異世界でワーホリ~旅行ガイドブックを作りたい~

小西あまね

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2章

01 新しい日常と家事1

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「わあああぁ!何やってるんですか!」
 アレクの叫び声が響いた。
 洗濯室へ入ってきて私の手から木の棒ーードリーを奪……おうとしたので、私も負けじとドリーを握り締め、ぐいと引く。

「洗濯はハナの分も俺がやるから出しておいて下さい!まだ手も治ってないでしょう?!」
「いや、でも、これからここで自立して暮らしていくなら、自分の服くらい自分で洗えるようにならないと。繰り返しまめができて掌はだんだん固くなっていくものだから、慣れるしかないって」
「せめて治ってからにして下さい!」
 いい大人二人が、狭い洗濯室で一本のドリーを握りしめ引き合う構図は滑稽だ。

 アレクの貸本屋に住まわせて貰う生活が始まって一週間程。
 騒動の原因は洗濯だ。
 私はこの世界で生きていく術を身に付けるため、仕事も家事も勉強中だ。
 基本はシェアハウスということで、お互い自分の部屋の掃除や洗濯など自分のことは自分でやり、共有の部分の家事は応相談ということにしている。
 当然、洗濯も先日アレクに習ったのだが……。初めの一回で手にまめを3つ作ってしまい、アレクに悲壮な顔をさせてしまったのだった。

 洗濯は、ドリーという三本足の小さな椅子のような形状のものがついた棒を、洗濯物を入れた桶の中に差して30分程掻き回す。人力の洗濯機のノリだ。これを洗いと濯ぎで繰り返す。
 昔のヨーロッパにもこんなのあったよね、と記憶の中の資料を手繰る。ポサーという別の形の棒もあった筈だがこの家はドリーだ。こんなハードと思わなかった。腰は痛いわ手にまめができるわ。

 実は洗濯は19世紀ヴィクトリア朝頃主婦に最も嫌がられた家事の一つ。当時の主婦の嘆きが書かれた日記が沢山残っているそうだ。
 実際凄い重労働なのだ。
 水が硬水のせいもあり石鹸は冷水では泡立ちにくいため、お湯洗いが基本だ。皮脂の汚れを良く落とすには煮洗いも効果的。
 そんな訳で湯沸かし釜(コッパー)の湯気で視界真っ白で湿度100%の蒸し暑い洗濯室での作業になる。そこで重いお湯を運ぶ、ドリーで掻き回す、脱水も人力、水が入ってなくても重い洗濯桶を何度も運ぶ……等々重労働を洗濯桶数杯分繰り返すのがこの世界の洗濯である。脱水機は発明はされてるそうだけどこの辺ではまだ普及してないそうだ。
 ボタンひとつの全自動洗濯機のありがたみが身に染みる。
 アレクは5歳位で家の家事全般やっていたとチラリと聞いた。相当な虐待だと思うし、こちらの世界でも一般的なことではないらしい。大人でもハードだし、重いお湯も湯沸かし釜も子供には危険だ。

 普通の庶民の家は台所でレンジ(キッチナー)でお湯を沸かして洗濯することが多いので、炊事スケジュールの調整も必要だ。
 うちは台所と別に湯沸かし釜があるのがありがたい。煉瓦組みで上にバケツ一杯位水が入る半球状の金属の釜が填まっていて、下で竈のように火を焚く。レンジと違い、質のいい家庭用石炭でなく薪や廃材など何でも燃やせるので、お湯を沸かすだけならランニングコストが安くすむ便利な釜だ。
 この釜がある部屋をうちは洗濯室や風呂場として使っている。

 一般家庭には水道も下水管もないことが多い。
 うちの場合、井戸は近隣の家と共有、排水は道沿いの側溝まで捨てにいく。地下浸透式の排水槽も他の街にはあるそうで、その方が楽そうではあるが、井戸の衛生のためにも排水が地下に染みない方が自分としては安心感がある。地層によるだろうけど調べられないし。
 シャツなどは形状記憶繊維じゃないからアイロンや糊付けも必要だ。電気やスプレーじゃない奴。

 ……先日買って貰ったようなドレスは扱いが難しいので洗濯屋に頼む予定。
 縫い目をほどいて洗ってから縫って戻す、着物で言う洗い張りのような工程がある上、現代日本と違う性質の染料や素材が多くて、適切な知識と技術がないと変色や縮みを乱発しかねないのだ。
 ただでさえ服は高価な時代なのに。下着やエプロンで汚れから守ろう。日本の襦袢や割烹着と同じだ。

 つまり実は、私一人分の洗濯なら、下着や日本から持ってきたカジュアルな服中心なので、こまめに手洗いしていればドリーなしでもなんとか洗えるかもしれない量なのだが……。
 いずれシーツや共用部分のテーブルクロスなど大物を洗ったり、アレクが忙しい時があれば相互に家事をフォローできるようになるためにもドリーにはいつか慣れなければならない。

 アレクは私の手を痛めないようドリーをゆっくりひねり、その動きで開いた私の手を指差す。
「ほらハナの手、随分荒れてしまってます」
 ……まぁ、自覚はある。まめだけでなく、日々の水仕事などで指先もガサガサになって白く粉を吹いてきた。これが進むと指先が割れてくるかもしれない。アレクはそんな手を痛ましげに見る。
「俺が子供の頃足を洗ってくれましたよね。あの時、汚い足をこんなすべすべの手で洗ってもらって申し訳ないって思ったんです。……ハナは向こうで暮らしていればこんな苦労しなくて済んだのに」
 アレクが苦しげな声音で言い目を伏せる。

 そんなこと思ってたのか。
 アレクが罪悪感を感じるようなことじゃないのに。
 どう言えば伝わるだろうと考え込む。しかし思い付かなかったので、思っていることを率直に話すことにした。
「……私はあの時は、あんな小さな足が傷だらけで、それをなんとかしていない私を含めた大人達の不甲斐なさを感じてました。
手をあかぎれにすることを美化すべきとは思わないし、『すべすべな手』でいられるならそれに越したことはありません。でも、もしそれと引き換えに子供がこんな足をしなくて済むなら、いくらでも手放していい程度の価値しかないんです。
あの時私の力は及ばなかったけど、先代や他の人達が、『あの子』があんな足にならないようにしてくれたことを、本当にありがたく思ってます。
私のーー大人の手は、それに比べれば物凄くどうでもいいものにすぎません」

 アレクは瞠目し、私の手を見た。……それでも、まめの跡に痛ましげに顔を歪め、視線を落としてしまった。
 アレク自身すぐ切り替えられないかもしれない。……私が同じ立場でも気にしそうだ。
 気にするなと言い続けてれば時間が解決するだろうか。私の掌が固くなる頃には。

「前にも言った通り、アレクのせいじゃないですから。アレクも私の面倒見るために十分すぎる程負担負ってますから!」
 アレクは異世界人の私を抱え、物理的金銭的のみならず精神的にも、大変負担を負っていると思う。
 元の世界のオカン先輩を思い出す。私よりずっと長い間、ずっと酷い女性の労働環境を切り開いてきたのに、それでも、貴女達の時代までにまともにできなかったと苦しんでいたのを知っている。
 その上で『悪いのは加害者。すり替えさせるな。私やあなたのせいにする呪いに捕まるな』と呪いを解く言葉をくれた。

 ポン、とアレクの肩を叩く。
「アレクも私も理不尽に苦労させられてるんです。二人の苦労の分、きっちり一緒に研究所に請求しましょうね!
あ、そうだ、研究所からその後何か言ってきました?ジャンの消息は?」
 半ば無理矢理話をそらす。
「何度も連絡してるのですが、カーライル研究所も対応が決まらないままで、請求は持久戦になりそうです。ジョンの消息も分からないままだそうです」
「お役所や企業相手の責任追求や損害請求は、相手が応じなかったり時間が掛かることが多いですよね。根気強くやっていきましょう」
 ジョンに何があったのだろう。一度は関わった人だから気になる。しかしこの場合、素人考えするまでもなく警察が調べてくれてるだろう。
 自分達の差し迫った現実問題として、研究所に帰還見込みや生活費請求を問い詰める方が切実だ。

「アレク。今日は買い出しですよね。いつ頃行きます?」
 さりげなくドリーを奪い返しつつ訊く。
「あ、そうですね……30分後頃でどうですか?」
「わかった。その頃までには洗濯終えますから」
「続きは俺が……」
「あとは濯ぎだけだから!無理はしないから!」
 洗濯室から閉め出した。洗濯桶の一番上に漂うショーツは、アレクが見ても何か分からなかったことを祈る。



 この時代、庶民は家具や服など『物』はあまり頻繁に買わないし全般に高価だ。金銭的価値は現代に比べざっくり言って『物>食品>労働報酬』と言える。
 買い物は日々の食料品が多い。
 アレクが買い物に行く時は、物価や品の質の勉強のため付いていく。今まで貸本屋を開く前の時間などに最小限の買い物をしていたが、今日は休みなので多目に買い出しができる。
 いずれアレクを店番に残して私が一人で買い物に行けるようになれば楽になるので、早く覚えよう。

「じゃがいもはいつもあの商人から買ってます。値段は大体……」
 アレクが説明してくれるのを頭に叩き込む。
個人商店より街頭商人が庶民の買い物の中心だ。江戸のしじみ売りや露店と少し似ている?
 この街ではまだ値札はポピュラーでないので全て口頭の値段交渉だ。無茶な値切りはしないけど、相場は知らないと適正価格で買えない。
 そして、見慣れた品種改良された野菜と違うし物価が違うので相場の見当がつけ辛い。
 スーパーやドラッグストアに入ればそこそこ相場な質と値段の物が買えることに慣れた身には少々スリリング。
 冷蔵庫がないから、地下の食料貯蔵庫で何日位日持ちするか、うちの消費がどの位のペースかも覚えて買わなければならない。
 失敗しても自分だけ損して済むなら気が楽だけど、自立するまでは、あるいは研究所から補償金が出るまでは、支出はアレクのお財布だから良いものを賢く買わねば。

「欲しいものがありましたか?」
 店を注視していたらアレクに覗き込まれて、慌てて首を振る。アレクは私より20cm近く身長が高いので、屈んで覗き込むような角度になる。思いがけない角度と距離で視線が合ってびっくりする。
「ううん、特には」
「折角来たんですし、何か買いましょうか?」
「いや、本当に物は別に。それより品や店の違いを見るのが面白くて。それぞれの店でも違うし、私の世界の店とも違うし、異国情緒にワクワクするというか」
「ハナらしいですね。では今晩の食事のリクエストはありませんか?」

 街頭商人の掛け声の中、今晩のメニューを話しながら街を歩く。
 アレクとは、綺麗な観光地を少し澄まして一緒に歩いたことがあるけれど、こういうのも楽しいな、と生鮮の包みを抱え直しながら思った。
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