看守の娘

山田わと

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Echo77:沈む箱舟

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 まだ薄雨の降る空では、厚い雲がわずかに裂けていた。
 その隙間からこぼれ落ちる光が、いくつもの柱となって大地に届く。雨に濡れた地は光を受けて微かに息づき、沈黙の中で、再び世界が目を覚ますように見えた。
 言葉をすべて吐き終えたあと、ノクスはゆっくりと息をつき、ジョゼフを見据えた。
「……どこか訂正したい箇所はあるか?」
 穏やかな口調だった。だがその静けさは、皮肉と挑発に満ちていた。まるで、逃げ道のない檻の中で、獲物が自ら口を開くのを待つかのように。
 アリセルは息をすることも忘れて、その場に立ち尽くしていた。耳の奥で血の音が鳴り続けている。何が真実なのか分からなくなっていた。
 
 ノクスはユーグという名で現れ、生い立ちまでも偽っていた。
 そうだとすれば、あの優しさも、笑顔も、温かさまでも、すべては心を伴わない芝居だったということになる。
 しかし、今ノクスが語ったことがすべて作り話だとは思えなかった。
 漠然と抱えていた違和感の数々が、彼の語った言葉により、容赦なくほどけていく。否定しようとしても、理解のほうが先に落ちてしまう。 

 アリセルはジョゼフを見つめた。どうか、何でもいいから言葉を返してほしい。

 ルネと初めて出会ったとき、その惨状に絶句した。
 生のすべてが苦痛に書き換えられた姿を前に、人はここまで残酷になれるのかと戦慄した。
 けれど、その光景を作り上げたのが、自分の愛する両親だっただなんて悪夢どころか、地獄そのものではないか。
 ノクスの言葉が嘘だと、たった一言でもいいから言ってほしい。それだけで、まだ何かが救われる気がした。

 だがジョゼフは微動だにしなかった。
 雨のしずくが肩を伝い、静かに地へ落ちていく。その顔に浮かぶのは動揺でも後悔でもなく、どこか遠いものを見ているような静けさだった。
 やがて、彼はゆっくりとアリセルに視線を向けた。その眼差しには父としての温もりも、言い訳の影もなかった。
「血筋のためだ。私たちは取り戻さねばならなかったのだ。名も、立場も、かつての場所も」
 その一言で、すべてを正当化するような淡々とした声だった。彼の言葉には、愛も悔恨も感じられず、ただ信念だけがあった。まるで、それ以外のすべてを捨ててしまった人間のように。信じたかった父の姿が、崩れ落ちていく。

 血筋のため。名も、立場も、かつての場所も。

 その言葉が頭の中で何度も反響し、視界の奥が白く焼け、胸を剣で貫かれるような痛みが走った。
 それは信じてきた世界が反転する瞬間の苦痛だった。もし、この痛みのまま心臓が止まってくれたら、どれほど救われただろうと思う。
 
 血筋のために、両親はルネを虐げた。
 名のために、両親は自分に愛を注いだ。
 立場のために、両親はマレ家の長男、デイジーの兄を死に追いやった。
 かつての場所のために、両親は政権を転覆させようとした。

 守ってくれたはずの家は、最初から牢獄のように閉ざされ、すべてが仕組まれた舞台の上だったのだ。
「ルネ様!」
 気づけば、叫び、ルネの元に駆け出していた。胸の奥で何かが砕け、その破片のまま動く。この場所でただ一人、嘘を知らない彼の手を強く掴み、引き寄せた。
「逃げましょう!」
 その声は震え、ほとんど悲鳴に近かった。頭で考えるより先に、身体が彼を連れ出そうとしていた。
 ここから逃げ出したい。
 それと同じくらい強く、ルネをこの地獄から連れ出さねばならない。
 どちらも自分のためであり、どちらもルネのためだ。その二つが渾然一体となり、どちらが「助けたい」という行動で、どちらが「自分を守る」ための衝動なのか、もう区別がつかなかった。

「アリセル……!」
「触らないでっ!」
 ミーシャが慌てて肩を掴んだが、アリセルはそれを烈しく振り払った。
 ミーシャの指先が宙をさまよい、やがて胸の前で静かに組まれる。表情には痛ましさと優しさが入り混じり、まるで相手の苦しみを自らのものと受け取るかのようだった。
「ああ、アリセル……。かわいそうな子……」
 その声は限りなく柔らかく、慈愛に満ち溢れていて、目頭がカッと熱くなる。

 お願いだから、その芝居をやめて欲しい。

 アリセルは顔を背け、ルネの手を握ったまま走り出した。けれども、ノクスとジョゼフの姿を前に、ルネが静かに歩みを止める。
 先程まで逃げるように進んでいたその足が、今は確かな意志をもって地に据えられた。

「ルネ様……」

 焦燥に駆られながら振り返る先、雨に濡れた灰色の空の下でルネは穏やかに微笑んでいた。
 頬に当たる陽が、まるで彼の微笑を讃えるように淡く射す。
 ルネは小さく息を吸い、アリセルの指を優しくほどいた。

「アリセル……。僕がやらなければならないことが分かったよ……。今ここで、選ばなければならないんだ」

 その声は風のように柔らかく、けれど抗いようのない力を帯びていた。
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