看守の娘

山田わと

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Echo12:神の光

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 今日は、ルネに渡すものがいくつかあった。

 先日ユーグが買ってきた毛布に加えて、アリセルは市場でいくつかの品を選んでいた。
 肩を覆える薄手の羽織りと、小鳥の絵の画集、琥珀色のガラスがはめ込まれたランタン。

 恐らく、ルネはそれらにも特に反応を示さないだろう。

 それでも、彼に何かを手渡せるということ自体が、どこか心を浮き立たせた。
 牢の扉を開けるとき、アリセルは自然と口元を引き締め、いつもより少しだけ丁寧に頭を下げた。

「おはようございます」
「ルネ、おはよ」
 後ろから、毛布を抱えたユーグが続いた。
 ルネは壁際に膝を抱えて座ったまま、視線を動かすことも、顔を上げることもなかった。だが肌の色は少しだけ明るくなり、頬の線もほんのわずかにふっくらとしていた。
「昨日は眠れましたか?」
 返ってくるのは深い沈黙だ。ルネは膝を抱えたまま動かず、目線も床に落としたままだった。
 アリセルは構わず、袋を手元に置く。
「今日はね、いいものを持ってきたの」
 そのまま布の袋の口を開き、中身を一つずつ取り出しては、ルネの前に並べていく。
 ルネはまるで何も見えていないかのように動かない。アリセルは、彼の様子に目を向けるでもなく、最後に羽織を取り出して立ち上がる。
「ねえ、ルネ様。ちょっと着てみませんか?」
 アリセルが羽織を軽く揺らしながら呼びかける。反応はない。
「じゃあもう、勝手に着せちゃうから」
 少しだけおどけるように言いながら、羽織を肩にかける。
「それじゃあ、こっちも」
 アリセルが羽織を直しているところへ、ユーグが毛布を大きく広げ、そのまま二人をまとめて包み込んだ。突然すっぽりと布にくるまれて、アリセルは一瞬きょとんとした後、くすぐったそうに笑う。
「ちょっと、ユーグやめて」
 ルネの肩に手を添えたまま、身を縮めるようにして毛布の中で笑った。
 内側には、ほんのりとしたぬくもりと、人の気配がこもっている。
 視界はすっかり遮られ、音も少しだけくぐもって感じられた。その閉じられた空間が、妙に落ち着く。息が詰まるような窮屈さはなく、むしろ、こっそりとどこかに隠れているような気がして、楽しかった。

 ふと、ルネと間近に目があった。

 彼の瞳が青いことは知っていた。
 だが、よく見ると、その青の中には夜空に浮かぶ星のような金が点々と散っていた。アリセルの目がわずかに見開かれる。
 手先に力が入り、肩がほんの少しだけ強張る。
 胸の奥が浮き上がるような感覚とともに、まるで光に触れたときのように、呼吸が浅くなった。
 
『王家の血筋は選ばれたものよ。生まれながらにして、ほかの人々とは根本的に違う』

 ――母の声が、不意に脳裏をかすめる。

 しんとした毛布の中で、時間が一瞬止まったように思えた。

 ぱち、と瞬きをして、アリセルはそっと目を伏せる。耳の奥に、自分の呼吸の音がかすかに響いていた。布の端に手をかけ、ゆっくりと外に顔を出す。
 ひんやりとした外気が肌に触れ、視界が明るむ。毛布をめくると、隣でユーグが笑っていた。
「顔赤いぞ?」
「暑かったのよ」
 返事をしてから、アリセルはユーグに向かい、軽く背伸びをした。
 ユーグは察したように腕を組んだまま、わずかに膝を屈める。アリセルは彼の耳元にそっと顔を寄せ、内緒話をするようにささやいた。

「ルネ様の目の色、すごく綺麗なの」
「ああ、神の光が宿るって言われてる、王族特有の瞳だろ」
 アリセルはこくん、と頷いた。そうしてから、小首を傾げる。
「ユーグの目も、冬の空みたいな色で綺麗よね」
「今、ついでで言っただろ」
「お世辞じゃないよ、いつも思ってるもの」
「身に余るお言葉、痛み入ります」
「本当だってば!」
 軽口を交わしたあと、アリセルは壁際に掛けられた古びた雑巾を手に取った。
 窓辺の棚には、掃除道具がいくつか雑然と並んでいる。

 小さなバケツ、刷毛、乾いた布、それに口の欠けた瓶に入った石鹸水。
 どれも家から運び込んできたものだ。
「今日は窓からにする」
 そう言って、桶に水を張る。瓶の中から石鹸水を数滴垂らし、指先でそっとかき混ぜると、薄い泡が静かに広がり、わずかに光を反射した。
「了解。じゃあ、オレは壁のほうをやる」
「うん。気をつけてね。あちこちガタがきてるから、壁に寄りかかったら崩れちゃうかも」
「壊したら直すさ」
 彼の軽い声に、アリセルは小さく笑って頷いた。
 それから窓の錆びた留め金に手をかけ、慎重に開ける。軋む音とともに、外の空気がふわりと入り込んだ。埃と石のにおいの奥に、青草の気配がわずかに混じっている。

 窓枠の木の溝には、細かな土や虫の殻が溜まっていた。

 アリセルは布を絞り、手を添えてその汚れを一つ一つ丁寧に拭き取っていく。
 水気を含んだ布が木に触れるたび、ざらついた感触が指先に伝わった。

 壁のほうを見遣ると、ユーグが刷毛で石の表面をなぞり、そのあとを湿らせた布で丁寧に拭き取っていた。力任せにこするのではなく、何かを確かめるように静かに布を動かしている。手つきに迷いはなく、その動作には落ち着いた確かさがあった。
 几帳面な性格にくわえ、こうした作業にも慣れているのだろう、とアリセルは思った。

 窓枠を拭き終えると、アリセルは一度布をすすぎ、仕上げ用の乾いた布に持ち替えた。
 そして窓の表面にそっと手を伸ばし、磨いていく。くもっていた硝子が少しずつ澄んでいき、やがて外の風景が映り込んだ。揺れる葉の影と、淡い空の色が、揺らめくように硝子の向こうに浮かんでいる。

「ほら、見て。外が見えるよ」
 振り返りながら言うと、ユーグがほんの少し顎を上げて視線を寄越したようだった。
「やればできるじゃないか」
「失礼ね。普段は何もできないみたいに聞こえるじゃない」
 ふたりの声が重なったあと、小さな沈黙が生まれた。
 けれど、その沈黙はどこか穏やかで、窓から差し込む光とともに塔の一角に満ちていくようだった。
 
アリセルは手を休めて、ルネの様子を見遣った。

毛布を頭からかぶされた彼は、相変わらず身じろぎひとつしない。だが彼の姿は寒がりの小動物のようで、どこか少しだけ可愛らしかった。
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