看守の娘

山田わと

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Echo80:辿り着いた場所

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 どの位の時間が経ったのか、アリセルには分からない。
 ただ、掌こびりついたルネの血は、いつの間にか乾き始めていた。

 ルネの亡骸の周りを、紫の蝶が一際、大きくひと巡りする。そして静かな弧を描きながら、雨上がりの空へと舞い上がっていった。
 ルネの魂の化身のような蝶が彼方へと消えていくまで、アリセルは瞬きすら惜しんで見つめていた。

 護衛兵と統領軍の戦闘は、すでに終息の兆しを見せていた。
 統領軍は秩序と整然さを取り戻し、対する護衛兵は倒れる者が相次いだ。

 やがて、戦場に完全な静けさが訪れた。
 剣戟も怒号も、もうどこにもなかった。
 代わりに残されたのは、地に伏した兵の呻きと、風に揺れる旗のかすかな音だけだった。

 統領軍が、すべてを制圧したのだ。

 護衛兵たちは次々に剣を捨て、その場に膝をついてゆく。
 その中を、ノクスは歩いた。
 表情ひとつ変えず、兵に指示を与えていたジョゼフのもとへと、真っ直ぐな足取りで進んでいく。
 周囲の者たちは、まるで息を忘れたかのように、ただ黙ってその光景に見入っていた。
「負けを認めよう」
 両手を挙げてジョゼフは言う。
 アリセルはゆっくりと父に視線を向けた。
 ジョゼフはひどく遠い目をして、目の前の現実をどこか他人事のように受け止めているようだった。
 ノクスの手が腰に収めた拳銃へと伸びる。
「待ちなさい!」
 途端にミーシャが弾かれたように叫んだ。
 アリセルを抱き締めたまま、裂くような声で言葉を続ける。
「現政権は法による裁きを掲げてきたでしょう? 降参した者をその場で殺すことは、理念に反するわ。あなた自身の手で、秩序を崩すなど許されないわ!」
 母の温もりを感じながら、随分と都合の良い言葉だとアリセルは思った。
 政権を覆そうとした者が、今になってその制度を盾に取るなんて。
 ノクスはミーシャに視線を投げかける。
「そうだな。今の統領エリックならば、そう言うだろう。王政時代ならいざ知らず、今の制度では裁判なしに裁くことはできないし、殺すなど論外だ」
「だったら……」
「けれど、あいにく俺はあの男とは違うんでね」
 一言でミーシャを断ち切るように告げてから、ノクスは再びジョゼフに視線を戻す。
 右手に握られた拳銃が、静かにジョゼフの額をとらえる。
「……前々から、あんたの事は殺したかったんだ、ジョゼフさん。最後に、何か言い残すことはあるか?」
 その問いに、ジョゼフは無言のままノクスを見返した。次いで、ゆっくりと目を逸らし、アリセルを見た。
「アリセル……」
 静かに名を呼ばれ、アリセルは真っ直ぐに見つめ返す。父の目に、あの頃と同じ穏やかで温かな色が宿った。
 ジョゼフは微笑み、そして言った。

「私はお前を――愛している」

 瞬間。
 今まで完璧に抑え込まれていた感情が裂けるように、ノクスの双眸に苛烈な怒りが閃いた。

「……ゲス野郎っ!」

 吐き捨てるような叫びとともに、引き金が引かれる。
 銃声が炸裂したのは、言葉とほぼ同時だった。
 ジョゼフの身体が崩れ落ちる様子を、アリセルはじっと見届ける。
 父の死を前にしても、胸の内には何の波も生まれなかった。
 悲しみも、怒りも、浮かばない。
 心は冷たく沈み、すべてが凍りついていた。
 けれど、その中で「愛している」の一言だけが異物のように、心を掻くような不快さで絡みつく。
 仰臥するジョゼフに、ミーシャは絶叫する。
 鼓膜に突き刺さるその声がうるさくて、アリセルは微かに眉を寄せた。
「アリセルが見てるのよっ!! 目の前でこの子の父を撃てるなんて、あんたは化け物ねっ!」
「だったら、お前たちは何だっ!」
 ノクスの声には、惨烈な程の激情が滲んでいた。
 乱れた息を深く押し込めるように、彼は片手を顔にあてた。
「夫婦揃ってつくづく不快な奴らだな」
「ねぇ、よく見てあげて」
 ミーシャは笑いながらアリセルの頬に手をあてがい、無理矢理ノクスの方へ顔を向けさせた。
「ねえ、アリセル。ちゃんと見てあげて。あなたの夫となるルネ・サントレールを。そして、あなたを愛し、慈しみ、育んできた父と母を……。そしてあなたを欺いて、そのすべてを奪った男の顔を。目を逸らさず、よく見なさい」
 顔を掴まれたまま、アリセルは抵抗もできず、導かれるままにノクスを見る。
 ノクスは、ゆっくりと顔に添えていた手を下ろした。
 あれほど激しく揺れた感情の気配は、すでに跡形もなく消え去っていた。
 そんな彼に向かい、ミーシャは歌うように優しい声で告げる。
「さあ、殺しなさい。ジョゼフを撃ったように、アリセルの目の前で私も撃ちなさい。この胎から生まれた娘に、愛する母親が死ぬ瞬間を、見せてあげて」 
「女を殺すつもりはない」
「最後に逃げるのね……。中途半端なのは、お父様に似たのかしら。……そうだ思い出したわ! 統領の妻、ロザリー・ジルベール。あなたのお母親のこと。お可哀想に、気狂いのお母様は檻の中だそうね。今頃、鎖でも噛んで暴れていらっしゃるのかしら。……ふふ、虚飾の男に白痴の女。生まれた子は不完全な化け物だなんて、素敵なご家族よね!」
 アリセルの奥歯に力がこもる。
 すぐそばで喚くミーシャの声に、脳を掻き乱し、意識をぐずぐずと溶かされるようだった。
 母の唇から吐き出される言葉はおぞましく、まるで別の何かが彼女の中に入り込んでいるかのように思えた。
「ねぇ、あなた。出自まで消されて、本当は生まれることを望まれていなかったんじゃないの? お母様は子どもなんて要らないのに、脚だけは開いたのねっ」
 うるさい……。
 耳元で喚かないで。なんでそんなに喋るの。うるさい、やめて。黙って。うるさい。
 声が、頭に響く。
 もう聞きたくない。喋らないで、お願い、やめて、やめて……。これ以上、優しかった私のお母様を穢さないで……。

 気づけば、三日月の柄のナイフを手繰り寄せていた。
 どうして掴んだのか、分からない。
 ただ、手が勝手に動いたのだ。
 アリセルの腕が、ゆっくりと持ち上がった。
 無意識のまま、ミーシャの喉へ刃が向かっていく。

 黙らせなければ。
 この母の顔をした"何か"を黙らせないと。

 ただその思考だけが渦巻いていた。
 アリセルの手の中で、ナイフの刃がわずかに揺れた。
 その切っ先が、ミーシャの喉に触れかけた、その刹那、耳を貫くような銃声が響いた。
 ミーシャの身体がのけ反るように跳ね、撃たれた勢いで後ろに弾け飛ぶ。
 火薬の匂いが漂う。
 静まり返った空気の中で、アリセルは刺そうとした姿勢のまま硬直していた。
 やがて、首だけを動かし、倒れた母の方へ顔を向ける。

 ミーシャの唇が、かすかに開いた。
 血の泡が滲み、途切れた息が音にならず漏れる。
 それでもアリセルは、その口の動きが何を告げたのか、分かってしまった。

 ――あいしている。

 その言葉に、体の奥を虫が這いずるような感覚が走ったときには、母はもう息をしていなかった。

 雨上がりの丘を、透明な風が吹き抜けていった。
 湿った草の上には血の匂いがまだ漂い、けれど空だけはどこまでも遠く、冷たく澄んでいた。
 そんな中、アリセルの胸に浮かんだのは、ああ、これで静かになった、というひとつの思いだけだった。
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