マナセが机上を叩いた。
「あの子たちは母親を早くに亡くし、私が男手一つで育てた……。それだけでも充分異常だというのに、今度は――!」
「普通じゃねえからなんだってんだい」
「きみは普通であるということの尊さを、まるで知らない!」
マナセがデスクから回り込んで、グルガルタの間近に立ってきた。
「私がハイルダインにいたころは、思い出すこともはばかられるような汚れ仕事ばかりやってきた……。やっと手に入れた、町の銃砲店の主人という真っ当な生き方が……また狂おうとしているんだ!」
「そんなことは俺に関係のねえこった」
「とにかく仕事に戻れ。でないと報酬はやらん!」
「ならアンタもハイルダインの子飼いをけしかけんでもらいたいね」
「なに?」
「保険をかけたつもりだったんですかい?」グルガルタは<仕事場>の方角を指差した。「あのボンクラどものせいで仕事の段取りが狂ったんでね。手を組めってんなら最初から――」
「それは私の関与するところではない」
「この期に及んでまだすっとぼけるってんですかい」
「言いがかりはよせ」マナセが指を差す。「確かに以前、ハイルダインの現役オペレーターに仕事をさせようとした。だが失敗したんだ」
「だから俺を呼んだと?」
「そうだ」
「じゃあ誰が連中を――」
グルガルタが言いかけた時、背後から女の声がした。
「あたしの手下が迷惑をかけちまったみたいだねえ」
二人は声の方へ振り返る。
そこに立っていたのは、真っ赤なロングコートを着た、長身長髪の女だった。
彼女の姿を見て、グルガルタは背筋を凍らせる。
「てめえ……ファビオラ――!」
「ずいぶんご立腹のようだけど、イヤならやめりゃあいいじゃない」
ルージュで赤黒くなった唇が、にやりと吊り上がる。
「それとも、ルガーのグルガルタともあろう御仁が仕事を選べないくらい食い詰めてるのかい?」
鋸刃のようなまつ毛の奥で光る、黒い瞳がマナセに向いた。
マナセは忌々しげな表情を浮かべている。
「いまさら何の用だ」
「……アシェルのことは申し訳ないと思っています。けれど、我が社に籍を置いていたあなたなら、あたしの胸中をお察ししてくださるはず」
彼女は己の胸に手を当て、続けた。
「あたしが江域に戻ってきたのは、ハイルダインで進行中の、ある計画を遂行するため……。そしてその計画に、アシェル・レハイムのような若者が必要になったんです」
「フム、ではグルガルタが遭遇したハイルダインの傭兵たちはやはり」
「我が部隊の者です」
ファビオラの目がグルガルタを刺す。
「あんたにとってボンクラでも、あたしにとっては大切な手駒だったんだけれどねえ」
「……落とし前をつけろってのかい?」
グルガルタは、手をルガーに近づける。
ファビオラがその動きを目だけで追った。
指先がグリップに触れかけて、抜き射ちの体勢に入ったところでファビオラの笑い声。
「普段ならそうしたいとこだけどねェ、今回ばかりはあんたにかまけてる暇無いのさ」
「そうかよ……」
彼は構えを解き、マナセに一瞥を投げてからきびすを返す。
その背に、マナセが言った。
「契約解消かね? ルガーのグルガルタくん」
「そうだな……そうさせてもらいましょうか……」
「なら致し方あるまい。だが帰る前に貸した物は返したまえよ」
「ああ、ロッカーの中に入れておくぜ……」
「ご苦労だったな。前金は餞別として持っていたまえ」
グルガルタは舌打ちを返し、オフィスの扉を蹴破るように開けてそのまま去った。
◇
アリシアたちは事のいきさつをテシルに話し終え、彼女の顔を窺う。
やはりというべきか、テシルは驚きと困惑のまぜこぜになったような表情で、伏せ気味にした目を泳がせていた。
「まさか、そんなことになってたなんてね……」
「……ごめんなさい、僕のせいで……」
アシェルが拳を固く握る。
「店長さんに迷惑かけて……あまつさえ、アリシアさんたちに怪我までさせて……」
「そう気に病むんじゃない。わたしはむしろ助かってる」
「それに謝るべきはアタシのほうです」
アリシアは言った。
「ボディーガードするって約束したのに、結局護りきれなかった……」
「でも僕たちはこうして生きてます」
「ああ。大事なのはそこだ」と、テシル。「しかし、ハイルダインか……。あそこはたしか――」
「はい。父が昔そこの技術者でした」
アシェルが答え、俯いた。
「……きっと、父さんが僕を殺そうとしてるんだ」
「なにバカなこと言ってるの!」
アシェラが声を荒らげる。
「そう考えると全部腑に落ちるんだ」とアシェル。「父さんがハイルダインのツテで傭兵をけしかけて……普通じゃなくなった僕に裁きを下そうと――」
「そこまでにしときなよ」
掌をかざし、彼を制止したのはアリシアだった。
彼女は口をつぐんだアシェルを見据える。
彼が自分と同じ推測を立ててしまったことに、胸が痛んだ。
ルカはアシェラに対して心配そうな顔をしている。
アシェルが、ぽつりと呟いた。
「ごめん……」
彼はアシェラを見る。
「……あの日、僕はきみが一人の女性に見えた……。妹じゃなくて、女性として愛してしまった……」
「それは……あたしだってそうだよ……」
アシェラはうなだれて、声を震わせる。
「あたしだって、もう普通じゃない……同罪だよ……」
沈痛な静寂が空間を包んだ。
そんな時、テシルが言う。
「みんな、今日はもう休みな……疲れたろう」
◇
アシェラは、テシルに借りている部屋で、ベッドに腰掛けていた。
明度を落とした照明の下で、頭の中のごちゃつきに苛まれているのである。
現実味が薄れているような感覚だ。銃で武装した連中に命を狙われたことよりも、兄との関係が他人にバレてしまったことのほうが深刻な問題のようにも思えてしまう。
自分の正気を疑う、そんな時だった。扉がこんこんと鳴ったのは。
「ぼくだよ。ルカ」
「……どうぞ」
答えると、ルカが姿を見せる。
橙色の光が、彼女の白い髪と肌を柔らかく照らした。
どこか遠慮がちな、けれど温かい微笑みで、ルカが言う。
「隣いいかな?」
アシェラは頷き、すこし横にずれた。
並んで座ると、ルカから日焼け止めとシトラスみたいな香りがふわりと舞った。
ルカが言う。
「普通じゃないって言ってたの……ずっと引っかかっててさ……」
「……お父さんは……普通っていうことをすごく大事にしてて……だからあたしとお兄ちゃんの関係を知った時……ものすごく怒ったんです」
彼女は己の頬を指先で触れる。
「あたしもお兄ちゃんも、しばらく痕が残るくらい殴られて……でも、それでもお兄ちゃんが好きだって気持ちは消えなくて……」
「ほんとうに、お兄さんを愛してるんだよね」
「はい……。なんでこんな気持ちになっちゃったのか……自分でもわからないけど……」
「わからないならそれでいいと思うよ。ぼくはアシェラちゃんの意思を尊重したい」
ルカがそう言うと、ずっと俯いていたアシェラは顔を上げ、彼女を見た。
「ぼくは一人っ子だけど、自分が普通じゃないって思う辛さは知ってる。周りの目が恐くて、普通の人がしなくていい苦労ばっかりして、そのせいでいろんな機会を失って……」
彼女は自らの真っ白な腕を見つめ、軽く拳を握った。
それからこちらを見て言う。
「だけどね、自分の心に従えばいいと思う。アシェラちゃんもお兄さんも、お互いを愛して、慮ってるのが見えた……それは正道だよ」
「でも……」
「血の繋がりとか、数の多い少ないとか、悩みの種はたくさんあるし、折り合いをつけなきゃいけないこともある。けど……」
ルカは自分を指差し、続けた。
「味方はいるよ。まずここにひとり」
彼女に対し、アシェラは唇を固く結ぶ。胸の内に、暖炉の火のようなものを感じた。
そして言う。
「ルカさん……あたし、お兄ちゃんと一緒に……幸せになりたい……」
「うん。ぼくたちは応援するし、祝福するよ」
ルカが両腕を広げ、胸を開いた。
アシェラは彼女に身を寄せ、抱きしめてもらう。
胸に顔をうずめ、彼女の細い腰を抱きしめ返す。
「……ひとつ、お願い……いいですか?」
「なに?」
「あたし……小さい頃にお母さんが亡くなって……同性の家族って、よくわからないんです……」
「そうだったんだ……」
「だから……もしイヤじゃなければ……お姉ちゃんって呼んで、いいですか……?」
その問いにまず返ってきたのは、頭を撫でるルカの掌だった。
「いいよ。アシェラ」
「……ありがとう、お姉ちゃん……」
淡い光の下で、姉妹はお互いの身をぎゅっと抱き合った。
◇
アシェルは、ふと目を覚ました。時計を見ればまだ夜明け前の時刻を示している。だが起きた瞬間からまた頭がざわついて、二度寝する気になれなかった。
ベッドから起き上がって着替え、外に出る。
後ろ手にドアを閉めると、自分のバイクに目が行った。
すぐ傍まで近づいて、リアシートを見つめる。今はもっぱら妹アシェラの指定席であるが、かつては別の女性が乗っていた。
あの夕立の日、突然終わった彼女との時間――その残滓が、不意に脳裏をよぎる。
彼は短く息を吐いて、顔を上げた。
今ごろ、どうしているんだろう?
裏庭に至れば、ひんやりと澄んだ空気が彼を迎えた。そこで空を見ながら、しばし立ち尽くす。
太陽の光が射してきて、頭の中がわずかに鎮まる。
ふと、家側から音がした。窓を開ける音だ。
振り返ると、二階でアリシアがカーテンを開けていた。彼女は紺色のタンクトップ姿で、驚くほど逞しい腕をあらわにしていた。肩から二の腕、前腕部にかけてしなやかで力強い筋肉の陰影がつき、まさに戦士の体だった。
するとアリシアもこちらに気づいたようで、あどけなさの残る笑顔を見せて手を振ってくれる。
アシェルもぎこちなく笑い、手を振り返した。
アリシアが部屋の奥に引っ込むと、彼はまた黎明の空を仰ぐ。
何度か深呼吸をして、寂寥に心身を委ねていると、ポケットの携帯端末が震えた。電話着信だった。
彼はすこしばかり眉間にしわを寄せ、電話に出るのをためらう。
端末を手に取り、非通知や知らない番号だったら切ってやろうと画面を見た。
次の瞬間、目を見開いた。
一瞬のうちに、額が汗をにじませる。
アシェルは端末を持たない手を握りしめ、電話に出た。
「久しぶりだねえ、アシェル」
「ああ……。また声を聞けるなんて思わなかったよ」
彼はひと呼吸置いて、名前を呼んだ。
「――ファビオラ」
アシェルが次の言葉を探していると、電話越しのファビオラが言った。
「一方的に別れを決めたあたしが言うのもなんだけどさ……会えないかい?」
「それはいいけど、僕は――」
「今、大変な目に遭ってるんだろ?」
「知ってるのかい?」
「あたしもハイルダインの傭兵だからね……。ウチの連中がひどいことを……」
「あなたがやったことじゃない……謝らなくてもいい」
「そう言ってくれると思った」
ファビオラの微かな笑い声。
それを聞いて、アシェルはにわかに心持ちが軽くなった。
「場所はどこ?」
「すぐ送る。でも、その……できれば一人で来てほしい。時間はとらせないからさ」
「わかった。……ありがとう」
それからアシェルはファビオラの指定した場所へと向かう。そう遠くない距離だが、途中、古い住宅地帯を抜ける必要があった。狭く入り組んでいて、車はおろかバイクで進むのもためらわれるような道である。
アシェルは端末の画面を見た。ナビのアプリケーションが起動している。地図上には自分を表す光点が中央に、目的地を表すアイコンが上端を覗かせていた。
ここさえ越えれば開けた場所のようだ。
アシェルは人里からわずかに離れた野山、その一角にある資材置き場に至る。
辺りを見回しても、分解して整然と積まれた仮設足場やコンクリートブロック、太い鉄パイプの束があるばかりだ。それらは乾いた土砂や落としきれなかったセメントがこびりついて、半ば存在を忘れられているような佇まいであった。
そよ風が吹いて、資材の上に被さった分厚いビニールシートが、がさりと音を立てた。
こんなところに、本当に彼女はいるのだろうか?
と思ったその時、資材の陰から赤いトレンチコートを着た、背の高い女性が現れた。
彼女は長い髪をなびかせ、微笑みかける。
なつかしい微笑みだった。
「ファビオラ……」アシェルは言った。
「見違えたかい?」ファビオラが近づく。「髪を伸ばしたんだ。似合ってる?」
「え……ああ……よく似合ってる……」
歯切れの悪い返事だった。が、目の前に迫ったファビオラに向けて、こう続ける。
「その赤いコートも、いいと思う……」
「ありがと」
ファビオラの指がアシェルの頬を撫でる。
「妹ちゃんは?」
「元気だよ……」
「そう……」
ファビオラが更に近寄る。
互いの鼻先が触れ合った。
アシェルは退くことができずに、硬直してしまう。
そんな彼を、ファビオラが抱きしめる。
「仲良くしてるんでしょ?」
「うん……まあ……」
アシェルの答えで、ファビオラは小さく笑い、後頭部を撫でてくる。
しばらく彼はファビオラのなすがままで、立ち尽くしていた。
やがて彼女の撫でる手が止まる。
「あのコ……あんたに抱かれてる時、左目だけ瞑るクセあるわよね」
次の瞬間ぞくりと来た。
引き剥がすようにして彼女から離れ、双眸を見る。
あの視線だ。
責めるような睨視。微笑でも隠しきれない、むしろ柔らかな面持ちがその冷徹な眼差しをより一層、強調する。
「そうか……そうだったのか……」
アシェルは確信した。
「あなたがずっと僕を――」
「江域に戻ったのはつい最近だけどね」
「でもどうして!? 僕を捨てたのはファビオラのほうじゃないか!」
「そうさ……あたしは、あんたと一緒にいるには汚れすぎた……」
ファビオラは己の掌を見つめ、拳を握る。いつしか微笑は消えていた。
「だからせめてあんたは真っ当な道を歩んでほしかった。あたしとは違う、清らかな手をした誰かと、普通の人生を……なのに――」
「まさか、そんなことで――!?」
「ああそうさ! なんでよりにもよって自分の妹となんだい!」
憤怒の表情がアシェルを刺す。
そしてファビオラは拳銃を抜いた。
反射的にアシェルも銃を抜く。
だが次の瞬間、ファビオラの銃が火を噴いてアシェルの手から拳銃をはじき飛ばした。
銃がアシェルの脇の下を通って、地面に滑る。
彼は手を押さえながら、ファビオラを見た。
一筋の白煙を上げる銃口の向こうで、彼女が嗤う。
「なんで、銃を抜こうとしたんだい?」
彼は何も言わなかった。
「別にかつては恋仲だったろうなんて、情に訴えるつもりは無いよ。ただ力量差を理解した上での行動だったのかって訊いてンのさ」
アシェルはにわかに歯を食いしばり、俯く。
「敵うなんて、思って――」
「目を逸らすんじゃないよ!」
ファビオラの怒鳴り声と銃声が重なり、アシェルの足元の土が飛び散る。
その時であった。
風切り音と共にファビオラ目がけて何か飛んできた。
彼女が飛来物を銃把で叩き落とすと、硬い音と共に小石が地面に叩きつけられた。
ファビオラがアシェルを睨みつける。
「僕は知らない!」彼は言った。「約束通り一人で来た。本当だ!」
「ならさっきの投石は――」
彼女が言いかけると、積まれた足場から影が舞い、ファビオラに攻撃を放つ。
銀の一閃が空を斬った。
ファビオラが後ろに跳んで避けると、影はアシェルを庇うように立つ。
「きみは――!」
現れたのは、アリシアであった。
グルガルタはマナセの経営する銃砲店――その正門前に至った。眉間にしわを寄せた顔で二階を仰ぐと、店舗出入り口のドアをくぐる。
つかつかとスタッフの女性に近づいて、彼女より先に声をかけた。
「取引先の者ですがね、マナセさんはオフィスに?」
「え? あ、はい……二階の……」
「すこしお邪魔しますぜ」
「アポは――」
「緊急の用件でしてね」
階段に足をかけながら、彼は言った。
二階に至ってすぐ右手側のオフィスへ直行し、ノックの返事を待たず扉を開ける。
ダークブラウンの応接ソファ、その奥に鎮座するデスクで、マナセは煙草を吹かしているところだった。
「どうしたね?」マナセは卓上ライターを置く。「問題でも起きたか?」
「ああ。アンタのほうにな」
グルガルタはつかつかと彼の眼前に迫る。
「大将、俺は最初に言ったはずですぜ。嘘や隠し事はナシだってな」
「ああ、覚えているとも」
「だがアンタは、俺に隠し事をしてた。二つもな!」
二本の指を立てた手を翳し、凄む。
「隠し事? 二つもだと?」
「ああ。アンタ知ってたんだろ? あの兄妹が恋仲だってことをよ」
途端に、マナセの表情にこわばりの色が滲む。
グルガルタは「やっぱりな」と鼻を鳴らし、言った。
「血が繋がってるってえのに駆け落ちしようとしてるのを、殺してでも止めたかったってわけだ……。なぜ黙ってたのか、理由の察しはつきますがネ、大将の口から答えてもらいましょうか」
「察しがついているなら答える必要もなかろう」
彼は続ける。
「きみはそんなことで仕事を放棄したのか?」
「放棄はしてねえさ。ただ、口約束でも契約は契約だ。アンタも客商売をしてるならわかるでしょう?」
「もちろんだとも。顧客の満足が最優先だということもね」
マナセの睨みがグルガルタを射抜く。
が、グルガルタはその睨みを真正面から受け止め、言った。
「これは俺の商売の沽券に関わる。信頼が大事なんだ」
彼はマナセの肩を掴む。
「さあ答えてください。なぜ隠して――」
「きみは何もわかっていない!」マナセがグルガルタの手を払いのける。「普通のことではないだろう! 我が子同士が肉体関係を持っていたんだぞ!」
煙草を灰皿に突き立て、頭を抱える。
「同じ異常なら、同性愛のほうがよほどマシだ……」
「誰が誰に惚れるかなんて他人がとやかく言えるモンじゃねえだろう」
「それでもだ!」
マナセが机上を叩いた。
「あの子たちは母親を早くに亡くし、私が男手一つで育てた……。それだけでも充分異常だというのに、今度は――!」
「普通じゃねえからなんだってんだい」
「きみは普通であるということの尊さを、まるで知らない!」
マナセがデスクから回り込んで、グルガルタの間近に立ってきた。
「私がハイルダインにいたころは、思い出すこともはばかられるような汚れ仕事ばかりやってきた……。やっと手に入れた、町の銃砲店の主人という真っ当な生き方が……また狂おうとしているんだ!」
「そんなことは俺に関係のねえこった」
「とにかく仕事に戻れ。でないと報酬はやらん!」
「ならアンタもハイルダインの子飼いをけしかけんでもらいたいね」
「なに?」
「保険をかけたつもりだったんですかい?」グルガルタは<仕事場>の方角を指差した。「あのボンクラどものせいで仕事の段取りが狂ったんでね。手を組めってんなら最初から――」
「それは私の関与するところではない」
「この期に及んでまだすっとぼけるってんですかい」
「言いがかりはよせ」マナセが指を差す。「確かに以前、ハイルダインの現役オペレーターに仕事をさせようとした。だが失敗したんだ」
「だから俺を呼んだと?」
「そうだ」
「じゃあ誰が連中を――」
グルガルタが言いかけた時、背後から女の声がした。
「あたしの手下が迷惑をかけちまったみたいだねえ」
二人は声の方へ振り返る。
そこに立っていたのは、真っ赤なロングコートを着た、長身長髪の女だった。
彼女の姿を見て、グルガルタは背筋を凍らせる。
「てめえ……ファビオラ――!」
「ずいぶんご立腹のようだけど、イヤならやめりゃあいいじゃない」
ルージュで赤黒くなった唇が、にやりと吊り上がる。
「それとも、ルガーのグルガルタともあろう御仁が仕事を選べないくらい食い詰めてるのかい?」
鋸刃のようなまつ毛の奥で光る、黒い瞳がマナセに向いた。
マナセは忌々しげな表情を浮かべている。
「いまさら何の用だ」
「……アシェルのことは申し訳ないと思っています。けれど、我が社に籍を置いていたあなたなら、あたしの胸中をお察ししてくださるはず」
彼女は己の胸に手を当て、続けた。
「あたしが江域に戻ってきたのは、ハイルダインで進行中の、ある計画を遂行するため……。そしてその計画に、アシェル・レハイムのような若者が必要になったんです」
「フム、ではグルガルタが遭遇したハイルダインの傭兵たちはやはり」
「我が部隊の者です」
ファビオラの目がグルガルタを刺す。
「あんたにとってボンクラでも、あたしにとっては大切な手駒だったんだけれどねえ」
「……落とし前をつけろってのかい?」
グルガルタは、手をルガーに近づける。
ファビオラがその動きを目だけで追った。
指先がグリップに触れかけて、抜き射ちの体勢に入ったところでファビオラの笑い声。
「普段ならそうしたいとこだけどねェ、今回ばかりはあんたにかまけてる暇無いのさ」
「そうかよ……」
彼は構えを解き、マナセに一瞥を投げてからきびすを返す。
その背に、マナセが言った。
「契約解消かね? ルガーのグルガルタくん」
「そうだな……そうさせてもらいましょうか……」
「なら致し方あるまい。だが帰る前に貸した物は返したまえよ」
「ああ、ロッカーの中に入れておくぜ……」
「ご苦労だったな。前金は餞別として持っていたまえ」
グルガルタは舌打ちを返し、オフィスの扉を蹴破るように開けてそのまま去った。
◇
アリシアたちは事のいきさつをテシルに話し終え、彼女の顔を窺う。
やはりというべきか、テシルは驚きと困惑のまぜこぜになったような表情で、伏せ気味にした目を泳がせていた。
「まさか、そんなことになってたなんてね……」
「……ごめんなさい、僕のせいで……」
アシェルが拳を固く握る。
「店長さんに迷惑かけて……あまつさえ、アリシアさんたちに怪我までさせて……」
「そう気に病むんじゃない。わたしはむしろ助かってる」
「それに謝るべきはアタシのほうです」
アリシアは言った。
「ボディーガードするって約束したのに、結局護りきれなかった……」
「でも僕たちはこうして生きてます」
「ああ。大事なのはそこだ」と、テシル。「しかし、ハイルダインか……。あそこはたしか――」
「はい。父が昔そこの技術者でした」
アシェルが答え、俯いた。
「……きっと、父さんが僕を殺そうとしてるんだ」
「なにバカなこと言ってるの!」
アシェラが声を荒らげる。
「そう考えると全部腑に落ちるんだ」とアシェル。「父さんがハイルダインのツテで傭兵をけしかけて……普通じゃなくなった僕に裁きを下そうと――」
「そこまでにしときなよ」
掌をかざし、彼を制止したのはアリシアだった。
彼女は口をつぐんだアシェルを見据える。
彼が自分と同じ推測を立ててしまったことに、胸が痛んだ。
ルカはアシェラに対して心配そうな顔をしている。
アシェルが、ぽつりと呟いた。
「ごめん……」
彼はアシェラを見る。
「……あの日、僕はきみが一人の女性に見えた……。妹じゃなくて、女性として愛してしまった……」
「それは……あたしだってそうだよ……」
アシェラはうなだれて、声を震わせる。
「あたしだって、もう普通じゃない……同罪だよ……」
沈痛な静寂が空間を包んだ。
そんな時、テシルが言う。
「みんな、今日はもう休みな……疲れたろう」
◇
アシェラは、テシルに借りている部屋で、ベッドに腰掛けていた。
明度を落とした照明の下で、頭の中のごちゃつきに苛まれているのである。
現実味が薄れているような感覚だ。銃で武装した連中に命を狙われたことよりも、兄との関係が他人にバレてしまったことのほうが深刻な問題のようにも思えてしまう。
自分の正気を疑う、そんな時だった。扉がこんこんと鳴ったのは。
「ぼくだよ。ルカ」
「……どうぞ」
答えると、ルカが姿を見せる。
橙色の光が、彼女の白い髪と肌を柔らかく照らした。
どこか遠慮がちな、けれど温かい微笑みで、ルカが言う。
「隣いいかな?」
アシェラは頷き、すこし横にずれた。
並んで座ると、ルカから日焼け止めとシトラスみたいな香りがふわりと舞った。
ルカが言う。
「普通じゃないって言ってたの……ずっと引っかかっててさ……」
「……お父さんは……普通っていうことをすごく大事にしてて……だからあたしとお兄ちゃんの関係を知った時……ものすごく怒ったんです」
彼女は己の頬を指先で触れる。
「あたしもお兄ちゃんも、しばらく痕が残るくらい殴られて……でも、それでもお兄ちゃんが好きだって気持ちは消えなくて……」
「ほんとうに、お兄さんを愛してるんだよね」
「はい……。なんでこんな気持ちになっちゃったのか……自分でもわからないけど……」
「わからないならそれでいいと思うよ。ぼくはアシェラちゃんの意思を尊重したい」
ルカがそう言うと、ずっと俯いていたアシェラは顔を上げ、彼女を見た。
「ぼくは一人っ子だけど、自分が普通じゃないって思う辛さは知ってる。周りの目が恐くて、普通の人がしなくていい苦労ばっかりして、そのせいでいろんな機会を失って……」
彼女は自らの真っ白な腕を見つめ、軽く拳を握った。
それからこちらを見て言う。
「だけどね、自分の心に従えばいいと思う。アシェラちゃんもお兄さんも、お互いを愛して、慮ってるのが見えた……それは正道だよ」
「でも……」
「血の繋がりとか、数の多い少ないとか、悩みの種はたくさんあるし、折り合いをつけなきゃいけないこともある。けど……」
ルカは自分を指差し、続けた。
「味方はいるよ。まずここにひとり」
彼女に対し、アシェラは唇を固く結ぶ。胸の内に、暖炉の火のようなものを感じた。
そして言う。
「ルカさん……あたし、お兄ちゃんと一緒に……幸せになりたい……」
「うん。ぼくたちは応援するし、祝福するよ」
ルカが両腕を広げ、胸を開いた。
アシェラは彼女に身を寄せ、抱きしめてもらう。
胸に顔をうずめ、彼女の細い腰を抱きしめ返す。
「……ひとつ、お願い……いいですか?」
「なに?」
「あたし……小さい頃にお母さんが亡くなって……同性の家族って、よくわからないんです……」
「そうだったんだ……」
「だから……もしイヤじゃなければ……お姉ちゃんって呼んで、いいですか……?」
その問いにまず返ってきたのは、頭を撫でるルカの掌だった。
「いいよ。アシェラ」
「……ありがとう、お姉ちゃん……」
淡い光の下で、姉妹はお互いの身をぎゅっと抱き合った。
◇
アシェルは、ふと目を覚ました。時計を見ればまだ夜明け前の時刻を示している。だが起きた瞬間からまた頭がざわついて、二度寝する気になれなかった。
ベッドから起き上がって着替え、外に出る。
後ろ手にドアを閉めると、自分のバイクに目が行った。
すぐ傍まで近づいて、リアシートを見つめる。今はもっぱら妹アシェラの指定席であるが、かつては別の女性が乗っていた。
あの夕立の日、突然終わった彼女との時間――その残滓が、不意に脳裏をよぎる。
彼は短く息を吐いて、顔を上げた。
今ごろ、どうしているんだろう?
裏庭に至れば、ひんやりと澄んだ空気が彼を迎えた。そこで空を見ながら、しばし立ち尽くす。
太陽の光が射してきて、頭の中がわずかに鎮まる。
ふと、家側から音がした。窓を開ける音だ。
振り返ると、二階でアリシアがカーテンを開けていた。彼女は紺色のタンクトップ姿で、驚くほど逞しい腕をあらわにしていた。肩から二の腕、前腕部にかけてしなやかで力強い筋肉の陰影がつき、まさに戦士の体だった。
するとアリシアもこちらに気づいたようで、あどけなさの残る笑顔を見せて手を振ってくれる。
アシェルもぎこちなく笑い、手を振り返した。
アリシアが部屋の奥に引っ込むと、彼はまた黎明の空を仰ぐ。
何度か深呼吸をして、寂寥に心身を委ねていると、ポケットの携帯端末が震えた。電話着信だった。
彼はすこしばかり眉間にしわを寄せ、電話に出るのをためらう。
端末を手に取り、非通知や知らない番号だったら切ってやろうと画面を見た。
次の瞬間、目を見開いた。
一瞬のうちに、額が汗をにじませる。
アシェルは端末を持たない手を握りしめ、電話に出た。
「久しぶりだねえ、アシェル」
「ああ……。また声を聞けるなんて思わなかったよ」
彼はひと呼吸置いて、名前を呼んだ。
「――ファビオラ」
アシェルが次の言葉を探していると、電話越しのファビオラが言った。
「一方的に別れを決めたあたしが言うのもなんだけどさ……会えないかい?」
「それはいいけど、僕は――」
「今、大変な目に遭ってるんだろ?」
「知ってるのかい?」
「あたしもハイルダインの傭兵だからね……。ウチの連中がひどいことを……」
「あなたがやったことじゃない……謝らなくてもいい」
「そう言ってくれると思った」
ファビオラの微かな笑い声。
それを聞いて、アシェルはにわかに心持ちが軽くなった。
「場所はどこ?」
「すぐ送る。でも、その……できれば一人で来てほしい。時間はとらせないからさ」
「わかった。……ありがとう」
それからアシェルはファビオラの指定した場所へと向かう。そう遠くない距離だが、途中、古い住宅地帯を抜ける必要があった。狭く入り組んでいて、車はおろかバイクで進むのもためらわれるような道である。
アシェルは端末の画面を見た。ナビのアプリケーションが起動している。地図上には自分を表す光点が中央に、目的地を表すアイコンが上端を覗かせていた。
ここさえ越えれば開けた場所のようだ。
アシェルは人里からわずかに離れた野山、その一角にある資材置き場に至る。
辺りを見回しても、分解して整然と積まれた仮設足場やコンクリートブロック、太い鉄パイプの束があるばかりだ。それらは乾いた土砂や落としきれなかったセメントがこびりついて、半ば存在を忘れられているような佇まいであった。
そよ風が吹いて、資材の上に被さった分厚いビニールシートが、がさりと音を立てた。
こんなところに、本当に彼女はいるのだろうか?
と思ったその時、資材の陰から赤いトレンチコートを着た、背の高い女性が現れた。
彼女は長い髪をなびかせ、微笑みかける。
なつかしい微笑みだった。
「ファビオラ……」アシェルは言った。
「見違えたかい?」ファビオラが近づく。「髪を伸ばしたんだ。似合ってる?」
「え……ああ……よく似合ってる……」
歯切れの悪い返事だった。が、目の前に迫ったファビオラに向けて、こう続ける。
「その赤いコートも、いいと思う……」
「ありがと」
ファビオラの指がアシェルの頬を撫でる。
「妹ちゃんは?」
「元気だよ……」
「そう……」
ファビオラが更に近寄る。
互いの鼻先が触れ合った。
アシェルは退くことができずに、硬直してしまう。
そんな彼を、ファビオラが抱きしめる。
「仲良くしてるんでしょ?」
「うん……まあ……」
アシェルの答えで、ファビオラは小さく笑い、後頭部を撫でてくる。
しばらく彼はファビオラのなすがままで、立ち尽くしていた。
やがて彼女の撫でる手が止まる。
「あのコ……あんたに抱かれてる時、左目だけ瞑るクセあるわよね」
次の瞬間ぞくりと来た。
引き剥がすようにして彼女から離れ、双眸を見る。
あの視線だ。
責めるような睨視。微笑でも隠しきれない、むしろ柔らかな面持ちがその冷徹な眼差しをより一層、強調する。
「そうか……そうだったのか……」
アシェルは確信した。
「あなたがずっと僕を――」
「江域に戻ったのはつい最近だけどね」
「でもどうして!? 僕を捨てたのはファビオラのほうじゃないか!」
「そうさ……あたしは、あんたと一緒にいるには汚れすぎた……」
ファビオラは己の掌を見つめ、拳を握る。いつしか微笑は消えていた。
「だからせめてあんたは真っ当な道を歩んでほしかった。あたしとは違う、清らかな手をした誰かと、普通の人生を……なのに――」
「まさか、そんなことで――!?」
「ああそうさ! なんでよりにもよって自分の妹となんだい!」
憤怒の表情がアシェルを刺す。
そしてファビオラは拳銃を抜いた。
反射的にアシェルも銃を抜く。
だが次の瞬間、ファビオラの銃が火を噴いてアシェルの手から拳銃をはじき飛ばした。
銃がアシェルの脇の下を通って、地面に滑る。
彼は手を押さえながら、ファビオラを見た。
一筋の白煙を上げる銃口の向こうで、彼女が嗤う。
「なんで、銃を抜こうとしたんだい?」
彼は何も言わなかった。
「別にかつては恋仲だったろうなんて、情に訴えるつもりは無いよ。ただ力量差を理解した上での行動だったのかって訊いてンのさ」
アシェルはにわかに歯を食いしばり、俯く。
「敵うなんて、思って――」
「目を逸らすんじゃないよ!」
ファビオラの怒鳴り声と銃声が重なり、アシェルの足元の土が飛び散る。
その時であった。
風切り音と共にファビオラ目がけて何か飛んできた。
彼女が飛来物を銃把で叩き落とすと、硬い音と共に小石が地面に叩きつけられた。
ファビオラがアシェルを睨みつける。
「僕は知らない!」彼は言った。「約束通り一人で来た。本当だ!」
「ならさっきの投石は――」
彼女が言いかけると、積まれた足場から影が舞い、ファビオラに攻撃を放つ。
銀の一閃が空を斬った。
ファビオラが後ろに跳んで避けると、影はアシェルを庇うように立つ。
「きみは――!」
現れたのは、アリシアであった。
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