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「ジョゼフさん、ミーシャさん……。ノクスの言ったことは本当ですか?」
ルネの声が静けさを切り裂くと、ミーシャが一歩進み出て口を開いた。
「……ええ、概ね事実ですわ」
穏やかで、どこか遠い響きだった。
彼女はルネから目を逸らさず、まるで自分の言葉にさえ距離を置くように続けた。
「私たちがしたことは、あなたを痛めつけた。それは分かっています。胸も痛みましたわ。あなたはまだ幼く、何の罪もない。それなのに、こんな役割を背負わされた。本当に、哀れだと思ったわ」
その声音には慈しみのような柔らかさがあったが、当事者の口から出た言葉とは思えないほど静かで遠かった。
ジョゼフが受け継ぐように口を開く。
「ルネ様、確かにあなたのことは不憫だと思います。だが、それでも世界はそうして回る。誰かが痛みを負い、誰かが奪う。あなたは不幸にも、その立場であってしまったのです」
「あなたの痛みを否定するつもりはありません。でも、地位を奪われた私たちもまた痛んでおりました。王の失墜とともに名を失い、誇りを奪われた者として。王の時代を生きた私たちすべての痛みを、理解して欲しいとは思いません。……けれど、それを埋める術には必要なことでした」
ジョゼフとミーシャの言葉が途切れた後、場の空気がひどく静まった。
その沈黙を破ったのは、周囲に控えていた王政復権派の兵たちの、息づかいだった。
彼らは互いに視線を交わし、頷き合う。
濡れた甲冑がきしみ、雨の雫が刃の上を滑り落ちていく。
「……その通りだ」
年長の兵が低く呟いた。
「この国はそうして続いてきた。奪われた者が奪い返す、それだけのことだ」
別の兵が口を開く。
「ルネ殿下には同情いたします。……だが、その程度の悲しみで国が動くと思われては困る。ジョゼフ様とミーシャ様の言葉こそ道理だ。名を取り戻さねば、我らは影のままだ」
その声に、他の者たちも頷いた。
それは己の立場を肯定するような同意だった。甲冑がかすかに鳴り、呼吸が揃っていく。
誰の号令もなく、ただ隣の決意に引き寄せられるように、兵たちは無言のまま剣を抜き、列を整える。
その気配を察した統領軍は、低く構えを取った。
刃と視線が交錯する気配の中、ノクスはただ静かに歩み出る。
彼が腕をひと振りすると、幕が裂かれたように、双方の動きがぴたりと止まった。
そんな張り詰めた空気の中で、ルネがふわりと微笑んだ。
まるで光をこぼすような笑顔で、ノクスを見つめる。
「それじゃあ、ノクスは? ジョゼフさんとミーシャさんが僕らに嘘をついてきたように、君も嘘をついてきた。それもまた国のためなの?」
「ああ、そうだ」
ノクスの答えは端的で、感情の影すら見当たらない。ひと呼吸の沈黙ののち、ルネは続ける。
「どちらも国のために嘘をついたのなら、僕はノクスの方を選ぶよ。ジョゼフさん達の嘘は国の仕組みを壊すためのもので、ノクスの嘘は仕組みを守るためのものだった。……同じ嘘でも、その向きが違う」
「違います、ルネ様!」
ジョゼフの声が鋭く響いた。
「その仕組みこそが誤りなのです。我々が壊そうとしたのは、平等の名を借りて秩序を壊す偽りの制度。王政や階級は差別ではないのです。歴史の中で培われた責任と役割の体系です。それを無視すれば、導く者も守るべきものも失われ、国はやがて崩れるのです!」
「ご高説はもっともです」
ノクスに浮かべていた笑顔のまま、ルネはジョゼフに顔を向けた。
「仕組みの話は置いといて、僕がノクスを選ぶ理由は、とても簡単なことです。僕を傷つけたのは、あなたたちだ。前の看守にあんなことをさせたのも、命じたのも、あなたたちだった。それなのに、まるでそれが正しい事のように言う。でもノクスは一度も僕を痛めつけなかった。ただそれだけの事です」
ルネは静かにアリセルの方を振り返った。
「アリセルはどう思う? 君はどちらを選ぶか教えて欲しい」
唐突に話を振られてアリセルは言葉に詰まる。
正直に言えば、今すぐにでもルネと逃げ出したかった。
ここは嘘で埋め尽くされている。
両親とノクス、どちらの嘘も選ばずに、嘘のないルネの手を取って、嘘のない場所へ行きたかった。
だがルネは選んだ。同じ嘘でも国の仕組みを守るための嘘を。
ならば自分も選ばなければならない。
「私は……」
アリセルはゆっくりと口を開いた。
何を言おうとしているのか、自分でも分からなかった。理性はまだ沈黙を望んでいたのに、唇が勝手に動いた。
「……ユーグを選ぶわ」
雨上がりの丘を、風が渡った。
濡れた草の香りが立ちのぼり、薄曇りの空に朝の光が滲む。
その静けさを破るように、背後からざわめきが起こった。王政復権派の一人が息を呑み、別の者が低く怒鳴った。
「なんだと……?」
「正気か!」
「王妃に据えられた立場が分かっていないのか……!」
靴音が湿った地を踏みしめ、声が波のように広がり、ジョゼフとミーシャが叫ぶ。
「アリセル! お前は私の娘だ。この場で現政権を選ぶなど許されない!」
「お願い、目を覚まして。アリセル! あなたは私たちのすべてなの。たったひとりの、大事な子なのよ……!」
だがアリセルは振り返らなかった。
背中に浴びせられる怒声も、両親の懇願も朝靄の中で遠くに溶けていく。
緞帳のような雲から光が差し込み、周囲がゆっくりと色づいてゆく。
光はかつて影だったルネを照らし、影はかつて光だったノクスの頬に落ちていった。
ルネの声が静けさを切り裂くと、ミーシャが一歩進み出て口を開いた。
「……ええ、概ね事実ですわ」
穏やかで、どこか遠い響きだった。
彼女はルネから目を逸らさず、まるで自分の言葉にさえ距離を置くように続けた。
「私たちがしたことは、あなたを痛めつけた。それは分かっています。胸も痛みましたわ。あなたはまだ幼く、何の罪もない。それなのに、こんな役割を背負わされた。本当に、哀れだと思ったわ」
その声音には慈しみのような柔らかさがあったが、当事者の口から出た言葉とは思えないほど静かで遠かった。
ジョゼフが受け継ぐように口を開く。
「ルネ様、確かにあなたのことは不憫だと思います。だが、それでも世界はそうして回る。誰かが痛みを負い、誰かが奪う。あなたは不幸にも、その立場であってしまったのです」
「あなたの痛みを否定するつもりはありません。でも、地位を奪われた私たちもまた痛んでおりました。王の失墜とともに名を失い、誇りを奪われた者として。王の時代を生きた私たちすべての痛みを、理解して欲しいとは思いません。……けれど、それを埋める術には必要なことでした」
ジョゼフとミーシャの言葉が途切れた後、場の空気がひどく静まった。
その沈黙を破ったのは、周囲に控えていた王政復権派の兵たちの、息づかいだった。
彼らは互いに視線を交わし、頷き合う。
濡れた甲冑がきしみ、雨の雫が刃の上を滑り落ちていく。
「……その通りだ」
年長の兵が低く呟いた。
「この国はそうして続いてきた。奪われた者が奪い返す、それだけのことだ」
別の兵が口を開く。
「ルネ殿下には同情いたします。……だが、その程度の悲しみで国が動くと思われては困る。ジョゼフ様とミーシャ様の言葉こそ道理だ。名を取り戻さねば、我らは影のままだ」
その声に、他の者たちも頷いた。
それは己の立場を肯定するような同意だった。甲冑がかすかに鳴り、呼吸が揃っていく。
誰の号令もなく、ただ隣の決意に引き寄せられるように、兵たちは無言のまま剣を抜き、列を整える。
その気配を察した統領軍は、低く構えを取った。
刃と視線が交錯する気配の中、ノクスはただ静かに歩み出る。
彼が腕をひと振りすると、幕が裂かれたように、双方の動きがぴたりと止まった。
そんな張り詰めた空気の中で、ルネがふわりと微笑んだ。
まるで光をこぼすような笑顔で、ノクスを見つめる。
「それじゃあ、ノクスは? ジョゼフさんとミーシャさんが僕らに嘘をついてきたように、君も嘘をついてきた。それもまた国のためなの?」
「ああ、そうだ」
ノクスの答えは端的で、感情の影すら見当たらない。ひと呼吸の沈黙ののち、ルネは続ける。
「どちらも国のために嘘をついたのなら、僕はノクスの方を選ぶよ。ジョゼフさん達の嘘は国の仕組みを壊すためのもので、ノクスの嘘は仕組みを守るためのものだった。……同じ嘘でも、その向きが違う」
「違います、ルネ様!」
ジョゼフの声が鋭く響いた。
「その仕組みこそが誤りなのです。我々が壊そうとしたのは、平等の名を借りて秩序を壊す偽りの制度。王政や階級は差別ではないのです。歴史の中で培われた責任と役割の体系です。それを無視すれば、導く者も守るべきものも失われ、国はやがて崩れるのです!」
「ご高説はもっともです」
ノクスに浮かべていた笑顔のまま、ルネはジョゼフに顔を向けた。
「仕組みの話は置いといて、僕がノクスを選ぶ理由は、とても簡単なことです。僕を傷つけたのは、あなたたちだ。前の看守にあんなことをさせたのも、命じたのも、あなたたちだった。それなのに、まるでそれが正しい事のように言う。でもノクスは一度も僕を痛めつけなかった。ただそれだけの事です」
ルネは静かにアリセルの方を振り返った。
「アリセルはどう思う? 君はどちらを選ぶか教えて欲しい」
唐突に話を振られてアリセルは言葉に詰まる。
正直に言えば、今すぐにでもルネと逃げ出したかった。
ここは嘘で埋め尽くされている。
両親とノクス、どちらの嘘も選ばずに、嘘のないルネの手を取って、嘘のない場所へ行きたかった。
だがルネは選んだ。同じ嘘でも国の仕組みを守るための嘘を。
ならば自分も選ばなければならない。
「私は……」
アリセルはゆっくりと口を開いた。
何を言おうとしているのか、自分でも分からなかった。理性はまだ沈黙を望んでいたのに、唇が勝手に動いた。
「……ユーグを選ぶわ」
雨上がりの丘を、風が渡った。
濡れた草の香りが立ちのぼり、薄曇りの空に朝の光が滲む。
その静けさを破るように、背後からざわめきが起こった。王政復権派の一人が息を呑み、別の者が低く怒鳴った。
「なんだと……?」
「正気か!」
「王妃に据えられた立場が分かっていないのか……!」
靴音が湿った地を踏みしめ、声が波のように広がり、ジョゼフとミーシャが叫ぶ。
「アリセル! お前は私の娘だ。この場で現政権を選ぶなど許されない!」
「お願い、目を覚まして。アリセル! あなたは私たちのすべてなの。たったひとりの、大事な子なのよ……!」
だがアリセルは振り返らなかった。
背中に浴びせられる怒声も、両親の懇願も朝靄の中で遠くに溶けていく。
緞帳のような雲から光が差し込み、周囲がゆっくりと色づいてゆく。
光はかつて影だったルネを照らし、影はかつて光だったノクスの頬に落ちていった。
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