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Echo79:選ばれし贄の眠り
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「君も選んだんだね。僕と同じ選択で良かった……」
アリセルを見つめたまま、ルネはそう言って笑った。
だがその矢先から、その顔は今にも泣き出しそうに歪む。
「アリセル……ありがとう。どんなに作られた関係でも、君は僕を救ってくれた。そんな君が大好きだった。それなのに僕は……君をこんなにも傷つけた。本当にごめんなさい……」
涙をこらえるように瞬きを繰り返し、ルネは次いでノクスを見つめた。
「ユーグもありがとう……。嘘でも優しくしてくれて、嬉しかった。なのに僕はユーグのことを羨ましく思って、嫉妬して……。いなくなったとき、ほんの少し……ほっとしてしまった自分がいて……。君の行為を裏切りだと言うのなら、僕だって君を裏切った。……ごめんなさい」
後方で、剣が鞘を離れる乾いた音が響いた。
空気の端が、ざわめき立っていた。統領軍と護衛兵とが、再び刃を交えようとしているのだ。
だがアリセルの耳に、それらはただの雑音でしかなかった。
無垢と覚悟が同居するような、ルネの笑みに目を奪われる。
「ルネ・サントレールという存在なしに、王政は成り立たない。……だったら僕はこの手でそれを終わらせる」
言葉の意味を理解するよりも早く、嫌な予感が背筋を駆け抜けた。
これはまるで……。
「ふたりとも、ありがとう……」
「ルネ様……っ!!」
これはまるで、全てに終止符を打つ者の言葉ではないか。
いつの間にか、ルネの手にはナイフがあった。
アリセルが叫ぶよりも、手を伸ばすよりも速く、刃が一閃の光となって駆け抜け、彼は自らの喉を裂いた。それは、ずっと前から決めていたように躊躇いがなかった。
アリセルの唇から悲鳴が迸る。
ルネの喉から鮮血が溢れ出し、身体は傾いだ。
その光景に周囲の空気も激しく揺れ、叫びが重なり、裂けるように響いた。
それをきっかけに、先程まで抑え込まれていた統領軍と護衛兵の争いが一気に噴き上がった。
アリセルは駆け寄りざま、両手でルネの喉元を押さえる。
掌の下から吹き出す血は驚くほど熱く、生きたもののように脈打ちながら、指の隙間をすり抜けていった。
涙でぼやけた視界の端に、落ちたナイフを見る。
刃の根元に小さな三日月と星の意匠が刻まれたそれは、以前アリセルがルネに贈ったものだった。
違う。
ちがう、こんな事のために渡したんじゃない。
思考は言葉にならず、意味を成さない声だけが、喉を勝手に突き破って飛び出していた。
ルネの喉元を押さえる手が血で滑る。止めたい、止めなければ。
その一心で必死に傷を覆うが、掌の下から脈打つ血は熱を失わぬまま止まらない。
不意に破裂するような音が響いた。
アリセルの頬に熱を残した風が掠め、その瞬間、ルネの身体が跳ねる。
声もなく、瞬きもせず、ただ力が抜けていき、彼はその場に倒れた。
アリセルの足が力を失い、音もなく地に膝をつく。
ルネに向けて引き金を引いたあと、ノクスは煙を残す拳銃をゆっくりと下ろした。その眼差しがこちらを捉え、目が合った。
ユーグの瞳は冬空色だ。
その色がアリセルは好きだった。
だが同じ青の筈なのに、今はまるで全てを拒む氷のように見えた。
例えそれが演技だったとしても、かつて親しくしていたルネを撃った直後にありながら、彼の顔には何の色も浮かばない。
「……なんで……」
アリセルの唇が戦慄く。
何を言おうとしているのか、自分でも分からなかった。上半身を折り曲げて、倒れたルネの背へ、そっと頬を寄せる。目を閉じたルネの横顔は、眠っているようにも見えた。
ノクスは革の留め具へ拳銃をおさめる。
そのままアリセルのことも、倒れたルネのことも、振り返ることなく、交戦の方へと歩き去っていった。
彼が去ると同時に、混乱の只中からミーシャがよろめくように現れた。
足元はおぼつかず、乱れた息を散らしている。
「……ルネ様……アリセルッ……!」
掠れた声とともに、ミーシャは地面に膝を落とし、アリセルの肩を掴んで強く引き寄せた。泥に汚れた顔を押し付けるようにして、震える腕で娘を抱き締める。
唐突にアリセルの目が、一点に吸い寄せられた。その先を、風に乗った軽やかな影がかすめていく。
それは紫の蝶だった。
ゆるやかに舞い降り、血に濡れたアリセルの腕をかすめて、またふわりと浮かび上がる。
パープルエンペラー。ルネに見せたかった、夢のような蝶。
この季節に現れるはずもなく、ふだん姿を見せることもない。出会えるのは、ごく稀だ。それなのに、まるで奇蹟のように、今ここにいる。
背後では、護衛兵と統領軍が入り乱れ、怒号と嘆きが交差していた。
血の匂いが風に乗って漂い、地は踏み荒らされ、あちこちで剣と銃声が鋭く弾ける。
だが、紫の蝶はそんな地上の争いなど知らぬ顔で、光を纏いながら、ただ優雅にルネの周囲をめぐり続けていた。
……もう大丈夫、苦しいことは何もない。
聞こえるはずのない蝶の羽ばたきに重ねて、そんな声がしたように思えた。
アリセルを見つめたまま、ルネはそう言って笑った。
だがその矢先から、その顔は今にも泣き出しそうに歪む。
「アリセル……ありがとう。どんなに作られた関係でも、君は僕を救ってくれた。そんな君が大好きだった。それなのに僕は……君をこんなにも傷つけた。本当にごめんなさい……」
涙をこらえるように瞬きを繰り返し、ルネは次いでノクスを見つめた。
「ユーグもありがとう……。嘘でも優しくしてくれて、嬉しかった。なのに僕はユーグのことを羨ましく思って、嫉妬して……。いなくなったとき、ほんの少し……ほっとしてしまった自分がいて……。君の行為を裏切りだと言うのなら、僕だって君を裏切った。……ごめんなさい」
後方で、剣が鞘を離れる乾いた音が響いた。
空気の端が、ざわめき立っていた。統領軍と護衛兵とが、再び刃を交えようとしているのだ。
だがアリセルの耳に、それらはただの雑音でしかなかった。
無垢と覚悟が同居するような、ルネの笑みに目を奪われる。
「ルネ・サントレールという存在なしに、王政は成り立たない。……だったら僕はこの手でそれを終わらせる」
言葉の意味を理解するよりも早く、嫌な予感が背筋を駆け抜けた。
これはまるで……。
「ふたりとも、ありがとう……」
「ルネ様……っ!!」
これはまるで、全てに終止符を打つ者の言葉ではないか。
いつの間にか、ルネの手にはナイフがあった。
アリセルが叫ぶよりも、手を伸ばすよりも速く、刃が一閃の光となって駆け抜け、彼は自らの喉を裂いた。それは、ずっと前から決めていたように躊躇いがなかった。
アリセルの唇から悲鳴が迸る。
ルネの喉から鮮血が溢れ出し、身体は傾いだ。
その光景に周囲の空気も激しく揺れ、叫びが重なり、裂けるように響いた。
それをきっかけに、先程まで抑え込まれていた統領軍と護衛兵の争いが一気に噴き上がった。
アリセルは駆け寄りざま、両手でルネの喉元を押さえる。
掌の下から吹き出す血は驚くほど熱く、生きたもののように脈打ちながら、指の隙間をすり抜けていった。
涙でぼやけた視界の端に、落ちたナイフを見る。
刃の根元に小さな三日月と星の意匠が刻まれたそれは、以前アリセルがルネに贈ったものだった。
違う。
ちがう、こんな事のために渡したんじゃない。
思考は言葉にならず、意味を成さない声だけが、喉を勝手に突き破って飛び出していた。
ルネの喉元を押さえる手が血で滑る。止めたい、止めなければ。
その一心で必死に傷を覆うが、掌の下から脈打つ血は熱を失わぬまま止まらない。
不意に破裂するような音が響いた。
アリセルの頬に熱を残した風が掠め、その瞬間、ルネの身体が跳ねる。
声もなく、瞬きもせず、ただ力が抜けていき、彼はその場に倒れた。
アリセルの足が力を失い、音もなく地に膝をつく。
ルネに向けて引き金を引いたあと、ノクスは煙を残す拳銃をゆっくりと下ろした。その眼差しがこちらを捉え、目が合った。
ユーグの瞳は冬空色だ。
その色がアリセルは好きだった。
だが同じ青の筈なのに、今はまるで全てを拒む氷のように見えた。
例えそれが演技だったとしても、かつて親しくしていたルネを撃った直後にありながら、彼の顔には何の色も浮かばない。
「……なんで……」
アリセルの唇が戦慄く。
何を言おうとしているのか、自分でも分からなかった。上半身を折り曲げて、倒れたルネの背へ、そっと頬を寄せる。目を閉じたルネの横顔は、眠っているようにも見えた。
ノクスは革の留め具へ拳銃をおさめる。
そのままアリセルのことも、倒れたルネのことも、振り返ることなく、交戦の方へと歩き去っていった。
彼が去ると同時に、混乱の只中からミーシャがよろめくように現れた。
足元はおぼつかず、乱れた息を散らしている。
「……ルネ様……アリセルッ……!」
掠れた声とともに、ミーシャは地面に膝を落とし、アリセルの肩を掴んで強く引き寄せた。泥に汚れた顔を押し付けるようにして、震える腕で娘を抱き締める。
唐突にアリセルの目が、一点に吸い寄せられた。その先を、風に乗った軽やかな影がかすめていく。
それは紫の蝶だった。
ゆるやかに舞い降り、血に濡れたアリセルの腕をかすめて、またふわりと浮かび上がる。
パープルエンペラー。ルネに見せたかった、夢のような蝶。
この季節に現れるはずもなく、ふだん姿を見せることもない。出会えるのは、ごく稀だ。それなのに、まるで奇蹟のように、今ここにいる。
背後では、護衛兵と統領軍が入り乱れ、怒号と嘆きが交差していた。
血の匂いが風に乗って漂い、地は踏み荒らされ、あちこちで剣と銃声が鋭く弾ける。
だが、紫の蝶はそんな地上の争いなど知らぬ顔で、光を纏いながら、ただ優雅にルネの周囲をめぐり続けていた。
……もう大丈夫、苦しいことは何もない。
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