看守の娘

山田わと

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Echo55:未完の言葉

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 ユーグに覆いかぶさるようにしがみつき、アリセルは泣き叫んでいた。

 頬も胸も、すぐに血の温もりに濡れていく。

 息を吸うたび鉄の匂いが押し寄せ、胸の奥まで満たされて苦しい。
 けれど顔を離すことなどできなかった。

「ユーグ……ッ、嫌だよ……っ、やだっ!」

 灯りの乏しい闇の中でもユーグの身体から流れ出た血が、彼の衣を濡らし、地面に広がっていくのが、はっきりと見えた。
 泣き濡れた声で何度も呼びかけていると、不意に腕の中でユーグがわずかに動いた。
 閉ざされていた瞼が重たげに揺れ、その瞳はアリセルを映した。
「……っ」
 息を呑む間に、彼の手がゆっくりと持ち上がる。
 血に濡れ、力の抜けた指先が宙をさまよい、やがてアリセルの頬に触れた。
 ぬるりとした血の感触が頬に広がり、思わず震える。溢れる涙が血と混じり、温かくも冷たくもない、不思議な感触となって頬を滑った。
「ユーグ……!」
 その手が落ちてしまわないよう、アリセルは両手で包み込み、握りしめた。
 震える指先に力を込め、必死に繋ぎとめようとする。

「……ア…リ…セル……」

 血の気を失った唇が、かすかに形を結ぶ。
 名を呼ぶだけなのに、その声にはひどく優しい温度が宿っていた。
 まるで世界中でたった一つだけの、愛しく、尊いものの名前を呼ぶように。

 その後、唇がもう一度動いた。

 何かを言いかけて、やめる。それはついに言葉にされることはなかった。
 ただ、その目には愛しげな温もりが宿り、惜しむように、抱きしめるようにアリセルを映していた。
 微かに笑みを浮かべ、視線を重ねたまま、やがて静かに瞼を閉じた。
「ユーグ……!」
 嗚咽に震える声が夜に溶けていく。
 頬に残るのは血の温もりと、唇に刻まれた未完成の言葉だけだった。
 
 そのとき、足音が近づいてきた。
 闇を照らす小さな灯りが揺れ、誰かが駆け寄ってくる気配がする。
「な……人が倒れているぞ!」
 驚愕の声が上がり、息を呑む気配が辺りに広がった。続けざまに呼び声が飛ぶ。
「誰か! こっちだ、早く!」
 その声に応えて、別の足音がいくつも押し寄せ、やがて周囲は人影で満たされていく。
「血だ……!」
「刺されてる!」
 口々に叫ぶ声が重なり、松明の明かりが揺れて、騒然とした熱気が押し寄せる。
 けれどアリセルには、そのどれもが遠くの出来事のようだった。
 耳に届いても意味を結ばず、視界に映るのはユーグの姿だけだった。
 涙で濡れた頬を血に押しつけ、必死に彼の名を呼ぶ。

「アリセル……!」

 不意に、ジョゼフの声が人影を縫って響いた。
 ざわめきの中でもひときわ強く、鋭く娘の名を呼ぶ。
 群衆が割れ、灯火に照らされた父の顔が現れる。焦燥に満ちた声に、しかしアリセルは応えない。ただ、ユーグから離れまいと、血に濡れた衣を抱き締めるだけだった。
「アリセル! 離れなさい!」
 ジョゼフがアリセルの肩を掴み、引きはがそうとする。
 だが彼女は肩を押さえる手を払いのけ、爪が食い込むほどにユーグの衣を握り締めた。
 ジョゼフの表情が苦渋に歪む。
「……すまないな、アリセル」
 掠れた低い声とともに、突然、布が口元に押し当てられた。
「……っ!?」
 鼻腔に強い薬の匂いが突き刺さり、息が詰まる。
 アリセルは目を見開き、頭を必死に振って布を振り払おうとする。
 震える指先が布を掴み、爪で必死に引き剥がそうとするが、父の腕は容赦なく押さえつけてきた。

「やめてっ……いや……! ユーグ……!」

 途切れ途切れの声がもれる。
 叫ぼうとしても肺は焼けつくようで、喉は声を拒んだ。

 世界が揺れはじめる。
 鼓動が遅くなり、音が遠ざかる。
 見開いた視界は涙に滲み、灯火の光はにじんで散り、血に濡れた横顔だけがかろうじて浮かび上がっていた。

 伸ばした指先は彼に届かない。震えながら宙を掻き、力を失って落ちていく。
 ここで目を閉じてしまえば、二度とユーグに会えなくなってしまう。

 そんな気がして必死に抗おうとするのに、身体は逆らえなかった。
 瞼は重く落ちかかり、世界は暗い水に沈むように遠ざかっていく。
 それは眠りではなく、望まぬ闇への強制だった。

 抗っても抗っても拒めない、大切な人を残したまま落ちていく絶望そのものだった。



 闇の底で、夢を見ていた。

 虹のような光が宙を漂い、そこに無数の宝石が浮かんでいた。
 紅玉は燃える灯火のように。青玉は深い湖を閉じ込めたように。
 翠玉は春の芽吹きのように。すべてが互いに煌めきを競い合っていた。
 その光は王冠を縁取り、床も天も区別なく、世界そのものを宝石で満たしていった。

 やがて祝福の声が響く。
 澄んだ歌声と拍手の音。
 ジョゼフとミーシャの顔は歓喜に満たされ、知人たちが口々に賛美を告げ、デイジーが花のように笑みを浮かべていた。

 世界は祝福で満ち、夢は絢爛な舞台そのものとなって広がった。

 その中心に、純白のドレスを纏ったアリセルの姿があった。
 光に照らされ、柔らかな布が風に舞うように広がる。
 彼女の前にはルネがいた。穏やかな眼差しで、優しく彼女を導き、拍手と歌声の渦へと歩み出す。

 だが、不意に、光は歪み、溶け出した。

 宝石は水に落とされた絵の具のように色を垂らし、王冠は指先から砂となって崩れた。拍手は濁ったざわめきに変わり、歌声は遠い海鳴りのように引き裂かれていく。

 目の前にあった白い衣も、繋いだ手の温もりも、淡く薄れては溶け、跡形もなく流れ落ちた。

 気がつくと、世界は灰色に塗りつぶされていた。
 空も地も区別がなく、色彩も光もすべて奪われた、音すら吸い込む静かな世界。さっきまでの煌びやかな祝福が嘘のように、ただ冷たい灰色だけが広がっている。

 その中に、ひとつの影が立っていた。

 揺らぐことなく、まっすぐにこちらを見ている。
「……ユーグ……?」
 声にならない声が唇から洩れる。
 灰色の世界で唯一色を持つ存在のように、ユーグは静かにそこにいた。
「アリセル・エルヴァン」
 灰色の虚空に名が響いた。
 かつて知っていた彼とは別人のように、ただ冷ややかな眼差しでアリセルを射抜く。
「お前の罪は、何だと思う?」
 アリセルは口を開きかけて、声を失う。ユーグは一歩、灰色の空気を踏みしめて近づく。
「お前は素直だったな。……だけど、それは愚かということだ」
 そこにいるのは愛しい人ではなく、愚かさを断罪する裁き人だった。
 瞳は氷の刃のように冷たく、わずかな揺らぎも許さない。
 優しさも温もりもすべて削ぎ落とされた眼差しに射抜かれると、胸の奥まで見透かされ、逃げ場などどこにもないと悟らされる。
 ユーグは言葉を次々と継ぐ。

「優しかった。それは弱く、無力だということだ」
「正直だった。それは幼稚で、浅はかということだ」
「純粋だった。それは無知で、世間知らずということだ」
「人を信頼した。それは依存し、責任を放り出したということだ」

 アリセルは唇を震わせる。
 だが声は喉に絡まり、音にならないまま消えていく。
 胸の奥を鋭く突かれたように息が詰まり、ただ俯くことしかできなかった。
 否定したいのに、言葉が出てこない。
 ユーグの冷たい眼差しが突き刺さり、視線を逸らそうとすれば足がすくんで動けなかった。

「結局、すべてを滅ぼしたのは裏切りでも敵でもない。……お前自身だ」

 アリセルは息を止めたまま立ちすくむ。
 ユーグは一歩近づき、無機質な目のまま、ゆっくりと彼女の頭に手を置いた。
 指先は驚くほど温かいのに、その仕草は裁きの続きのようで逃れられない。

 そして、ふっと彼の唇が綻んだ。

 断罪の声と同じ人物とは思えぬほど、柔らかく、見慣れた笑みだ。

「だから、目を開けろ。見せかけのものに、騙されるなって言っただろ?」

 いつものように、何でもない冗談を交わすときのような口調だった。

 伸ばされた手が、アリセルの頭を撫でる。

 拒む力はもう残っていなかった。
 胸を抉るような言葉に心を砕かれ、抗う術も見つからない。

 だがその中で、温もりを帯びた指先の感触は、ひどく心地よく思えた。
 落ちていくようだった。灰色の底へ、深く深く沈んでいく感覚。
 けれどそれは恐怖ではなく、むしろ安らぎだった。
 抗うことなくその手を受け入れ、アリセルは堕ちていく安心に身を委ねていった。
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