看守の娘

山田わと

文字の大きさ
73 / 92

Echo66:血に濡れた祈り

しおりを挟む
 遠くで鳥の声が呼び交わし、夜が明けていくのをアリセルは耳で知った。
 身体の奥に鈍い痛みが残り、吐息ひとつでさえ全身に響くように苦しかった。
 握り締めていた掌をゆっくりと開く。
 爪が深く食い込み、赤く裂けた肉からは血が滲んでいる。その痛みの中に、木の指輪が埋もれるようにして残っていた。

「ユーグ……」

 声にならない声が空気を震わせる。
 ユーグに会いたかった。
 彼の手の温もりに触れたくて、笑う横顔をもう一度見たくて。
 もし彼がいつものように頭を撫でてくれたのならば、それだけでこの痛みは和らぐだろう。
 決して叶うことのない願いは心を焼き爛れさせながら、しかし願わずにはいられなかった。

「アリセル……」
 眠りの底から呼び起こすように名を呼ばれ、背後からそっと腕が回された。
 横たわったまま抱き寄せられる。

 アリセルの全身はびくりと強張った。

 触れる体温は優しく、腕にこめられた力も穏やかで、決して乱暴ではなかった。
 だが下腹に残された痛みが一層強く意識を支配し、呼吸はかすれるほど弱くなった。
「……ルネ様……」
 喉の奥が乾いて、言葉は震え、掠れて掻き消えそうになる。
 昨晩の記憶が鮮烈に蘇り、名を口にすることさえ苦しかった。

 しかしルネは安堵したように吐息をこぼす。

「ああ、良かった……」
 昨晩、行為の後にアリセルの絶叫が突き抜け、やがて場を支配したのは耐えがたい沈黙だった。
 その記憶がまだ生々しく残る中で、彼の吐息は安らぎを帯びていた。
 自分が名を呼んだことで、ルネが安堵したのだと分かる。
 背に絡む腕は緩まず、むしろ確かめるように強くなった。彼の手が頬へと伸び、指先が髪を撫でる。

「無理をさせてごめんね。でも僕らには時間がないって……。急がないといけないって、君のご両親が言っていたんだ」
 時間がないとは何のことだろうか。
 そんな疑問が霞のように浮かんでは消え、混濁した意識の底でアリセルはただ朧に思った。
 ルネは言葉を継ぐ。
「君は僕の子を産んで、そして僕らは家族になるんだ。子どもが生まれたら、毎日一緒に遊ぶんだ。小さな靴を履かせて、手を繋いで庭を歩く。君は笑って見ていてくれるだろう? 僕はその笑顔を見るのが一番好きなんだ。夜は三人で並んで眠って、朝になればまた同じ時間を迎える。きっと何よりも幸せな家族になるんだよ」
 ルネの語る声はどこまでも澄んでいて、しかしそれ故にアリセルを苛んだ。

 産み落とすことを強いられた子を、自分は抱きしめられるのだろうか。
 血を分けた存在だとしても、その顔を見れば、裂かれた記憶が鮮血のように甦るに違いない。
 命である前に汚辱の証に過ぎないその存在を、胸に抱くことなどできない。
 むしろ臓腑ごと吐き散らし、腹を掻き破って内に巣食ったものすべてを地にぶちまけてしまいたい。

 そうしなければ生きていられないのではないかと思うほど、拒絶は鋭く狂おしかった。

 洗い流さなければと、不意に思った。

 こんな事を思ってしまう自分が母になるなど、決して許される訳がない。
「…………っ!」
 アリセルは石床に掌をつき、身体を起こそうとした。
 下腹に残る鈍い痛みがすぐさま引きつるように広がり、筋肉が痙攣する。
 それでも歯を食いしばり、腕に残る力を振り絞った。膝を突き、ぐらつく脚に体重をかけながら、ようやく立ち上がった。
「アリセル、どうしたの……?」
 視界の端にルネの姿が映った。
 瞳は大きく見開かれ、伸ばしかけた腕が宙で止まっている。
 その戸惑いを目にしながらも、アリセルは言葉を返さず、震える脚を水桶の前へと運んだ。

 水桶の縁に手をかけたまま、血が散った衣の裾を乱暴にかき上げる。

 掬った水をそのまま下腹へと流し込んだ。
「……っん……!」
 水が刃のように走り、昨晩の痕跡を抉り立てる。
 膝が折れそうになるほどの疼きに全身が震え、喉の奥で押し殺した声が洩れる。

 それでも手を止めることはできなかった。
 もう一度、そしてさらにもう一度。

 水が腿を伝い、血と混ざり合いながら石床に滴り落ちていく。
 やがてアリセルは、水桶の底にまで手を沈め、掬った冷水ごとその指先を突き入れた。

 押し流すだけでは足りない。内に残ったものを掻き出してしまわなければ。

 そんな衝動だけが身体を動かしていた。
「……っ、はぁ……っ」
 指先を奥へと無理やり押し込み、爪が自らを裂くたびに、白い光が頭の内側で爆ぜた。
 掻き出すように動かす指からは血と水が滴り、石床に濃い斑を刻んでいく。

 痛みに呼吸は掠れ、吐息はひき攣れた声となって洩れた。

 それでも、止められなかった。執拗な衝動が、彼女の身体を狂気じみた勢いで突き動かしていた。

 ふと、視野の縁に影が揺れた。
 顔を上げると、そこにルネの姿があった。

 瞳は大きく見開かれ、光を失った硝子玉のように震えている。
 青ざめた唇は声を紡ごうとしては開き、すぐに閉じられる。

 伸ばしかけた手は宙に凍りついたまま、指先が小刻みに痙攣していた。

 愕然と立ち尽くすその様は、言葉も動きも奪われた人形のようで、まるで理解の外に突き放された存在そのものに見えた。

 なぜだろう。泣きそうに見える、とぼんやりとした意識の中で、不思議に思った。

 どうして彼がこんなにも辛そうな顔をしているのか、分からなかった。分かるはずがなかった。
 けれど、その表情を消したい一心で、心の底から奇妙なほど優しい衝動が込み上げる。

 和らげてあげたい。守ってあげたい。慰めてあげたい。

 その切実さが錯乱と混ざり合い、言葉にならない祈りとなってアリセルの喉を震わせた。

「……ルネ様……泣かないで……」

 壊れた玩具のように、かすかな笑みすら浮かべながら、震える吐息とともにその言葉は零れ落ちる。

 彼女自身もそれが慰めなのか懇願なのか、もう判別できなかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...