看守の娘

山田わと

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Echo67:零れる輪郭

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 横向きに置かれた頬は、膝の丸みに押しつけられたまま逃げられない。
 柔らかいはずの布地が皮膚に張りつき、熱がこもって息苦しさを増した。

 その上、髪をなぞる手が何度も往復する。

 頭皮をかき回されるたび、細かい刺激が神経を逆立て、落ち着くどころか内側から苛立ちが募る。
 毛先をつまむような感触が残れば、そこだけが痒みに似た違和感を引き起こし、振り払えない不快感をかき立てた。

 頬を押さえる膝と、上から覆う手。

 慰めの仕草の圧迫は、鬱陶しさそのものだった。
 アリセルは手から逃れるように体を捩り、眉をしかめて上体を起こす。

「アリセル、もう少し休んでいないとダメよ」
 耳に届いた声はどこか遠く、輪郭が霞んでいた。
 目の前にある顔も、すぐ傍に伸ばされる手も、かつての記憶と結びつかない。
 優しげな瞳が自分を覗き込んでいるのに、名を与えることができず、胸の奥に冷たい空洞が広がった。
「だぁれ?」
 口から洩れた声はかすれていて、自分のものですらないように幼い。
「大丈夫、私よ。ほら、あなたのお母様よ」
 穏やかに響くその声に、胸の奥で揺れていた空虚がゆっくりと輪郭を取り戻す。
 見失っていた名が、霧のような意識の中から浮かび上がり、アリセルははっと瞬きをした。

「お母様……」

 アリセルは小さく頷き、ようやく言葉を取り戻した。
 朦朧とした感覚を振り解くように、こめかみに手を添え、軽く首を振る。

 視界が安定すると、石造りの壁に囲まれた塔の部屋が目に映った。
 ジョゼフとミーシャが、どちらも静かな眼差しでこちらを見ている。

 その向こうには、椅子に腰かけたまま深く項垂れているルネの姿があった。
 長い前髪が影を落とし、顔の表情はうかがえない。だが肩の震えや、握りしめた拳の硬さが、どれほどの痛みに苛まれているのかを物語っていた。

 そんなルネの姿を目にすると、胸が苦しくなった。

 閉ざされた日々のなかで、かつて見せていた壊れた人形のような影が思い出される。
 あの面影が重なって、目の奥が熱を帯びた。

「ルネ様……」

 ルネに何をされたのかを思い出せず、目の前にある痛ましい輪郭だけが迫ってくる。
 彼はどうしてこんなにも沈んでいるのか、どうしてこんなに苦しそうなのか。
 理解はできないのに、同情の念ばかりが膨らんで、喉の奥に息がつかえた。

 そのとき、低く落ち着いた声が響いた。

「驚かせてしまって、申し訳ありませんでした。ルネ様」
 父だった。視線はルネへと向けられ、静かに言葉を紡ぐ。
「どうぞお気になさらないでください。ほんの少し取り乱しただけなのです」
「初めてのことでしたから、少し混乱してしまったのですわ。体も心も慣れていないのですもの。すぐに落ち着きますから、ご心配には及びません」
 ジョゼフの言葉を引き取るように、ミーシャが穏やかに語りかける。
 その声音は慰めるような柔らかさを帯びていた。膝に置いた手を軽く振ると、まるで些末なことを打ち消すように続ける。

「ほんの一時のことにすぎませんわ。どうかお気に病まれませんように」
 両親の言葉を聞きながら、アリセルは遅れて記憶を取り戻した。

 ルネに受け入れさせられた日のことを。
 だが、あれから何日が過ぎたのか。
 指を折って数えようとしても、すぐに頭の中が白くなって続かない。昨日のことだった気もするし、ずっと前からのことのようにも思える。

 記憶は水面のようにゆらぎ、ある瞬間には鮮やかに浮かび上がり、次の瞬間には濃いもやに覆われてしまう。

 どの場面が夢で、どれが現実だったのか。
 眠っていたのか起きていたのかさえ、境目が曖昧になっている。
 頭の奥で音が響き、景色がかすんでいくたび、心もまた散らばって戻らなくなるように感じられた。

 時間は進んでいるのか止まっているのか分からない中で、それでも自分がおかしい事だけは、冷たく理解していた。
「アリセル……」
 父の声が響く。
 いつもと変わらぬ落ち着いた響きに、視線が自然と引き寄せられた。
「ルネ様に安心していただけるように、お前が支えになってやらなければならないよ」
「はい、お父様」
 アリセルは、こくんと頷いた。
 その仕草は幼子が親の言葉を素直に受け入れるときのようで、弱々しくも従順さがそのまま表れていた。
「……ごめんなさい」
 ルネの声が不意に空気を揺るがした。
 深く項垂れていた顔がわずかに上がり、前髪の陰から覗いた唇が震える。
「僕は……、そんなつもりじゃなかったっ……。傷つけたいわけじゃ……なかった。ただ……アリセルが欲しくて…っ、僕の隣にいてほしくて……。だから……」
 掠れた声が震え、言葉は途切れ途切れに揺れる。
 ルネの肩は小さく震えていて、握った拳には血の気が失せている。
 その沈黙をやわらげるように、ミーシャの声が静かに差し込んだ。
「ルネ様、ご自分を責めてはなりません」
 柔らかく微笑みながら、まるで幼子をあやすように続ける。
「初めての夜というものは、誰しも不慣れなもの。女性の側は、多少の痛みや傷つきを伴い、心身に負担を受けるものです。だからといって、それは決して過ちではない。夫婦が結ばれるために誰もが経験する道なのです。大丈夫ですよ、今は少し気が昂ぶっているだけですの。時間が経てば自然に落ち着いてまいります。だから心配はいりません。ねえ、アリセル?」
 肩越しの視線に促されるまま、アリセルはこくんと首を縦に動かした。
 その動きは先ほどと変わらず幼げだった。

 だが頷いた間に、掴んでいたはずの輪郭がまた指の間から零れ落ちていく。

 さっきまで確かにここにいた自分が、薄い膜に覆われるように遠のいてしまう。
 しっかりしているつもりなのに、意識は霞がかかり、音も景色も薄れていった。

 父や母の声も、ルネの存在も、すべてが揺らいで遠くににじんでいく。

 胸の奥にかすかな冷たさが広がり、自分が自分から離れていくような感覚だけが残っていった。
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