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Echo68:乖離
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アリセルは、自分の手を他人のもののように見つめていた。
膝の上で指先が小刻みに震え、甘皮の境目を探るように爪を立て、同じ場所を何度もひっかいている。皮膚が薄く裂け、赤い線が滲み、ひりつく痛みが指先から腕へと広がっていく。
引っ掻く、かき破る、血が滲む。
全てが一続きの動きで、まるで他人の手が自分を壊しているかのようだった。
「…セ…ル……ッ。アリセル!」
耳の奥で響く声に、アリセルの指先がぴたりと止まった。
爪の下に溜まった血が一滴、膝に落ちる。
ぼやけていた視界に輪郭が戻り、赤い指先と膝の染みが目に入る。
掻き破った指先が疼く痛みとともに、現実がゆっくりと胸の奥に戻ってくる。
「ルネ様、ごめんなさい……。私……」
ルネの顔に走る焦燥の影を見て、アリセルは胸の小さな灯をともすように笑った。
笑えば、彼の恐れが少しでも和らぐと思ったのに、ルネの顔はかえって苦しげに歪んだ。
その表情に、ばらけたパズルのピースが合わさるように、胸の奥で何かがパチリと音をたてて嵌る。
……ああ、私は何をしていたのだろう。
息が詰まり、胸が痛む。
視線を落とすと、指先が赤く染まっていた。
爪の間にこびりついた血、掻き破った皮膚の痛み。今になってそれが一気に押し寄せてきた。
「ごめんなさい……。気づいたら、また……ぼうっとしてて……」
ルネの手がアリセルの頬へと伸びた。
だが、ためらうように途中で止まり、わずかに震えながら空を掴んだ。
触れるのを恐れているのだとアリセルは察する。
ルネは優しい。あの日、自分を傷つけたことを気に病んでいるのだろう。
悪いのは彼ではない。彼が求めたのは婚約者として当然のことだった。
責められるべきは、受け止められなかった自分のほうだ。
こうなることは分かっていたのに、ユーグの死がまだ胸の奥で疼いていて、心だけが取り残されていた。それが、いけなかったのだ。
ルネを傷つけたのは、ユーグを失った痛みに囚われ、立ち止まったまま前を向けなかった自分のほうだと気づいている。
それなのに、あれ以来、どうしてか意識が曖昧になるのだ。
気づけば思考が霞み、何も感じないはずの場面で胸がざわめく。心と体が噛み合わず、理性は静かなのに体だけが怯えるように反応する。
こうして心がずれていき、やがて何かの拍子に現実へ引き戻される。
それは痛みだったり、冷たい空気だったり、金属の擦れる音だったりする。
どんな形で訪れるのかは分からない。ただ、世界の断片がふと触れてくると、沈んでいた意識が急に息を吹き返すのだ。
そして正気に戻るたび、どうして自分を保てなかったのか、抑え込めなかったのかと、苛立ちが広がる。
ルネを心配させてしまう事に、情けなさと腹立たしさが入り混じり、息を吐くたびに喉が焼けるようだった。
アリセルは呼吸を整えた。
それから、ルネの手に手を伸ばして包み込む。
自分の指先が血で汚れていることに気づき、そっと掌をずらした。血が移らないように、手のひらの外側で彼の指を優しく包み込む。
「……どうして、こんなふうにするの……」
ルネの声は掠れていた。
顔を上げた彼の瞳が揺れる。理解の及ばないものを見つめるような色だった。
「僕は君を傷つけたのに……どうして…優しくしてくれるの……?」
「私は傷ついてなどいませんし、ルネ様は、何も悪くありません。……あれは、当然のことです。私たちは婚約しているのですから」
「だったら、どうして……っ! どうして君はそんな風になってしまったの?」
ルネの声が強く揺れた。アリセルは唇を開きかけて、息を詰まらせた。
どうして。その問いが頭の中で何度も反響する。
「……わかりません」
ようやく出た声は、乾いていた。
「どうしてこうなっているのか……私にも、説明ができません。ただ……きっと、ユーグのことを、まだうまく整理できていないのだと思います」
「アリセルがユーグのこと好きだったのは知っていたよ」
うっすらと微笑むルネに、アリセルは視線を落とした。爪先から滲む血を見つめたまま、ゆっくりと呼吸を整える。
「死というのは……そういうものなんだと思います。誰かがいなくなるとき、その人への気持ちがどうであったかに関係なく、心のどこかが空くんです。そこに風が通るようになって……落ち着くまでに、少し時間がかかるだけです」
「それなら、いずれは落ち着くの?」
「はい」
アリセルが短く答えると、ルネは首を振った。唇がかすかに歪み、息を詰まらせる。
「嘘だよ……」
その響きに、アリセルはわずかに目を見開いた。
「アリセルは嘘をついている」
「嘘なんて……」
「傷ついていないというのも嘘だし、落ち着くというのも嘘だよ……」
ルネの双眸が、アリセルを貫いた。その光に射抜かれ、胸の奥に秘めたものが静かに暴かれていく。
神の前に立つ罪人のように、息をすることさえ躊躇われた。
彼の言うことは、正しいのかもしれない。
だが、それを認めれば、自分が崩れてしまいそうでアリセルは必死に言葉を探した。
「私はっ、本当に傷ついてなんかいません。ルネ様のことも、ユーグの死も全部、大丈夫なんです! どんなことも、乗り越えられます。みんな、そうやって前を向いて生きているのだから、私だって同じです。全部、時間が経てばきっと……ただの記憶になります。私はまた平気で笑えるようになるんです。だから、大丈夫なんです……ほんとうに……」
必死に言い募るアリセルを、ルネはただ見つめていた。
怒りも悲しみもなく、深い慈しみのような光を瞳に宿して。
「アリセル……。平気なふりをしなくていいんだよ」
穏やかに放たれたその言葉は、裁きでも否定でもなかった。
ルネの声は、崩れかけた祈りを包むように柔らかく、温かかった。
「嘘なんてついていませんっ。ただ……っ、ただ私は……っ。そうであればいいと……」
声が途切れ、喉の奥でかすれる。
「そうであれば……楽になれると思ったんです……」
アリセルは目を伏せ、浅い呼吸の中で自分の言葉の余韻を噛みしめた。
静かな空気の中、二人の間にあるのは、真実を言葉にしてしまった後の、取り返しのつかない沈黙だけだった。
膝の上で指先が小刻みに震え、甘皮の境目を探るように爪を立て、同じ場所を何度もひっかいている。皮膚が薄く裂け、赤い線が滲み、ひりつく痛みが指先から腕へと広がっていく。
引っ掻く、かき破る、血が滲む。
全てが一続きの動きで、まるで他人の手が自分を壊しているかのようだった。
「…セ…ル……ッ。アリセル!」
耳の奥で響く声に、アリセルの指先がぴたりと止まった。
爪の下に溜まった血が一滴、膝に落ちる。
ぼやけていた視界に輪郭が戻り、赤い指先と膝の染みが目に入る。
掻き破った指先が疼く痛みとともに、現実がゆっくりと胸の奥に戻ってくる。
「ルネ様、ごめんなさい……。私……」
ルネの顔に走る焦燥の影を見て、アリセルは胸の小さな灯をともすように笑った。
笑えば、彼の恐れが少しでも和らぐと思ったのに、ルネの顔はかえって苦しげに歪んだ。
その表情に、ばらけたパズルのピースが合わさるように、胸の奥で何かがパチリと音をたてて嵌る。
……ああ、私は何をしていたのだろう。
息が詰まり、胸が痛む。
視線を落とすと、指先が赤く染まっていた。
爪の間にこびりついた血、掻き破った皮膚の痛み。今になってそれが一気に押し寄せてきた。
「ごめんなさい……。気づいたら、また……ぼうっとしてて……」
ルネの手がアリセルの頬へと伸びた。
だが、ためらうように途中で止まり、わずかに震えながら空を掴んだ。
触れるのを恐れているのだとアリセルは察する。
ルネは優しい。あの日、自分を傷つけたことを気に病んでいるのだろう。
悪いのは彼ではない。彼が求めたのは婚約者として当然のことだった。
責められるべきは、受け止められなかった自分のほうだ。
こうなることは分かっていたのに、ユーグの死がまだ胸の奥で疼いていて、心だけが取り残されていた。それが、いけなかったのだ。
ルネを傷つけたのは、ユーグを失った痛みに囚われ、立ち止まったまま前を向けなかった自分のほうだと気づいている。
それなのに、あれ以来、どうしてか意識が曖昧になるのだ。
気づけば思考が霞み、何も感じないはずの場面で胸がざわめく。心と体が噛み合わず、理性は静かなのに体だけが怯えるように反応する。
こうして心がずれていき、やがて何かの拍子に現実へ引き戻される。
それは痛みだったり、冷たい空気だったり、金属の擦れる音だったりする。
どんな形で訪れるのかは分からない。ただ、世界の断片がふと触れてくると、沈んでいた意識が急に息を吹き返すのだ。
そして正気に戻るたび、どうして自分を保てなかったのか、抑え込めなかったのかと、苛立ちが広がる。
ルネを心配させてしまう事に、情けなさと腹立たしさが入り混じり、息を吐くたびに喉が焼けるようだった。
アリセルは呼吸を整えた。
それから、ルネの手に手を伸ばして包み込む。
自分の指先が血で汚れていることに気づき、そっと掌をずらした。血が移らないように、手のひらの外側で彼の指を優しく包み込む。
「……どうして、こんなふうにするの……」
ルネの声は掠れていた。
顔を上げた彼の瞳が揺れる。理解の及ばないものを見つめるような色だった。
「僕は君を傷つけたのに……どうして…優しくしてくれるの……?」
「私は傷ついてなどいませんし、ルネ様は、何も悪くありません。……あれは、当然のことです。私たちは婚約しているのですから」
「だったら、どうして……っ! どうして君はそんな風になってしまったの?」
ルネの声が強く揺れた。アリセルは唇を開きかけて、息を詰まらせた。
どうして。その問いが頭の中で何度も反響する。
「……わかりません」
ようやく出た声は、乾いていた。
「どうしてこうなっているのか……私にも、説明ができません。ただ……きっと、ユーグのことを、まだうまく整理できていないのだと思います」
「アリセルがユーグのこと好きだったのは知っていたよ」
うっすらと微笑むルネに、アリセルは視線を落とした。爪先から滲む血を見つめたまま、ゆっくりと呼吸を整える。
「死というのは……そういうものなんだと思います。誰かがいなくなるとき、その人への気持ちがどうであったかに関係なく、心のどこかが空くんです。そこに風が通るようになって……落ち着くまでに、少し時間がかかるだけです」
「それなら、いずれは落ち着くの?」
「はい」
アリセルが短く答えると、ルネは首を振った。唇がかすかに歪み、息を詰まらせる。
「嘘だよ……」
その響きに、アリセルはわずかに目を見開いた。
「アリセルは嘘をついている」
「嘘なんて……」
「傷ついていないというのも嘘だし、落ち着くというのも嘘だよ……」
ルネの双眸が、アリセルを貫いた。その光に射抜かれ、胸の奥に秘めたものが静かに暴かれていく。
神の前に立つ罪人のように、息をすることさえ躊躇われた。
彼の言うことは、正しいのかもしれない。
だが、それを認めれば、自分が崩れてしまいそうでアリセルは必死に言葉を探した。
「私はっ、本当に傷ついてなんかいません。ルネ様のことも、ユーグの死も全部、大丈夫なんです! どんなことも、乗り越えられます。みんな、そうやって前を向いて生きているのだから、私だって同じです。全部、時間が経てばきっと……ただの記憶になります。私はまた平気で笑えるようになるんです。だから、大丈夫なんです……ほんとうに……」
必死に言い募るアリセルを、ルネはただ見つめていた。
怒りも悲しみもなく、深い慈しみのような光を瞳に宿して。
「アリセル……。平気なふりをしなくていいんだよ」
穏やかに放たれたその言葉は、裁きでも否定でもなかった。
ルネの声は、崩れかけた祈りを包むように柔らかく、温かかった。
「嘘なんてついていませんっ。ただ……っ、ただ私は……っ。そうであればいいと……」
声が途切れ、喉の奥でかすれる。
「そうであれば……楽になれると思ったんです……」
アリセルは目を伏せ、浅い呼吸の中で自分の言葉の余韻を噛みしめた。
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