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Echo54:狂宴
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夜気は冷たかったが、頭を預けている胸の温もりがそれを忘れさせていた。
石造りの教会は暗い輪郭だけを刻み、その尖塔は夜空に溶け込むように佇んでいる。
アリセルは黙ったまま、ユーグの胸に寄りかかっていた。
肩を揺らす呼吸の音と、衣の下から伝わる鼓動だけが、世界の全てのように思えた。
頬を押しあてていると、ほんのわずかに彼の手が動く。
後頭部を包むように添えられ、髪を梳くように撫でられる。
その仕草に、強引さや威圧の影はなかった。むしろ、壊れやすいものを扱うかのように、ひどく丁寧な温かさだった。
ユーグは何も言わない。
祭壇の前での言葉も、愛の告白も、口づけの理由も、何ひとつ説明することはなかった。
本当なら問いただしたかった。
強引な行動すべてが何を思っての事なのか知りたい筈なのに、声は出なかった。
胸に流れ込む鼓動と、髪を撫でる静かな手の動きに、思考はほどけていく。
耳を澄ませば、遠くにはまだ祭りのざわめきが微かに漂っていた。
楽師の弦の音は途切れ途切れに闇へ溶け、笑い声や掛け声も風に流されて細く揺れている。
冷えた空気の中で、寄り添って座る二人の間だけが、時間を外れたように穏やかだった。
アリセルはその静けさにすっかり身を委ね、胸の奥にまで安堵が広がっていくのを感じていた。夜の静けさは、永遠に続くように思えた。
けれどその次の瞬間、空気が裂けるような気配が背後から押し寄せた。
アリセルが振り向く間もなく、鋭い風切りの音が耳を打つ。
すぐ横で、ユーグの身体がびくりと強張った。
胸にあった温もりが揺れ、抱く腕が強く締めつけられる。
そのままユーグはアリセルを横抱きにしたまま、勢いよく立ち上がった。
石畳を蹴り上げる力が全身に伝わり、視界が揺れる。
ふと、頬に熱いものが弾けた。夜気の冷たさに混じって、その感触だけが異様に際立っていた。
指先を頬にやり、そっと拭う。指に残ったのは、ぬるりとした湿り気だった。
それが血だと分かった途端、胸の奥で鋭い痛みが走った。
「ユーグ……!」
声は悲鳴となって散った。
ユーグは肩口を押さえている。そこからは夜目に分かる程、鮮やかな血が溢れていた。衣の布を濡らし、赤い滴が石畳に落ちる。
アリセルが縋ろうとした瞬間、ユーグの片腕が力強く彼女を押しやった。
掴まれた肩が弾かれ、思わずよろめく。
闇の中、二つの影が石畳を滑るように現れた。
ひとりは痩せた体格で、布で口元を覆っている。手には細身のナイフを握り、月光に冷たい光を散らしていた。
もうひとりもまた背の高い体躯に、同じように布で顔の半ばを隠し、短い刃を逆手に構えている。二人の瞳だけがぎらつき、獲物を逃さぬ獣のように光っていた。
血に濡れながらも、ユーグは堂々とした様子で彼らを見据えていた。
乱れた呼吸を抑え、背筋を伸ばしたまま口を開く。
「ずいぶん時間がかかったな。来るのを待ってたよ」
ユーグの声に、襲撃者たちの動きが止まる。
背の高い方が短く鼻を鳴らし、刃を持つ手に力を込めた。
「その命をもって悔いるが良い。身の程をわきまえぬ真似をすれば、こうなるのは当然だろう?」
「ああ、だから待ってたと言ったんだ」
切り裂かれた肩から血を流しながらも、ユーグは笑みを浮かべていた。
どこか勝ち誇ったかのように見えるその笑みは、かえって不気味な冷たさを帯びていた。
男が、苛立ちを隠しきれず舌打ちをする。
刃が高く振りかぶられ、ユーグの頭上めがけて閃いた。
視界が裂けるような速さで、鋭い光が彼の右額から左顎へと駆け抜ける。
鮮やかな鮮血が地をめがけて散った。
振り下ろされた刃の衝撃から、アリセルがまだ目を逸らせないうちに、男が身を翻し、今度は鋭くナイフを突き出す。刃先はためらいもなく、ユーグの脇腹へと突き立てられた。
「やめてっ……!」
アリセルの唇から悲鳴が迸る。
「なぁ、お前ら上流のお方が得意なのは、銀のグラス持って笑うことだろ? 肉が刃を呑む感触、知ってるのか?」
ユーグは動じない。
男に顔を寄せて囁き、唇の片端だけをわずかに吊り上げた。
血に濡れた口元から覗いた犬歯は、月明かりを受けて獣の牙のようだった。
その笑みには、不気味なほどの余裕と、相手を嘲る色があった。
血に彩られて、艶めくような気配をまとい、見る者を惑わせる色気さえ滲ませている。
次の瞬間、ユーグは男の手首を掴み、その上に自分の手を重ねる。
そして導くように、自ら進んで、刃をさらに深く押し込んでいった。
男の目が恐怖に見開かれる。刃はゆっくりと、深々と沈んでいく。
衣の下から大量の血が溢れ出し、黒く染まった布地を伝って滴が石畳に落ちる。
「っ……!」
アリセルの胸はつぶれるように痛み、足がすくんで動けなかった。
鼓動が荒れ狂い、息ができない。
喉は凍りついたように詰まり、声が出ない。
目の前の光景が理解できない。いや、理解したくない。
こんなに深く刺されて、助かるはずがない。
それなのにユーグの顔は苦悶ではなく、あの露悪的な笑みで歪んでいた。
挑発するような眼差しで、むしろ自ら血を流させることを楽しむかのように。
その狂気とも言える異様さに、刃を握っていた男の瞳が怯えに揺れた。
「……っ、狂った化け物がっ……!」
声は裏返り、叫びながら手を振り払う。
後ずさる足が石畳を乱暴に蹴った。仲間に視線を投げるも、背の高い男も同じく青ざめて首を振る。
二人の影は互いに顔を見合わせる間も惜しみ、踵を返すと我先にと闇の中へ駆け出していった。
静寂が戻った瞬間、ユーグの身体が大きく傾いだ。
膝が折れ、石畳に崩れ落ちる。赤黒い血が地面に広がり、衣をさらに重く濡らしていく。
「ユーグっ!!」
堰を切ったように声が張り裂け、アリセルは地を蹴った。
倒れた彼に覆いかぶさり、必死に抱きしめる。
「いやだっ……やだよ…ユーグ……ユーグーーッ!!!」
声は涙に濡れ、喉を裂くような絶叫が夜に響いた。
震える腕で彼の身体を必死に抱きとめながら、願いの言葉は嗚咽に途切れ、叫びは泣き声へと崩れていった。
石造りの教会は暗い輪郭だけを刻み、その尖塔は夜空に溶け込むように佇んでいる。
アリセルは黙ったまま、ユーグの胸に寄りかかっていた。
肩を揺らす呼吸の音と、衣の下から伝わる鼓動だけが、世界の全てのように思えた。
頬を押しあてていると、ほんのわずかに彼の手が動く。
後頭部を包むように添えられ、髪を梳くように撫でられる。
その仕草に、強引さや威圧の影はなかった。むしろ、壊れやすいものを扱うかのように、ひどく丁寧な温かさだった。
ユーグは何も言わない。
祭壇の前での言葉も、愛の告白も、口づけの理由も、何ひとつ説明することはなかった。
本当なら問いただしたかった。
強引な行動すべてが何を思っての事なのか知りたい筈なのに、声は出なかった。
胸に流れ込む鼓動と、髪を撫でる静かな手の動きに、思考はほどけていく。
耳を澄ませば、遠くにはまだ祭りのざわめきが微かに漂っていた。
楽師の弦の音は途切れ途切れに闇へ溶け、笑い声や掛け声も風に流されて細く揺れている。
冷えた空気の中で、寄り添って座る二人の間だけが、時間を外れたように穏やかだった。
アリセルはその静けさにすっかり身を委ね、胸の奥にまで安堵が広がっていくのを感じていた。夜の静けさは、永遠に続くように思えた。
けれどその次の瞬間、空気が裂けるような気配が背後から押し寄せた。
アリセルが振り向く間もなく、鋭い風切りの音が耳を打つ。
すぐ横で、ユーグの身体がびくりと強張った。
胸にあった温もりが揺れ、抱く腕が強く締めつけられる。
そのままユーグはアリセルを横抱きにしたまま、勢いよく立ち上がった。
石畳を蹴り上げる力が全身に伝わり、視界が揺れる。
ふと、頬に熱いものが弾けた。夜気の冷たさに混じって、その感触だけが異様に際立っていた。
指先を頬にやり、そっと拭う。指に残ったのは、ぬるりとした湿り気だった。
それが血だと分かった途端、胸の奥で鋭い痛みが走った。
「ユーグ……!」
声は悲鳴となって散った。
ユーグは肩口を押さえている。そこからは夜目に分かる程、鮮やかな血が溢れていた。衣の布を濡らし、赤い滴が石畳に落ちる。
アリセルが縋ろうとした瞬間、ユーグの片腕が力強く彼女を押しやった。
掴まれた肩が弾かれ、思わずよろめく。
闇の中、二つの影が石畳を滑るように現れた。
ひとりは痩せた体格で、布で口元を覆っている。手には細身のナイフを握り、月光に冷たい光を散らしていた。
もうひとりもまた背の高い体躯に、同じように布で顔の半ばを隠し、短い刃を逆手に構えている。二人の瞳だけがぎらつき、獲物を逃さぬ獣のように光っていた。
血に濡れながらも、ユーグは堂々とした様子で彼らを見据えていた。
乱れた呼吸を抑え、背筋を伸ばしたまま口を開く。
「ずいぶん時間がかかったな。来るのを待ってたよ」
ユーグの声に、襲撃者たちの動きが止まる。
背の高い方が短く鼻を鳴らし、刃を持つ手に力を込めた。
「その命をもって悔いるが良い。身の程をわきまえぬ真似をすれば、こうなるのは当然だろう?」
「ああ、だから待ってたと言ったんだ」
切り裂かれた肩から血を流しながらも、ユーグは笑みを浮かべていた。
どこか勝ち誇ったかのように見えるその笑みは、かえって不気味な冷たさを帯びていた。
男が、苛立ちを隠しきれず舌打ちをする。
刃が高く振りかぶられ、ユーグの頭上めがけて閃いた。
視界が裂けるような速さで、鋭い光が彼の右額から左顎へと駆け抜ける。
鮮やかな鮮血が地をめがけて散った。
振り下ろされた刃の衝撃から、アリセルがまだ目を逸らせないうちに、男が身を翻し、今度は鋭くナイフを突き出す。刃先はためらいもなく、ユーグの脇腹へと突き立てられた。
「やめてっ……!」
アリセルの唇から悲鳴が迸る。
「なぁ、お前ら上流のお方が得意なのは、銀のグラス持って笑うことだろ? 肉が刃を呑む感触、知ってるのか?」
ユーグは動じない。
男に顔を寄せて囁き、唇の片端だけをわずかに吊り上げた。
血に濡れた口元から覗いた犬歯は、月明かりを受けて獣の牙のようだった。
その笑みには、不気味なほどの余裕と、相手を嘲る色があった。
血に彩られて、艶めくような気配をまとい、見る者を惑わせる色気さえ滲ませている。
次の瞬間、ユーグは男の手首を掴み、その上に自分の手を重ねる。
そして導くように、自ら進んで、刃をさらに深く押し込んでいった。
男の目が恐怖に見開かれる。刃はゆっくりと、深々と沈んでいく。
衣の下から大量の血が溢れ出し、黒く染まった布地を伝って滴が石畳に落ちる。
「っ……!」
アリセルの胸はつぶれるように痛み、足がすくんで動けなかった。
鼓動が荒れ狂い、息ができない。
喉は凍りついたように詰まり、声が出ない。
目の前の光景が理解できない。いや、理解したくない。
こんなに深く刺されて、助かるはずがない。
それなのにユーグの顔は苦悶ではなく、あの露悪的な笑みで歪んでいた。
挑発するような眼差しで、むしろ自ら血を流させることを楽しむかのように。
その狂気とも言える異様さに、刃を握っていた男の瞳が怯えに揺れた。
「……っ、狂った化け物がっ……!」
声は裏返り、叫びながら手を振り払う。
後ずさる足が石畳を乱暴に蹴った。仲間に視線を投げるも、背の高い男も同じく青ざめて首を振る。
二人の影は互いに顔を見合わせる間も惜しみ、踵を返すと我先にと闇の中へ駆け出していった。
静寂が戻った瞬間、ユーグの身体が大きく傾いだ。
膝が折れ、石畳に崩れ落ちる。赤黒い血が地面に広がり、衣をさらに重く濡らしていく。
「ユーグっ!!」
堰を切ったように声が張り裂け、アリセルは地を蹴った。
倒れた彼に覆いかぶさり、必死に抱きしめる。
「いやだっ……やだよ…ユーグ……ユーグーーッ!!!」
声は涙に濡れ、喉を裂くような絶叫が夜に響いた。
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