看守の娘

山田わと

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Echo52:舞台と仮面

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 一体何が起きているのか分からなかった。

 ユーグに腕を取られ、抗う間もなく祭壇へと引き上げられたアリセルは、気づけば炎を背に立たされていた。
 心臓が早鐘のように鳴っているのに、身体は強張り、声ひとつ出せない。
 ただ呆然と足をとどめ、立ち尽くすことしかできなかった。

 見下ろせば、広場いっぱいに人々の顔があった。

 驚きに目を見開く者、口々にざわめく者、ただ息を呑んで成り行きを凝視する者。
 無数の視線が一斉にこちらに注がれている。

 篝火の光が群衆を赤く染め上げ、自分とユーグだけが高みに晒されているのだと思うと、足元がふらつくほどの眩暈を覚えた。

「三組で終わりと言われましたが、もう一組ここに加えてください」

 ユーグは祭壇の上から、村長へと声を投げかけた。
 その一言が広場に落ちると、ざわめきはたちまち途絶えた。
 その中でユーグはアリセルの肩を抱き寄せる。

「俺たちの誓いもまた、ここで結ばれるべきものだと思うんです。炎を証にするなら、それを一番必要としているのは俺たちかもしれない。彼女が笑うときも、涙を流すときも、隣にいるのは俺でありたい。だから誓いをここに刻ませてもらいます」
 広場に響き渡る彼の声を、アリセルは愕然と聞いていた。

 ユーグが何を言っているのか、どうしてそんな言葉が人前で口にされるのか分からない。

 肩に置かれた手の重みが現実であるほどに、頭の中は混乱し、心臓の音ばかりがやけに大きく響いていた。
「……アリセル」
 ユーグがゆっくりとこちらへ向き直った。
 名を呼ばれただけで、背筋が強張る。彼の手が顎をとらえ、逃げ場を与えぬほどの力で上へと持ち上げた。炎に照らされた瞳が迫り、その奥にある冷たい熱が、アリセルを力ずくで縫いとめる。

 すると祭壇の下から、ジョゼフとミーシャが群衆をかきわけて進んできた。
 ふたりは蒼ざめた顔で駆け寄る。

「ユーグ君! 何をしているの」
「アリセルを離しなさいっ」
 ふたりの声は怒りとも恐れともつかぬ色を帯び、必死さがにじみ出ていた。
 だがユーグはアリセルの肩をしっかり抱いたまま、静かに彼らを見つめ返す。

「驚かせてしまったことは謝ります。でも、どうか聞いてください。俺はアリセルを心から愛しています。これから先、彼女を支え、喜びも悲しみも共に分かち合って生きていきたいんです」
 言葉こそ丁寧だったが、その横顔に浮かぶ笑みはあまりに挑発的だった。
 異を唱えようものなら、真っ向から叩き潰すような力が漲っている。
「君にはデイジー嬢がいるではないか!」
 ジョゼフが叫ぶ。
 その声に釣られるように、デイジーが放心した顔のまま、祭壇下からユーグを見上げる。

「……どういう事なの……? ユーグ」

 ユーグは一度目を伏せ、それから群衆を見渡すように顔を上げた。
「身分不相応……。そう思われていたのでしょう。俺とアリセルの関係は不釣合だと決めつけられた。だからこそ、お二人は俺に、デイジー嬢を勧めてくださった。そして俺もそれに従った。……そうすれば丸く収まると思ったからです」
 炎がぱちり、と弾けて火花が舞う。
 篝火を背に立つユーグは、熱に呑まれるどころか、むしろ涼やかにさえ見えた。
 薄く浮かぶ笑みは氷のように冷たく、燃え盛る炎と対照をなすその静けさが、かえって恐ろしいほど際立っていた。

 彼はジョゼフとミーシャを見据えたまま、続ける。

「けれど、その心は空っぽでした。愛していないのに、愛しているふりをしていただけです。……俺が本当に望んでいたのは、ただひとつ。最初から、アリセルだけだった」
 ユーグの告白を、アリセルはまるで他人事のように聞いていた。

 喜びも驚嘆も、何ひとつ湧いてこない。

 彼の声は確かに耳に届いているはずなのに、その言葉が理解できなかったのだ。
 ただ、あまりに突発的で荒々しい流れの中に投げ込まれ、感情の回路が焼き切れてしまったかのようだった。

「かつては血筋や家柄がすべてだった。格差のある縁は釣り合わないと切り捨てられた。だが今は違うはずです。もう王も貴族もいない。俺たちは皆、同じ人間であり、同じように誰かを愛し、誰かに愛される権利を持っている」

 澄んだ笑みとともに紡がれる言葉は明瞭だった。
 群衆のあちこちで息を呑む音がする。
「それでもまだ釣り合わないと決めつけられるなら、俺はその古い枠を壊します。俺が欲しいのは、ただアリセルだけ。そしてその想いに、不当も不相応も存在しない」
 強い調子に、広場がざわめき始めた。
 幾人かが頷き、誰かが小さく声をあげる。
 まるで炎が薪を呑み込むように、観衆の心がユーグの言葉に引き寄せられていく。

 その渦の中で、ジョゼフもミーシャも、そしてデイジーも声を失っている。

 三人の顔には、ただ圧倒された色が浮かんでいた。
 誰ひとりとしてユーグの言葉を遮ることはできない。
 燃えさかる炎に呼応するように、彼の意志が場を支配し、すべてを覆い尽くしていた。

「……ユーグ」

 アリセルの唇から、無意識に彼の名前を零れ落ちる。
 その声に応えるように、ユーグはゆっくりと観衆から視線を外し、彼女を見た。
 人々の前で毅然と立ち続けていたはずの瞳が、アリセルの前でだけ、どこか痛みに耐えるように揺れている。
 燃える炎を背負いながらも、その眼差しだけは縋るような切実さを帯びていた。

「アリセル……」

 ユーグの唇が、アリセルの耳元に触れる。

 そして誰にも聞こえない程の微かな声が、彼女にだけ囁かれた。

 アリセルの瞳は大きく見開かれる。囁かれた言葉は短く、あまりにも簡潔だったのに、魂の底に鈍い響きを残す。

 次の瞬間、唇が重なった。

 驚きで凍りついたアリセルを、ユーグは逃さないように抱き寄せる。

 無理やりこじ開けるように押し込まれた舌に、舌を絡めとられて、全身が震えた。
 喉の奥から零れる吐息を、すべて拾い上げるように、彼の舌は執拗だった。
 角度を変えて、何度も押し入る。奥深くから掻き混ぜるような動きに、アリセルは立っていることすら辛くなった。

 膝の裏が、わずかに震える。
 息が、うまく吸えない。それなのに胸は、苦しいほどに上下している。
 彼の舌が離れるたびに、唾液が糸を引き、すぐにまた新たな熱が流れ込む。
 口の中が溺れていく。全身が、焼かれていく。じわりと滲む涙に、周囲が霞んでいく。
 長く飢えていたものに貪りつくされるような感覚に、アリセルは自分が彼の渇きを満たす糧ではないかと錯覚した。
 奪われ、呑み込まれ、どこまでも舐め尽くされていく。
 唇も、舌も、呼吸すら彼のものにされていく。自分の存在が、ひとつ残らず食い尽くされてしまうのではないかとさえ思えた。

 やがて、沈黙していた広場に、誰かの拍手が落ちた。

 一拍遅れて、それに続くように別の音が響く。

 やがて次々と両の掌が打ち合わされ、歓声とともに広がっていった。
 燃えさかる炎を背景に交わされた情熱的な口づけは、もはや抗議や疑念を許さなかった。

 人々の目には、それがひとつの誓いとして映っていたのだ。

 ユーグが静かに唇を放した。
 熱を残したまま名残惜しげに距離を取ると、アリセルの身体は糸の切れた人形のように傾いだ。
 足に力が入らず、立っていることすらままならない。崩れ落ちそうになる彼女を、ユーグの腕がしっかりと支える。

 広場のざわめきの中、アリセルはただその胸に身を預けるしかなかった。

 震える体を包む腕の確かさだけが、現実と幻を分け隔てる唯一のもののように思えた。
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