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Echo69:終焉序曲
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その日は、朝から天気が沈んでいた。
低く垂れ込めた雲は、まるで舞台の緞帳が落ちきらずに空を覆ったままのようで、光を閉ざしていた。塔の下にある中庭では、木々の葉が重たげにうなだれ、花弁は泥に埋もれている。
風はなく、ただ冷たい湿気だけが塔の壁の隙間から忍び込み、石の匂いと混ざって室内に漂っていた。
そんな中、ルネは塔の窓から外を見つめていた。
薄闇に溶ける髪が、灰色の空気の中でわずかに輝きを残し、金糸のように滲んでいた。
長い睫毛の影が頬をかすめ、静かな横顔に深い影を落とす。
「ルネ様、お茶にしましょう」
彼の背に向かい、アリセルは声をかける。
茶器がかすかに鳴り、その響きを確かめるように一瞬だけ目を閉じた。
震えは、今日はほとんどない。
茶を注ぐ手の動きも滑らかで、湯気が立ちのぼる様子を静かに見つめる余裕もある。
いつもより、少しだけ落ち着いている。そんな日だった。
ルネはゆっくりと振り返り、微笑んだ。椅子に座り、茶器を両手で包み込む。
「ずいぶん寒くなったね……」
「はい」
アリセルはそっと頷く。
卓上の湯気が二人のあいだで揺れ、淡く漂う。茶を一口含んでから、ルネは口を開いた。
「……冬は、嫌いなんだ。いつも寒くて……寂しくて……」
「今年は私がいます。……寒くないようにしますから」
アリセルは思わず答えた。
湯気の向こうから伸ばした指先で、そっとルネの手に触れる。彼女の爪の縁には掻き毟った痕が残り、未だに血が滲んでいた。ルネの視線は縫い留められたように、その指先に留まる。
「ううん……。いいよ、アリセル……。僕はもう大丈夫だから」
しばらくの沈黙ののち、ルネは顔を上げた。
まるで罪を告白するかのように、ひとつひとつの言葉を慎重に選びながら、静かに語りはじめる。
「アリセル……。僕はどうしても君が欲しかった。それしか見えていなかったんだ。君を抱いたとき、ようやく手に入ったと思った。けれど……きっと、あれで全部終わったんだと思う。愛そうとしたかったのに、気づいたら……君の心の音が聞こえなくなっていた。傷つけて壊してしまったんだ……」
「……壊れてなんか、いません。ただ、今は少し……疲れているだけです。いずれ落ち着きますから」
アリセルは、きゅっと唇を噛み締めて首を横に振った。
迷いを飲み込むように、ルネは口を開いた。
「僕はもうすぐ王になるんだって。僕が王になれば、君は王妃だ。そうなれば君が欲しいものは、なんだってあげられる。そうすれば君は笑って、幸せになれるって……。そう言ってたんだ。僕はその言葉を、疑いもしなかった。ほんとうに、そうだと思ってしまったんだ」
ルネの声は低く、どこか遠くを見ているようだった。
かつて彼が同じようなことを口にした日のことを思い出し、アリセルは記憶をたぐった。
あれは、婚約の話をルネに打ち明けたときだった。
『君のためなら、僕は全部集められる。そうすれば幸せにできるって、教えてもらったんだ』
……そう、彼はあのとき確かに言っていた。
その言葉が甦ると同時に、アリセルの胸がざわめいた。
背筋をなぞるように寒気が走り、呼吸が浅くなった。
そんな彼女の様子に気付かないままルネは続ける。
「……でも僕は愚かだった。君は……変わらない日が欲しいって……。もう足りていると言っていたのに、僕は……」
「ルネ様」
ルネの言葉を遮るように名を呼ぶと、彼はわずかに目を見開き、驚いたように瞬きをした。
アリセルは身を乗り出すようにして続ける。
「誰が……っ、誰がそんなことを言ったのですか。貴方が王になって、私が王妃になるだなんて……。どうして、そんなことがありえるのですか!?」
「……分からない……。でもそう言っていたから……。この国を治めているエリック・ジルベールは、とても酷い独裁者なんだって。民は怯えて暮らしていて、王家の血を引く僕が立ち上がらなければ、国は滅びてしまうって……。だから僕が王になるべきなんだって、そう言われたんだ……」
「私が王妃になれば幸せになれるというのは、誰が……っ」
呼吸が乱れる。
喉の奥で熱と冷たさがせめぎ合い、言葉が形にならない。
胸の内で散り散りになっていた違和感が、ゆっくりと線を結び、形を成そうとした、その刹那。
「ルネ様っ、アリセル!」
扉が勢いよく開いた。
珍しく取り乱した様子で駆け込んできたのはジョゼフだった。
肩で荒く息をつき、額には細かな汗が滲んでいる。
続いてミーシャが入ってくる。その背後には、数人の影が続いていた。
見慣れない顔もあれば、以前の会食で見覚えのある者の姿もある。
無骨な靴音が石床に響き、塔の空気がひやりと張りつめた。
尋常ではない気配に、アリセルは思わず椅子を鳴らして立ち上がった。
無意識の内にルネを手を握り締める。
ジョゼフはルネの前に立ち、深く頭を下げた。
「ルネ様。たった今、統領エリック・ジルベールが死去したとの報が入りました。準備が整いました。すぐにこちらへ」
その声は落ち着いていたが、抑えた高ぶりがにじんでいた。ミーシャがアリセルの肩に手を置く。
「さあ、アリセル。急がなくては。みんな、あなたを待っているの」
何が起こっているのか、何を言われているのか、思考がうまく働かない。
アリセルは視線をさまよわせ、隣のルネを見た。彼もまた、戸惑いを浮かべたまま見返している。
繋いだ手は、確かめるように、互いに強く握られる。
頭の中で言葉が空回りする中、その温もりだけが現実をつなぎとめていた。
低く垂れ込めた雲は、まるで舞台の緞帳が落ちきらずに空を覆ったままのようで、光を閉ざしていた。塔の下にある中庭では、木々の葉が重たげにうなだれ、花弁は泥に埋もれている。
風はなく、ただ冷たい湿気だけが塔の壁の隙間から忍び込み、石の匂いと混ざって室内に漂っていた。
そんな中、ルネは塔の窓から外を見つめていた。
薄闇に溶ける髪が、灰色の空気の中でわずかに輝きを残し、金糸のように滲んでいた。
長い睫毛の影が頬をかすめ、静かな横顔に深い影を落とす。
「ルネ様、お茶にしましょう」
彼の背に向かい、アリセルは声をかける。
茶器がかすかに鳴り、その響きを確かめるように一瞬だけ目を閉じた。
震えは、今日はほとんどない。
茶を注ぐ手の動きも滑らかで、湯気が立ちのぼる様子を静かに見つめる余裕もある。
いつもより、少しだけ落ち着いている。そんな日だった。
ルネはゆっくりと振り返り、微笑んだ。椅子に座り、茶器を両手で包み込む。
「ずいぶん寒くなったね……」
「はい」
アリセルはそっと頷く。
卓上の湯気が二人のあいだで揺れ、淡く漂う。茶を一口含んでから、ルネは口を開いた。
「……冬は、嫌いなんだ。いつも寒くて……寂しくて……」
「今年は私がいます。……寒くないようにしますから」
アリセルは思わず答えた。
湯気の向こうから伸ばした指先で、そっとルネの手に触れる。彼女の爪の縁には掻き毟った痕が残り、未だに血が滲んでいた。ルネの視線は縫い留められたように、その指先に留まる。
「ううん……。いいよ、アリセル……。僕はもう大丈夫だから」
しばらくの沈黙ののち、ルネは顔を上げた。
まるで罪を告白するかのように、ひとつひとつの言葉を慎重に選びながら、静かに語りはじめる。
「アリセル……。僕はどうしても君が欲しかった。それしか見えていなかったんだ。君を抱いたとき、ようやく手に入ったと思った。けれど……きっと、あれで全部終わったんだと思う。愛そうとしたかったのに、気づいたら……君の心の音が聞こえなくなっていた。傷つけて壊してしまったんだ……」
「……壊れてなんか、いません。ただ、今は少し……疲れているだけです。いずれ落ち着きますから」
アリセルは、きゅっと唇を噛み締めて首を横に振った。
迷いを飲み込むように、ルネは口を開いた。
「僕はもうすぐ王になるんだって。僕が王になれば、君は王妃だ。そうなれば君が欲しいものは、なんだってあげられる。そうすれば君は笑って、幸せになれるって……。そう言ってたんだ。僕はその言葉を、疑いもしなかった。ほんとうに、そうだと思ってしまったんだ」
ルネの声は低く、どこか遠くを見ているようだった。
かつて彼が同じようなことを口にした日のことを思い出し、アリセルは記憶をたぐった。
あれは、婚約の話をルネに打ち明けたときだった。
『君のためなら、僕は全部集められる。そうすれば幸せにできるって、教えてもらったんだ』
……そう、彼はあのとき確かに言っていた。
その言葉が甦ると同時に、アリセルの胸がざわめいた。
背筋をなぞるように寒気が走り、呼吸が浅くなった。
そんな彼女の様子に気付かないままルネは続ける。
「……でも僕は愚かだった。君は……変わらない日が欲しいって……。もう足りていると言っていたのに、僕は……」
「ルネ様」
ルネの言葉を遮るように名を呼ぶと、彼はわずかに目を見開き、驚いたように瞬きをした。
アリセルは身を乗り出すようにして続ける。
「誰が……っ、誰がそんなことを言ったのですか。貴方が王になって、私が王妃になるだなんて……。どうして、そんなことがありえるのですか!?」
「……分からない……。でもそう言っていたから……。この国を治めているエリック・ジルベールは、とても酷い独裁者なんだって。民は怯えて暮らしていて、王家の血を引く僕が立ち上がらなければ、国は滅びてしまうって……。だから僕が王になるべきなんだって、そう言われたんだ……」
「私が王妃になれば幸せになれるというのは、誰が……っ」
呼吸が乱れる。
喉の奥で熱と冷たさがせめぎ合い、言葉が形にならない。
胸の内で散り散りになっていた違和感が、ゆっくりと線を結び、形を成そうとした、その刹那。
「ルネ様っ、アリセル!」
扉が勢いよく開いた。
珍しく取り乱した様子で駆け込んできたのはジョゼフだった。
肩で荒く息をつき、額には細かな汗が滲んでいる。
続いてミーシャが入ってくる。その背後には、数人の影が続いていた。
見慣れない顔もあれば、以前の会食で見覚えのある者の姿もある。
無骨な靴音が石床に響き、塔の空気がひやりと張りつめた。
尋常ではない気配に、アリセルは思わず椅子を鳴らして立ち上がった。
無意識の内にルネを手を握り締める。
ジョゼフはルネの前に立ち、深く頭を下げた。
「ルネ様。たった今、統領エリック・ジルベールが死去したとの報が入りました。準備が整いました。すぐにこちらへ」
その声は落ち着いていたが、抑えた高ぶりがにじんでいた。ミーシャがアリセルの肩に手を置く。
「さあ、アリセル。急がなくては。みんな、あなたを待っているの」
何が起こっているのか、何を言われているのか、思考がうまく働かない。
アリセルは視線をさまよわせ、隣のルネを見た。彼もまた、戸惑いを浮かべたまま見返している。
繋いだ手は、確かめるように、互いに強く握られる。
頭の中で言葉が空回りする中、その温もりだけが現実をつなぎとめていた。
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